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まだ「そこ」にいる 2

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 その頃、東京駅の八重洲北口付近では、能代臨が広大で入り組んだ構内に戸惑い、人が行き交う奔流の中、立ち往生している。

 夕方の東北新幹線で仙台から東京へ来て、北乗り換え口から地下鉄の入口を目指す途中、路に迷ったのだ。

 明後日は体育の日で連休になる。駅の利用者が増えるのは当然なのだが、この混雑ぶりは臨の想像を遥かに超えている。

 お上りさん特有の覚束ない足取りで、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしていると、

「あら、能代さん、どうしたのかしら?」

 臨の若干後ろに立ち、来栖晶子が冷ややかに言う。

「もしかして、あなた、迷っちゃったの?」

「あ、あたしが覚えているのと駅の中が違うんです」

「近年、大きな改装工事を経ましたからね」

「それにしたって違い過ぎますよ、コレ。元々広い上に、お店がアチコチ増えちゃって、構内の通路も前より複雑な感じ……田舎者にはハードル高すぎます」

 思わず深い溜息をつく。

 一見アクティブな割に臨はかなりのインドア派。趣味で旅行するタイプでは無く、経験値の欠如は否めない。

「東京くらい、あなたの年なら何度も来てるでしょうに?」

 教え子の迷走に晶子が素直な疑問を呈する。

「え~……二度目です」

「嘘」

「東京へ来た一度目は中学校の修学旅行でした」

「東京駅の改装前ね。高校じゃどうよ? 何処へ行くにも東京くらい通るでしょ?」

「高校の修学旅行は沖縄です」

「ふうん、今時の修学旅行って豪華だわ」

「その時、JRは使わなかったんです。仙台空港から直行便があって、沖縄まで片道3時間15分ほどでした」

「ふむ……聞いてて、凄~く贅沢な悩みに聞こえます」

 遠回しな嫌味を臨は笑ってごまかし、更に辺りを見回した。

 少し先に大きな案内図の掲示板がある。
 
 トトッとそちらへ走り、経路を見極めようとする臨の背へ、晶子のシニカルな視線が降り注いだ。
 
「今更、地図見るの? 凄い方向音痴ね」

「じ、事前にリサーチしてたら、ここまで迷ってません」

「ふむ、興味深い。猪突猛進するタイプの生き物って、往々にして方向感覚が鈍かったりするものだけれど」

「先生……意地悪ですね」

 いつものクールな物腰と違い、晶子はややご機嫌斜め。言葉に何かと棘がある。

 まぁ、自業自得かな、と臨は思った。

 今日の昼過ぎ、ラボをそっと抜け出そうとした所を晶子に見つかり、五十嵐の所へ行く予定を白状させられている。

 昨夜、隅について直接話したい事が有るから午後9時に来い、との電話連絡を五十嵐から受け取っていたのだ。

「一人で抜け出そうとしたって事は、あなた、私のアドバイス抜きでどうにかする自信があるのよね?」

 又、言葉の棘が突き出す。教え子の信頼不足を感じ、晶子なりに寂しかったのかもしれない。

「え~、あたしはその……そんなつもりじゃ」

「コッチはそう受け取りました。さぁ、行き給え、イノシシ娘。迷いの道を切り開け」

「先生……意地悪ですね」

 ヘソを曲げたまま、晶子は肩を竦めた。

 やれやれと思いつつ、臨は師の心遣いが嬉しい。
 
 晶子に無断で動いたのは、五十嵐が「誰にも言わず、あんた一人で来て欲しい」と念を押してきた為で、趣旨は不明ながら余程の事情がありそうに思えた。

 それに他にも理由がある。社会的に知名度の高い晶子を、これ以上スキャンダラスな連続殺人へ巻き込みたくない。

 公私に渡って多忙な上、志賀の乱入時には傷まで負わされたのに変わらず協力してくれている。

