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あなたの翼を
しおりを挟むその翌日の早朝、巳代松が伊三次の長屋へ乗込んだのは、朝霧の強い願いを受けて、何が何でも峯屋へ行けと急かす為である。
引き戸を開け、いつもの調子で部屋へ上がると、中の様子は幾分違う。
作りかけの簪が無数に折られ、床へ散らばっている。
その中央に座す伊三次が、落ち窪んだ瞳を次なる一本へ向け、虫の細かい羽根模様を彫り込んでいる最中であった。
「……おい、伊三さん、お前ぇ、ろくに寝てねぇだろ」
憔悴しきった顔が巳代松へ向く。
「あぁ、若旦那」
「あぁじゃねぇよ、無理しやがって」
「悔しいが、思い描いた羽根の具合に、何度やっても届かねぇのさ。これじゃ相応しくない、あいつに……俺の、夢の女に」
巳代松は足元の折れた簪を拾い、朝の光で羽根を透かしてみた。
「今のままでも十分綺麗だ」
「俺、あれから調べてみたんでさ。アリジゴクってのは育つと、とんぼに似た別の虫になるらしいんだ」
「へえ」
「しっかり、その形を仕上げたら、きっとあいつは喜んでくれる。俺の簪が、涼香の特別な一本になる」
ささくれだらけの指が愛しげに簪の細工を撫で、こけた頬に薄い笑みが浮かぶ。
「そこまで凝らなきゃならねぇモンか? 常盤屋からの貰い物と似せて、花魁道中の間だけ誤魔化せりゃそれで良いんだろ」
「良かねぇのよ、それじゃ!」
急に怒鳴られ、巳代松はギョッとして、折れた簪を土間へ落とした。
「あいつの、門出の簪なんだよ」
一転、聞き取れない程の掠れた声で、伊三次は言う。
「……ねぇ、若旦那、門出なんですよねぇ? 俺ぁ、喜んでやらなきゃいけねぇんだろ? 涼香にとっちゃ願ってもない玉の輿なんですよね?」
「今更、言うまでもねぇや」
「もし、見受けの前に、この俺が……」
伊三次が言いかけ、途中で呑み込んだ言葉の先を巳代松は容易に想像できた。
手に手を取って吉原を抜け、駆け落ちする道を巳代松自身も考えた事がある。大店の左乃屋を継ぐ身で、どんなに惚れていても朝霧と所帯を持つのは不可能だからだ。
そして廓を逃げた遊女と間夫がどれほど執拗な追跡を受け、如何に悲惨な運命を辿るものか、朝霧から聞いている。
いや、聞かされたと言った方が良かろう。
それでも一緒に逃げてくれるか、それだけの思いがあるか……彼女の口調から試されている事を悟り、巳代松は言葉を濁すしかなかった。
でも、伊三次は違う。
たった一度の逢瀬で武骨な男がすっかり変わった。もう命なんて、どうなっても構わない必死の面構えをしている。
こういう覚悟が女は欲しいのかな?
そう思いながら土間に落ちた簪を拾い、掌の上に置いて眺めた。
やはり見事な出来だ。
小間物問屋に生まれて、こんなに丁寧なつくりの簪は見た覚えが無い。店に置いたらさぞ高い値が付くだろう。
何処が納得いかないのか、巳代松には見当もつかないが、伊三次の方は何時の間にやら次の簪の細工へ挑んでいる。
「他には無ぇんだ。今、俺が涼香にしてやれる事は、あいつを誰より光らせる簪を作る事しか……」
ぶつぶつ何度も呟いて己の心へ言い聞かせ、細工に没頭する。こうやって寝る間も惜しみ、半月以上を費やしてきたのだろう。
逢瀬を待ちわびている涼香の気持ちも知らないで、えらく空回りしていやがる。
全く男ってのは、何て馬鹿な生き物なんだろな。
自分自身をさて置いて、そう思う反面、伊三次の額に伝う汗の輝きを巳代松は羨ましいとも感じる。
朝霧にしてやれる事、男の覚悟を示す何かが自分に在るのか、しばし考え、何も思いつかないのが口惜しくて、ため息交じりに友を見やる。
「……伊佐さん、ちょいと変わったな」
「え」
「前は一世一代とか、俺だけの細工とか、何かと自分の都合ばかりの下衆野郎だったのによ」
言い終えると同時に、巳代松は伊三次に背を向け、長屋の引き戸へ手を掛けた。
「帰るのかい、若旦那。俺を連れ出しに来たんじゃねぇのか」
「お前なりに通したい筋があるんだろ。だったら、俺が横からひん曲げる訳にはいかねぇや」
「……ああ」
「間に合わせろよ。涼香が待ってる」
巳代松は外へ出て、勢いよく寒風の中を走り出した。
伊三次は一つ頭を下げ、すぐ仕事を再開する。その部屋の灯りは、この日も終夜消える事は無かった。
吉原で久々の花魁道中が行われたのは、神無月の末日に当る冬の夜の事だ。
木枯らしが吹きすさぶ厳しい冷込みにも関わらず、物見高い江戸っ子が集まり、吉原大門へ続く五十間道は男共がひしめく有り様となる。
そんな中、伊三次はふらふら覚束ない足取りで、人波を掻き分けていた。
その手に固く握られた簪は、前日の真夜中にやっと完成した代物である。
すぐ届けようと思ったものの、長屋の木戸は閉ざされ、疲れも溜まりに溜まっていて、ほんの少し横になるつもりが気付いた時には既に夕刻。
半日まるまる寝過ごしたと知り、長屋を飛び出した後の記憶は定かで無い。
只、夢中で走り続け、何処をどう通ったやら?
