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しおりを挟む夏を待ちわびる猫なんて、もうこの国の何処にもいない。
2020年代半ばの6月、JR吉祥寺駅から井之頭公園へ向う途中の繁華街をぶらつきながら、猪又有紀は思った。
見上げると、如何にも梅雨という感じの曇天だ。
時刻は間も無く午後八時。
とっくに陽が落ちているのに、ひどく蒸し暑い。中学の頃から変えていないセミロングの髪の裏、うなじの汗が乾いて痒かった。
梅雨の時期はいつもこうだ。
あぁ、もう! いっそ掻きむしりたいけど、ガマンガマン。
おっとりした性格で、何かとワンテンポ遅れがちな有紀でも、今年はショートヘアへ挑戦しようか、等と思わずにいられない。
何せ、後一月も経たない内に、不快指数MAXのカンカン照りがやってくるのだ。
令和に入ってから、一週間ぶっ続けの真夏日なんて当たり前。去年は40度を超え、新記録の42度に迫る日さえあった。
挙句、記録破りの猛暑とか、100年ぶりの異常気象とか、今や、耳タコも良い所のフレーズを、女子アナの軽~い口調で聞かされる羽目に……
あ~、やだやだ。カンベンしてよ。
ニンゲンがこうなのだから、全身毛皮の猫達にとって、昨今の夏はどれほど過酷な季節なのだろう?
ちなみに当年とって32才の有紀が暮らす六畳一間の安アパートは備え付けのエアコンが半年前に壊れたままで、大家はホッタラカシのシランプリ。
自費で直せば良い話なのだが、真っ赤っ赤の家計簿がその余地を与えてくれない。
終わりの見えないインフレと値上げラッシュが怒涛のコンボで細やかな賃上げを蹴散らし、か弱いOLの懐へ会心の一撃を与え続けているのだ。
秋までもつかな、私も、猫も……?
有紀はやるせなく呟き、場末の赤提灯が並ぶ薄暗い通りの横道へ逸れて、そのまた奥の裏路地へ足を踏み入れる。
「……ピート……ピート、いる?」
お目当ての袋小路へ着き、かゆいうなじを20秒ほど引っ掻いた後、ナップサックから煮干の袋を取り出す。
その何本かを掌に載せ、有紀はゴミ置き場の収容ボックスの方へ呼びかけた。
ここは付近に住む猫の溜り場。
表通りにある投資顧問会社・櫛田ファンドで働く有紀が、近くの赤提灯で呑んだ夜に見つけ、仕事帰りの道草を楽しむ癒しの場である。
ニャア。
間も無くボックスの物陰から、立て縞のある灰色の猫が姿を見せた。
「……今夜もお前だけなのね」
野良猫の割に清潔なのは、街猫を邪険に扱わず、毎秋、猫祭りなるイベントまで開催する吉祥地の土地柄かもしれない。
寄ってきた縞猫が煮干しを舐めた。
食事中にかまうと大抵怒るが、この少し太めの雄は見るからにフレンドリー。
おっとりした性格は有紀と似ており、初めて会った時から警戒心を示そうとしない。撫でても静かに身を委ねている。
「ありがと、ピート。これで明日もがんばれそう」
ゴロゴロ喉を鳴らす音を聞き、職場のストレスが薄れていくのを感じた時、
「ウン、実に良いよね、猫って!」
唐突に通りの方から声が飛んで来る。
驚いて振向くと、薄汚れたカジュアルスーツを着込む三十代半ばの男が立っていた。
「一見ノンビリしている様だけど、野性を秘めたそいつらの行動半径は相当広い。こんな路地裏で寝ていたかと思えば、マンションの塀を飛び越え、時には雑居ビルの屋上まで縄張りにすることが有るんだ」
こちらへ歩み寄ると同時に、街灯の光が照らす顔は無精ひげが目立つものの端正な細面、理知的な雰囲気がある。
イケメンに不慣れで警戒心が先に立つ有紀の代りにピートが応え、尻尾を高く上げて男の足首に絡みついた。
ニャア。
男の両手で頭上まで抱き上げられる瞬間の、その鳴き声が甘えている。
「……あ、もしかして、あなた、ピートの飼い主?」
「あ、君、こいつを何でピートって呼ぶの?」
質問を即座に質問で返され、有紀は心持ち顔をしかめた。
あんたってさ、むくれると結構キツイ顔になるから、気を付けなさいよ。
田舎の母に口うるさく言われたが、今更、好感度なんてど~でも良い。薄暗い分、どうせこっちの表情なんて向うには良く分からない筈だ。
「中学生の頃、読んだ本……題名は覚えてないけど、いつも夏の兆しを探す猫の名前がピートで、不思議と心に残って……」
「あぁ、それ、ロバート・A・ハインラインのSF小説だよ」
「SF?」
「名作中の名作だけど、不幸な主人公が時を越え、恋人、財産、地位、それに猫まで手に入れるハッピーエンドが出来過ぎに思えて、僕的にイマイチなんだ」
「はぁ」
「過酷な運命へ抗う筋立てなら、むしろキングの『デッド・ゾーン』の方がシビアで好きだね」
ナルシスト気味にウンチクを語る目が、薄闇にうっすら光って見えた。ネコ好きというより、むしろ化けネコに近い雰囲気を湛えている。
やっぱり不気味だ、コイツ。
尚、語り続けようとする三十男の隙を突き、有紀は横をすり抜けて飲み屋の路地へ出た。
「……2秒後に左足」
表通りへ戻る寸前、背後から男の声がし、気を取られた弾みに体勢が崩れる。
立て直す暇も無く、有紀は膝をついていた。
立ち上がろうとすると、左足の靴のヒールがずれているのに気付く。
「大丈夫かい、猪又有紀さん? 忠告するのが遅れてすまない」
「……な、何であたしの名前、知ってンのよ?」
蒼ざめた有紀の視線を受流し、手を差し伸べる男の顔には、何処かで会ったような……説明し難い奇妙なデジャブを感じる。
でも、こんな奴に会った記憶は無い。
一層怖くなり、男の手を振り払った有紀は靴を片方脱ぎ、必死で逃げ出した。
「9分後に右足、11時間後は首にご用心」
有紀は振返らない。新手のストーカーかと思うと、振り返るのが恐ろしい。
そのまま一気に駅まで走り、井の頭線の電車へ乗り込もうとするが……ホームで又、転んだ。
今度は右のヒールが折れたのだ。
男の予言通り、路地裏を逃げ出した時からきっちり9分が経過した、そのタイミングで。
翌朝、三鷹台の駅から徒歩10分の距離にある安アパートで目を覚ました有紀は、首に若干の違和感を覚えた。
どうやら寝違えているらしい。
目覚まし時計を見ると午前6時を過ぎていた。
即ち昨夜、路地裏を逃げ出した時点から数えて、およそ11時間が経過していた訳だ。
やっぱり、当たってんじゃん、あいつの予言!?
月極め5万7千円の暑苦しい部屋に、網戸の破れかけた窓で揺れる風鈴の音だけ響く。
そして、気温と裏腹に有紀の額から冷たい汗が伝った。
好奇心は猫を殺すと言う。
でも、この際、もう一度あの男に会って、事情を確かめずにはいられない。
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