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まだ「そこ」にいる 4

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 薄暗いマンションの階段を昇る恐怖は途中から疲労と膝の痛みで吹っ飛び、休み休み進んで、自室がある5階へたどり着く頃には精魂尽き果てていた。

 引っ越す。もう絶対引っ越してやる。

 住処を変える資金など無い貧乏暮らしも顧みず、五十嵐は虚しい誓いを胸に、通路の手すりを掴んで呼吸を整えた。

 気を取り直して腕時計を見る。午後8時40分。もうすぐ富岡や臨と約束した時刻だ。

 よっこいせ!

 一つ気合を入れ、五十嵐は夜空を望む老朽マンションの外廊下を歩き出した。

 今日は月が見えない。星の瞬きを覆い隠す分厚い黒雲を見上げ、風が吹き込むたび冷える汗に気色悪さを感じながら、何とか自室の玄関まで辿り着く。

 ドアノブへ手を掛け、五十嵐はハッとした。

 鍵が開いているのだ。こじ開けられた痕跡は無いから、ピッキングで侵入したに違いない。

 手下か、隅の!?

 五十嵐の血相が変わり、体内のアドレナリンが噴き出して、疲れや痛みを放逐した。

 何か、武器になるものは……

 ドアを開ける前に、愛用の手提げ鞄をまさぐる。取り出したのは警棒の形をした長いシャフトを持つスタンガンだ。

 なけなしの金を払って取り寄せた軍隊仕様で、電圧は15万ボルト。800g近い金属シャフトは並の警棒より威圧感がある。

 しっかり握りしめ、五十嵐は玄関のドアを勢いよく開いて、中へ飛び込んだ。

 灯りはついていない。

 上がり框に手提げ鞄を置き、スタンガンを正眼に構えて、暗い廊下を進んでいく。

 書斎のドアの隙間から、微かな光が漏れていた。

 突進して書斎へ……中は酷く散らかっている。元々、整頓とは無縁だが、また一段と酷い有様だ。

 書棚は転倒。丹念に集めてきた書類は、色褪せた絨毯の上で足の踏み場もないほど散らばっている。

 ベランダへ続くサッシはガラスが割られ、半ば開いたままで放置。吹き込む風でグレーのカーテンが揺らぐ度、カタカタとレールの音がした。
 
 俺の部屋は天地無用だ、くそったれ!

 苛立ち紛れに悪態をつき、五十嵐は照明やコンセントの辺りをチェックした。以前の隅のやり口からして、隠しカメラや盗聴器の類が仕込まれていても不思議はない。

 スタンガンを手放さず、額に汗して調べ回る内、書斎の中で唯一倒されていない机の方で音がした。

 愛用するデスクトップ・パソコンの起動を示す電子音だ。
 
 スリープ状態だったものが、LAN経由で外部から来る入力信号により動き出した様だが……

 いきなり表示されたのは、あの『タナトスの使徒』のHP。

 五十嵐は、能代臨から聞かされた陸奥大学での不可思議なパソコン起動現象を思い出していた。

 その時は、赤い仮面の男と高槻守人の争う動画がリアルタイムで表示されたそうだが、これも同じ仕組みだろうか?
 
 考える暇もなく、勝手に動画再生のウィンドウが開き、聞き覚えのある声がした。

「やぁ、久しぶりだね、五十嵐君」

 動画ウィンドウの中に小さな部屋が現れる。

 アイボリーの壁の四方に名画のレプリカが一枚ずつ飾られており、正面の肘掛椅子に真ん丸な仮面を被った男が座していて、ゆったり頬杖をつき、こちらを見つめている。

 見覚えのある赤いビニール地のレインコートから何か床へ滴っていた。

 血か? 雨か?

 いや、そもそも、この動画は過去に録画された物か?

 それともリアルタイムでストリーミング放送されているライブ映像か?