真ん丸な月が天頂を目指し、見物客の真上にさし掛かる頃、やっと見返り桜の前まで辿り着いたのだ。
大門を抜け、仲の町通りに入ると、混雑は一層激しかった。
はて、今は何刻か?
荒い呼吸を整え、伊三次は周囲を見回す。だが、正確な時刻を知る手がかりなど遊郭の街角には何一つ無い。
精一杯、頭を巡らしてみる。
揚屋からの客の呼び出しで始まるのが花魁道中の習わしだから、出発は夜が更けるより前だ。少なくとも峯屋は出ている筈で、道中の道筋も知らされていない。
俺は、涼香の門出に間に合わなかったのか。
そんな焦りと恐れが目まぐるしく交錯する内、通りの前方に大きなざわめきが湧き上った。
船の舳先が水面を割る様に、人々の波が左右へ寄り、間もなく道の中央にこちらへ向う女の姿が見える。
真紅の掛け端折りに前結びの帯、三枚歯下駄を優雅に操り、ゆっくり外八文字を描いて歩を進める涼香の晴れ姿だ。
本来、禿が付き従う行列に、この夜は同格の朝霧が敢えて加わり、鮮やかな彩りを添えている。
あぁ、畜生……別嬪だなぁ。
抱き合った思い出が遠ざかり、淡い幻と化していく様で、伊三次はやるせない呻きを漏らした。
銀のとんぼが涼香の髪にとまっている。常盤屋の贈り物は見つかったらしい。
なら、俺の簪は出番が無ぇ。
きっぱり退こうと伊三次が背を向けた時、涼香が「あっ」と声を上げた。
彼女も待ち人を見つけたのだろう。真っ向から目が合う。ありじごくと呼ばれた、薄く底光りする眼と。
花魁道中は、そこで歩みを止めた。
二人が見つめ合う合間の長さは、果たしてどれ位であったのか。
見物人がざわめき始めたのを危ぶみ、傍らの朝霧が動いた。
銀の簪を涼香の髪から引き抜き、伊三次の手前に落とす。咄嗟に拾う男の方へ迷わず花魁が進み出た。
「落し物、返してくりゃれ」
俄仕込みの廓言葉が、拙い分だけ、却って可愛い。
伊三次が常盤屋の銀の簪を手渡そうとすると、涼香は首を振り、もう片方の手に握り締めた真新しい簪を指さした。
「そのとんぼの羽根が要る。それがないと、あちきは廓を飛び立てない」
「花魁、とんぼじゃねぇよ。こいつはな、かげろうってんだ」
受け取った簪を涼香は空にかざした。
極めて薄く平打ちした羽の部分が、内側だけ地色の銀を浮かせ、月明りに輝いている。
「儚げな虫、ね」
「砂に潜って蟻を喰らい、そいつは飛び立つ夜を待つ。月の明かりに照らされて、たった一夜の連れ合いを探し、恋を語らい、命を燃やす」
「……そして、死んでしまうの?」
「かげろうには一夜が一生なんでさ」
じっと簪を見つめる涼香の瞳に、その時、本当は何が映っていたのだろう。思いは過去を彷徨っていても、覚悟を決めた横顔に、もう涙を浮かべる兆しは無い。
その代り、伊三次にぐっと体を寄せた。
これぞ最後の睨めっこ。
たじろぐ男の耳元にふっと笑って、そっと囁く。
「一夜が一生……まるで、私達」
涼香なりの、別れの言葉だ。
花魁道中は再び動きだし、常盤屋の待つ揚屋へ向う。
涼香も、朝霧も二度と立ち止まりはしなかった。
去りゆく女の背に輝く羽根が生え、一直線に夜空へ舞上る光景が、この時、伊三次にだけは確かに見えていた。
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