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或る人殺しの肖像 4
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2008年6月26日 木曜日。
例年より少し早い梅雨入りをした関東地方に、この時期としては冷たく感じる強い雨が降っている。
人気の無い停留所でバスから降り、五十嵐武男は皮ベルトが擦り切れている愛用の腕時計を見た。
午後2時過ぎだ。気象庁によると冷夏になるそうで、17度あった朝方の気温が、今は体感的に15度を切っている。
もっと厚着で来りゃ良かったか?
薄手のワイシャツに白衣を羽織る職場じゃ着たきりの恰好が水溜りに映り、肌寒そうに見えた。
まぁ、仕方無ぇ。着替えてる余裕なんて無ぇもんな。
自身が若い頃に書いたレポートと捜査中の事件が関わっている可能性に気付いた後、彼は衝動的に科捜研を飛び出し、旧友の診療所がある、この千葉郊外の住宅地へ駆けつけている。
造成されてまだ数年しか経っていない新興の土地だ。
比較的裕福な層が開発のターゲットらしく、中庭と駐車場が備わった新築二階建てと地ならし中の広い土地が目立つ。
バスと電車を乗り継げば東京駅まで一時間半程度しか掛からない立地条件の良さもあり、バブル崩壊以来、押し寄せてきた不動産不況の中でも結構なニーズがあるらしい。
植えられたばかりの街路樹を雨の露が伝い、連れ立って下校してくる小学生たちがそれを弾いて遊んでいる。
閑静な住宅地の如何にも和やかな光景だった。
だからこそ、そこで開業した旧友が関わる凄惨な事件とのコントラストを意識せずにいられない。
携帯のマップ頼りに歩を進め、五十嵐は高い塀と連なる立派な門構えの『隅 心療内科クリニック』に辿り着いた。
住居兼用で、大きいのは門だけではない。
三階建ての建物はちょっとした総合病院並みの広い敷地を持ち、塀の防犯用ビデオカメラなど、セキュリティシステムが完備されている様だ。
豪勢だな。羽振りの良いパトロンでも捕まえたのかよ。
そんな風に勘繰りつつ、医院の門を潜ろうとして、五十嵐は『本日休診』とLED光で表示されているのに気づいた。
「おい、誰かいないか! 院長に急用なんだ」
インターホンに向けて怒鳴ってみたものの、何ら反応は無い。門戸も施錠されている。
事前に訪問を伝えるべきだったか?
いや、突然押しかけて意表をつくのでなければ、抜け目のない隅から本音を引き出すのは無理だろうし……
どうしたものか迷っていると、雨の降りが一層強くなり、アスファルトを打つ雨音に混ざって接近する足音が聞こえた。
何気なくそちらを見た途端、五十嵐の全身が凍り付く。
異様な存在が雨靄の向うで揺らめいていたのだ。
てるてる坊主、てる坊主、あした天気にしておくれ。
光沢のあるレインコートを着、片手に握る細長い杖をリズムカルに振って、童謡を口ずさんでいる。
富岡と言う若い警官の証言が自ずと胸に浮かんだ。
女を殺し、子供を襲った通り魔は、撥水性の高いコートを身に着けていたと言う。その色は目に焼き付くほど鮮烈な赤。
そっくり同じ姿が今、ゆっくり近づいてくる。
それでも曇って泣いてたら、そなたの首をチョンと切るぞ。
歌声に合わせて踊るような足取りだ。
クリニックの前で立ち尽くす五十嵐を見かけると、そいつはフードを少したくし上げ、懐かし気な笑顔を見せる。
細面で、鋭い眼差しと猫科の獣に似たしなやかな体つき。
二年ほど前に会った時より更に痩せ、より研ぎ澄まされた印象ながら、隅亮二に間違いない。
「よう」
旧友は、袂を別った年月を感じさせない親し気な声を出した。
「よう」
五十嵐も昔のノリで片手を上げ、隅が目の前まで近づいた時、赤いレインコート姿を改めて睨む。
「身だしなみに気を遣うタイプだと思ったが、暫く会わない内に趣味が変わったな」
「君は相変わらずだね、五十嵐君。そのどんぐり眼の藪睨み、年を経ても尚、不躾で下品だ」
「下品? そのテカテカのコートよりマシだろ」
「フフ、実に良い感じなんだよ、君には理解できまいが」
内心の恐怖を押し隠す五十嵐に対し、隅は優雅にコートの裾を翻して見せる。
「以前、これを着て、ある作業の後始末をした。その日も今日と同じく雨模様でね、若干、返り血……作業の汚れが袖口に付着したんだが、構わず街を歩いて帰った」
「か、返り血?」
雨で周囲の音が聞こえにくいとは言え、他に通行人がいる路地で放つ言葉とは思えない。
そう言えば埼玉で女が腹を抉られた昨年の9月も、生温い雨が連日降っていたっけ。
こいつ、あの事件を仄めかしているのか?
微笑む隅の表情からはそれ以上、何も読み取れない。門のLEDが光沢素材を照らし、滴る雨の滴を赤く染めて、五十嵐には鮮血の色合いに見えた。
「大人用には珍しい色のコートだから、道端でも変な目で私を見る人がいる。でも、この裾から落ちる滴が何か? 只の雨か? それとも人の血か? 誰一人として気付かない。気付き得ない」
笑いをこらえる声だった。
五十嵐の記憶の中では、ごく稀にシニカルな笑みをこぼす程度の表情に乏しい男だったから、話していて違和感がこみ上げる。
「で、雨の日には時々、これを着て散歩する。特別なイベントをこなした後の、あの独特な高揚感を反芻する為にね」
特別なイベントという部分を強調する言い方をした後、ふと言葉を止め、首を傾げてこちらを見つめる。
「で、君、今日は何?」
「久しぶりに語り合おうかと思って来た。例えばあんたの、その高揚感って奴について」
「ほう……良いね。実に良い」
その静かで底知れない漆黒の眼差しを受け止め、闇に覗き込まれる、とはこういう感じかと五十嵐は思った。
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