 いくらなんでも、これ以上、甘えちゃダメだよね。

 自責の念に囚われて目の前の案内図から視線を落とし、うな垂れた途端、晶子に肩を叩かれた。

「あのさ、下ばかり向いて前を見ない内は、何時までたっても迷子だよ」

「……はい」

「私に気を使う気なら、却って迷惑です。あなた、勢いで他人を巻き込む癖に半端な所で失速しちゃうから」

「それ……自分でもわかってるんです。高槻君にも前に似た事を言われて」

 合コンの夜、プロムナードで守人に罵倒された際の心の傷が久々に疼いた。あの時の守人はいつもと違う雰囲気だったが、言っている事は間違っていない。

 人の心に踏み込む資格なんか、あの時も、今も、全く無い。

「だから、下向くんじゃないの!」

 俯きかけた臨の顎を晶子が持ち上げ、前を向かせた。

「卑しくもイノシシ娘たるもの、走りだしたら最後まで爆走あるのみ」

「……あたし、イノシシのイメージ、確定なんですね」

「良いじゃない。来年の干支でしょ」

 屈託のない笑顔を晶子は見せた。

 精神神経医学教室のゼミに入った時、臨のトレーニング・アナリストを晶子は引受け、レッスンの一環として精神分析を自ら施している。

 あの時、少女時代に経験した殺人事件の記憶を含め、全てさらけ出した。今更、何も隠せはしない。
 
「先生、降参です。地下鉄への道、教えて下さい。あたし、この調子じゃ何時まで迷うか」

「ん~、苦手な課題で追いつめられる女子大生の観察に、只今、心理学上の興味が募っていまして」

「先生……意地悪ですね」

 仕方なく、もう一度、構内案内図を臨は睨む。

 方向音痴なりに何とか道筋を覚え込もうとする内、新幹線乗り換え口の方から近づいてくる足音がした。

「あ~、能代さん、奇遇だなぁ。同じ新幹線でしたかね」

 間延びした男の口調に振り返ると、富岡刑事が片手を上げて歩み寄り、相棒の笠松も同行している。

「富岡さん……もしかして尾行してたとか?」

「そんな、滅相も無い。実は五十嵐さんに呼び出されましてね、これからお宅へお伺いする事に」

「あ、あたしも同じです!」

 やはり重要な事実を五十嵐は掴んだのかもしれない。

 隅亮二の過去、現在の消息を調査中、と聞かされていただけに二人の間で緊張が走る。

 もっとも、後ろの笠松には伝わらなかったようだ。

「東京と宮城、行ったり来たりの連続で……いい加減、疲れちゃいましたよ」

「あ、その人がグチ男さん?」

 晶子が臨に訊ねる声で、笠松が目を丸くした。

「あ、ご挨拶が遅れました。私、陸奥大学で心理学の教鞭をとる来栖晶子と申します。前に御連絡を頂きましたね。返事が遅れてしまい、申し訳ありません」

「あ、いえ……私、警視庁捜査一課の富岡です。もう、お怪我の方は宜しいんですか?」

「今回の事件には学術的な興味がありまして、いつまでも寝ていられません」

「ほう、それは頼もしい。ですが来栖先生も被害者の一人です。警察の立場として危険に深入りするような行動は」

「ご心配なく。教え子ともども節度は弁えてます」

 晶子が富岡へお得意の優美な笑みを向け、隣の臨も調子を合わせて愛想笑いを浮かべる。

「それなら結構。隣にいるのは同僚の笠松刑事で……」

「能代さんには俺、グチ男の印象しか無かったみたいですけど」

 少し棘のある言い方を笠松はした。

 今日、こんなんばっかりだな、と臨は思いつつ、若い刑事へ頭を下げる。

「すみません。刑事さん達が大学へ来られた時の説明を来栖先生へしていて、つい口が滑ったと言うか」

「親しみの表現ですよね。気にしないだろ、笠松君」

 肩を竦める笠松へ臨は親近感を持った。マイペースな「上」に振り回される下っ端同士のシンパシーと言う所だろうか。
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