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しおりを挟む結局、今年も又、暖冬らしい。
もう11月の半ばなのに、閉じたカーテンの隙間から射し込む陽光が季節外れの熱気を盛大に運んでくる。
わやくそ暑いんじゃ、あんごうが。
ろくに歯が残っていない口の奥でぼやきつつ、縁側の窓を開くと、庭の花壇の中央で皇帝が今井基弘を見下ろしていた。
ダリア・インペリアリス。
淡いピンクの大きな花弁、鮮やかな黄色の花粉が目立つキク科の外来種で、原産地は南米だ。日本では学名を直訳し、皇帝ダリアと呼ばれている。
日当たりのよい土地が栽培に適しており、降水量1mm未満の日が日本一多い事から「晴れの国」と言われる岡山にはうってつけの花と言って良いだろう。
その最大の特徴は茎が木質化して背が高くなる事。
嵩張る反面、一本の茎に沢山の花が咲き、見栄えが良いから狭い庭で栽培を試みる園芸愛好家も多い。
ま、別に俺が植えたくて、植えた訳じゃねぇけどよ。
まだ目覚めたばかりの虚ろな瞳で頭を強く左右に振り、基弘は壁に掛かっている時計へ目をやった。
ひどく寝坊してしまったらしい。
既に時刻は昼前だ。
年のせいか、妙に眠りが浅い。もう随分と長い間、起きるでも寝るでもない半端な生活リズムに陥りがちで、そうなると澱んだ意識から中々抜け出せない。
えぇい、まだ呆けておれんのじゃ!
更に両頬を叩き、気合一発。真昼を示す時計の長針さながらピンと真上を指す茎に沿って視線を巡らせ、気持ちよく晴れ渡った青空を仰ぐ。
うん、風がぼっけ~乾いとらぁ。こりゃ、いかん。早う水、撒いてやらんとな。
大きく背筋を伸ばして深呼吸。
小柄な彼の肩とほぼ同じ高さの生垣に囲まれた花壇と家庭菜園へ向け、蛇口に繋いだホースの水を撒き始める。
無言で作業を続け、およそ半時……
塀の外からは車の通過音が時々聞こえる程度で、散水ノズルの水滴と風の音が大きく感じられる。
基弘の家は岡山市中区の東側、百間川河原沿いの小さな町の北端に在り、閑静のレベルを通り過ぎて辺鄙の一歩手前だ。
この辺り、以前は広大な田園地帯で一時の不動産ブームにのり、再開発が行われた。だが、やや地盤が緩く、それが街の発展には仇となっている。
地球温暖化の影響とやらで、何十年に一度しか起きない筈の異常気象が頻発。台風等の被害が増え、川沿いの住宅地ニーズが激減、開発が頓挫したのだ。
一つ表通りの方へ出ると、学生に人気のワンルームマンションも建っているらしいが、基弘の家は、半ば放置された農地と住宅地の狭間に位置している。
町の外れの、そのまた外れ。
隣の家まで50メートル位は離れているだろう。ここまで離れていると、お隣と言って良いのどうか、微妙な所だ。
まぁ、だからといって、鬱陶しい近所付き合いから完全に解放されている訳ではないのだが……
作業に勤しむ内、屈んだ腰、膝に鋭い痛みを感じて、基弘は縁側へ腰を下ろした。
たいぎ~のう。少し動くとこれじゃ。年は取りたくないわい。
酷く強張った肩の筋を揉みほぐし、ふとそのまま首を傾げる。
はて、それにしても俺、今、何歳だったかな?
脳の老化を調べるテストの中に、今日の日付と被験者の年齢を訊ねる項目が入っているのは基弘も知っている。
俺、いよいよアカンかな?
そんな不安に駆られる事もあるが、こう変化の無い暮らしが続くと、時の流れに疎くなるのは仕方あるまい。
只でさえ忘れっぽくなる一方の頭を、右手の拳でコツンと一叩き。同時に上からの視線を感じた。
何しょんなら~、お前ら。もしかして、俺を笑っとんか?
背丈より1メートル以上高い位置に並んで咲く皇帝ダリアの花びらへ、基弘は話しかけてみた。
65才を過ぎた辺りから綺麗に禿げ上がった頭の天辺を、花達が真上から見下ろしている気がする。
これでも皇帝ダリアとしては背が低い方らしい。
順調に生育した場合、6メートルに達する事もあるそうだが、そこまで行ったら基弘の手に余るだろう。
大層な名前に見合う大きさなのに、意外と手間が掛からないのよね。
ぼやけた記憶の片隅で、妻の楽し気な声が響いた。
年を経てから基弘と結ばれ、遅い春を噛み締めたのも束の間。末期の乳がんを宣告されて五年の間、病と闘い、夫と手を握ったまま息を引き取った小柄な女。
生前、この花が大好きで、庭に植えたのも彼女だ。本来、無趣味の基弘がガーデニングを始める気になったのも妻の影響だった。
今では感謝している。朝、目覚めてから昼までの庭いじりが、一人暮らしの退屈を唯一埋めてくれる貴重なルーティンとなったのだから。
あいつの残してくれた最大の遺産って奴かもしんねぇ。なぁ、おい、あんたらだって、そう思うだろ?
額へうっすら滲んだ汗を拭って基弘は呟いた。
勿論、花達から返事は返ってこない。その代わり、庭と街路を隔てる生垣の向うで、何かしら動く気配がした。
ン、猫か?
お隣……同じ道路沿いの右側、例の50メートルを隔てた屋敷に厄介な奴がいる。飼っていると言うには余りにほったらかしの黒猫だ。
同じ毛並みのオス二頭。
ご近所全てまるごと縄張りと言うつもりなのだろう。我が物顔で今井家の庭を横切ったかと思えば、目立つ所に幾つもフンを落としていくトラブルメーカーである。
しばらく姿を見なかったのに又、ノコノコと……
大声で怒鳴り、反応を見る。
僅かな静寂の間を置き、しなやかな猫とは大違いの、バタバタ喧しい靴音が遠ざかっていった。
ン、人間!? 猫どもじゃねぇのか?
誰だよ、畜生?
また、お節介な輩、町内会の若い衆やら、お隣の爺さん……あの厄介な猫の飼主辺りが、イゴイゴと覗き見でもしよるんかのう?
何せ、あの爺ぃ、止せばいいのに、八十過ぎても民生委員を引き受けているから、鬱陶しいにも程が有る。
生垣を形作っているキンモクセイの間から、そ~っと顔を出してみた。
もう辺りに動く気配は無い。
逃げ足が速い猫だと基弘は思い、忌々し気に路上へ唾を吐いて、生垣の隙間から首を引っ込める。
何処のどいつか知らねぇが、女房の後追いで、俺が野垂れ死にしてると思ったかい。へっ、悪いけど、俺ぁ、そう簡単には死なねぇよ。
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