 何ら判別がつかないまま、五十嵐がどんぐり眼を液晶モニターへ寄せると、ウィンドウの中の男は仮面を取った。

 ニタリと笑う。

 端正な顔立ちなのに、何処か子供じみた無邪気さが漂う微笑……忘れもしない隅亮二の顔だ。

 記憶より頬は大分こけている。

 顔色も青白く、体調の悪さを感じさせたが、青い鬼火が瞬くような独特の眼光は衰えていない。
 
「……舐めるなよ。お前の小細工にゃ騙されねぇ」

 五十嵐は呻くように言った。





 ここ暫く隅の生存の可能性について、丹念に調査している。

 肺癌が見つかった時、既に末期だったのは間違いない。当時の主治医と会い、カルテの存在も確認した。

 勿論、隅が失踪した後、治療に専念出来ていれば命を取り留めた可能性も有る。だがその場合、医師間で共有される治療データが残り、身を隠していられなくなる。

 何のデータも残っていない以上、隅は死んでいる筈。

 五十嵐の中で、ほぼ見極めはついていたのだが……
 
 
 
 
 
「こいつは昔の録画だろ。お前、とっくに死んでるよな?」

 その呟きを漏らすと同時に、画面の中の隅は優美な仕草で首を傾げて見せる。

「相変わらずだね。その不躾などんぐり眼、年を得て、さぞ下品に成り果てた事だろう」

 悪夢の中で何度も再現された隅の台詞だ。

「下品? そのテカテカのコートよりマシだぞ!」

 思わず、昔と同じ乗りで怒鳴り返す。

「ところで君、覚えているかい。ずっと見ている……そう私が言った事」

 画面の中の隅は唇を歪め、挑発的な色合いを口調に添えた。

「君次第で契約は無効。君は死に、君の家族は死に、私は思うまま殺戮のゲームを楽しむ」

「忘れられっか、そんなもん!」

「時の経過により、君は家族の誰かを失ったのかな? 或いは何処か遠くへ逃がそうとしたか」

 フェイクを交え、全て見通す印象を相手へ植え付ける話術は相変わらず巧みだ。サイコパスの常として人の心を探り、操る過程を楽しんでいる。

「でも、無駄だよ。私が作り上げたネットワークの力、君には想像もつくまい。何処へ逃げようとも、必ず為すべき事を成す」

 五十嵐は唇を噛み、額を伝う冷や汗の感触に耐えた。

 アメリカで暮らす娘と孫の顔が脳裏を過る。吹っ切った筈の恐れ、負け犬の服従心が舞い戻って来るのを感じる。
 
「さて、どうしてくれよう?」

 弄るだけ弄って、隅は肘掛椅子を廻し、こちら側へ背中を向けて間を取った。その背が小刻みに揺れ、笑い出す。

「宜しい。長きに渡る我が試みが最終局面へ達した祝いだ。もう一度、君を許そう」

 満面の笑みを浮かべたまま、隅は宣言する。

「実際、彼は目覚ましく成長した。高槻守人……五十嵐君、君が私との約束を破棄した理由も彼にあるのだろう?」





 隅の『試み』の主役が守人である事は最早疑う余地が無い。

 十年前、高架線下で幼い守人を捕えた際、隅は首を傾げ、絶体絶命の少年へ強い興味を示した、と言う。

 最初に話を聞いた時、五十嵐は隅の気まぐれだと思った。

 少年の常軌を逸した反応に接した際、隅の犯罪心理学者としての好奇心が殺意を上回ったのだと。
 
 だが、高槻守人の友人・能代臨の話を考慮に入れると、事件は違う色合いを帯びる。

 守人は人を殺す悪夢を何度も見た。

 しかも、その手口は過去のシリアルキラーをコピーする隅の犯行を更に模倣しており、同様の事件が実際に発生している。

 この時と場所を飛び越える奇妙な一致は何なのだ?





「最初のジョン・ウェイン・ゲイシーを模す絞殺の時点では気付かなくとも、次のテッド・バンディの再現からは、君、私との共通点を感じただろう?」

「あれだけ、あからさまなら、な」

「そう、君ならわかる。報道規制が行われ、事件のディティールが隠されていても、FBI研修以来の付き合いで、誰より私を理解する君なら」

「ふん、知るか、貴様の事など……」

 つい会話の乗りで嘯いた後、五十嵐は驚愕に目を見開いた。

 まだ起きて間もない最近の事件を、起きた順番と報道規制についてまで正確に隅は言及している。

 やはり、これはライブだ。

 今、奴はネットの向う側にいる。
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