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或る人殺しの肖像 7

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 見下ろす隅が小さく頷いた。

「宜しい。まだ、君を殺さない」

 喉元のメスを引き、胸元に乗せた右足も下へ降ろして一歩退く。

 息苦しさから解放された弾みに、五十嵐はひどく咳き込んだ。

 体を丸め、隅を見上げたが、起き上がる事は出来ない。恐怖で縮み上がった全身の筋肉に全く力が入らない。
 
 乱れた白衣の襟を整え、診察用の肘掛椅子に座り直した隅が、そんな五十嵐へ向けた眼差しは優し気にさえ見えた。

「ちゃんと聞こえたかい? 今、私に君を殺害する意思は無い」

「嘘だ……」

 絞り出す声が掠れる。

「その気なら君の口を塞ぐのは簡単なのに、何で嘘をつく必要がある?」

 隅はキャビネットの引き出しを開け、メスを細長い木製の容器へ丁寧にしまった。

「あのね、君だけじゃない。この先、私は一切の殺人行為から手を引こうと思うんだ」

 信じられない。幾つも余罪を匂わせておいて、今更……

 大体、シリアルキラーは加虐の快感に依存する一種の中毒者だ。麻薬の常習者と同じく、本人がどんな腹積もりであろうと、いずれ飢え、欲望を満たすのがお決まりの成り行きじゃないか?

 五十嵐は見開いた眼差しで、そう問うたが、

「見つけてしまったんだよ、もっと、ず~っと面白い事を」

 答える隅の声には、生徒を諭す教師の趣がある。

「何だ、その面白い事って?」

「サイコパス・ネットワークを上回る、極めて興味深い学術的な実験さ」

 ふっと笑う。

 先程の露骨な殺意は五十嵐に初めて見せた隅の一面だが、この何処か幼い……まるで玩具を与えられたばかりの子供に似た喜悦の表情も見覚えが無い。

「ねぇ、運命的な出会いって、君は信じるかい?」

「はぁ!?」

「私はそれを体験し、或るインスピレーションを得た。そして他は皆、どうでも良くなってしまったのさ」

「何の事か判らんが……犯罪ならわしゃ黙っちゃおらん。たとえ殺されようと、お前の所へ化けて出て……」

 勇気を奮い起こす五十嵐に、隅は肩を竦めて見せた。

「いや、君は沈黙を守るだろうね」

「どうして、そう言い切れる?」

「何故なら、これから私と或る契約を結ぶからだ」

 ダークウェブ版『タナトスの使徒』に秘められたポップアップ・スイッチの一つを隅は作動させる。

 幾つかの小さなウィンドウが開かれ、その中に表示される映像を覗き込んで五十嵐は絶句した。

 一つのウィンドウには、東京近郊の住宅地に立つ三階建ての小さなマンションが映し出されている。

 そこは五十嵐の家族が住む借り家だった。

 画面が時々微かに揺れる所を見ると、路上の何処か、電柱にでも偽装された小型カメラが固定されているのだろう。
 
 隣のウィンドウには台所の中が映っており、買い物から戻ってきた後、何か凝った料理の下拵えを始めた五十嵐の妻・静代の横顔を確認できる。

 軽やかな鼻歌が聞こえるから、監視カメラだけでなく、盗聴器も台所の何処かに仕込んである様だ。

 先程、自分の死を予期した時より、一層冷え切った汗が額へ滲むのを五十嵐は感じた。

「隅……こんなもの、何時の間に!?」

「うん、君の一家がその部屋へ引っ越した時、電気工事の業者に化けて仕掛けたらしいよ」

「らしい?」

「勿論、私が自分で仕掛けた訳じゃない。ネットワークのメンバーが気を利かせてくれてね」

 隅は更に別のポップアップ・スイッチを作動させ、動画の内容を変化させる。

 今度の撮影対象は学校だった。

 五十嵐の、まだ11才の娘・公佳が通う小学校の光景であり、体育の授業中に校庭を走る少女の愛らしい姿を確認できる。
 
「が、学校まで!?」

「うん、イイよね、これも」

「一体、どうやって?」

「我がネットワークの広がりを甘く見てもらっては困る」

 要するに隅は、配下が五十嵐の周囲に日頃から潜んでおり、それが誰か特定するのも、リスクを排除するのも不可能、と仄めかしていた。

 不都合な情報を漏らせば妻や娘を即座に殺害する、との露骨な脅迫である。

 対処の術は何一つ思いつかなかった。

 職場の同僚へ協力を依頼しようにも、監視者に気付かれない自信は無く、警察に入り込んでいた時期が隅にある以上、本庁内部に協力者がいないとも限らない。

「さっきも言った通り、この先、より高尚なテーマで忙しくなる。色褪せた実験対象へ手を出す暇なんて無いんだよ」

「だから、わしに黙っていろと……」

「もし私が先に契約を破り、犯行に手を染めたと見なされる場合は好きにして良い。どう、フェアなディールだと思わないか?」

 五十嵐は俯き、奥歯を噛みしめた。

 どうせ逆らう余地は無い。

 モニター上の台所、小学校の映像には秒単位のクロック・アプリが付いていて、正確に現在の時間が表示されている。即ち、リアルタイムで撮影されているのだ。

 今、この瞬間にも家族を殺せと指示が出せるに違いない。
 
 隅の浮かべる余裕の笑みが、その事実を物語っている。

「言うまでも無く、こちらがルールを守っている間に君が余計な真似をすれば、契約は失効。君は死に、君の家族は死に、私は思うまま殺戮のゲームを楽しむ」

 マウスのクリック操作でモニターは再び、隅か、その仲間が行ったであろう過去の惨劇を幾つも映し出し始めた。

「わかった。あんたの言う契約を結ぼう」

 その苦し気な声は、全面降伏の証しに他ならない。

「では、くれぐれも忘れないで欲しい。私の同胞はいつも君を見ている」

「……ああ」

「最後まで、良き理解者としてステージの最前列に座り、実験の行く末を見届けてくれ給え」

 最早、五十嵐には頷く事しかできなかった。





 犯罪心理学者としての矜持をかなぐり捨て、プロファイリング研究室の主任研究員と言う恵まれたポジションをも放り出して、彼が警察を辞めたのは、それから半月後の事である。

 更に半年後、五十嵐は妻と離婚。親権を手放し、天涯孤独の一人暮らしを今日まで続けてきた。

 隅との秘めた契約を一途に守り続けて……
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