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にらんで、にらまれて

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 日本橋目抜き通りに大きな店を構える小間物問屋左之屋の跡取り、巳代松が峯屋を訪れたのはそれから間もなくの事である。

 さ~て、散々通いつめ、起請文まで交わした仲の朝霧と今宵は如何に語らい、戯れ、しっぽり濡れてくれようか?

 当世流行りの粋な小紋の羽織を風になびかせ、巳代松はあれこれ想を練りながら、廓へ向っていた。





 本来、吉原の遊びは肌を重ねて、それで終わりにはならない。

 出会いから婚儀にいたるまで、男女の交際の過程を丹念に模す段取りが廓遊びには含まれていて、一度枕をかわした遊女には通い続けるのが暗黙の定め。

 他の遊女へ通うのは浮気とみなされ、場合によっちゃ客が手痛いお仕置きをくらう。
 
 面倒くさい気もするが、当時はそれが却って男の歓心を買っていた。

 なにしろ江戸という町は男に比べて女の数が極端に少ない。

 生涯つれあいを持てない奴もいた位だから、単に春をひさぐのみならず、もっと深い男心の飢えを満たす必要があったのであろう。
 
 馴染みの客を遊女は間夫と呼び、身も心も捧げるのが建前。

 そんな真に迫った疑似恋愛である為、遊女側に客を拒む権利も一応認められていて、二人で酒を酌み交わし、他愛無い言葉遊びだけで一夜を終える事もある。
 
 がっつかない男こそ粋なのだ。





 遊ぶ金に困らぬ身の上の巳代松は、遊女にうける酔狂なねたの類を常に探している。そして、そんな巳代松さえ目を丸くする光景が、張見世の前にあった。

 女を値踏みする立場の冷やかしが、逆に遊女に睨まれている。

 何処かぼうっとした、呑気そうな瞳が、この時は微動だにせず、如何にも武骨そうな男へ据えられている。
 
 その上、睨む側が峯屋の花形、涼香なのも意外だった。

 およそ物事へ頓着しない、のほほんとした性分だと朝霧に聞いていたからだが、男の顔を覗き込んだ巳代松は更に驚く。

 その細い目に見覚えがあるのだ。

「おい、お前ぇ、飾り職人の伊三次じゃねぇか」

「あ、左之屋の若旦那」

「廓の冷やかしかよ。いやはや、お前みてぇな堅物がねぇ」

 巳代松につっこまれ、困惑しきりの伊三次は、既に十年以上も左之屋へ簪を納めている職人で、とびきり腕は良い。

 当主、つまり巳代松の父の手腕で左之屋の商いは好調だ。

 中でも武家や大店の女房と言った上得意に伊三次の簪は良く売れる。一本一本、古来の趣向に彼独自の創意工夫を加えた品は、極めて高価ながら看板商品と言っても良い。
 
 その分、高い手間賃を払っているから、伊三次の懐は豊かな筈。なのに生真面目な上、根っからの職人気質で、これまで浮いた噂を聞いた試しが無い。

「ふうん、するってぇとお前ぇも一応、男のはしくれだったってぇ訳か。お目当てはどの娘か、ちょいと教えてくんな」

 湧上る好奇心を隠し、一回り年上で背丈の方は一回り以上大きい伊三次へ、巳代松はあしらう様な物言いをした。

「そんなんじゃねぇ、若旦那」

「じゃあ、何だい」

「つまり、その……」

 回らぬ口を無理に開こうとし、伊三次が俯き加減の顔を上げた途端、涼香の視線と又もや真っ向からぶつかる。

 飛んでくる強い眼差しはどうしても逸らせない。額にうっすら冷や汗が滲む辺り、油を搾られているガマさながらだ。

 巳代松が声を掛ける寸前の状態と同じ、全身を強張らせて動けない数分が過ぎ……

 すっかり面白がっている大店の放蕩息子を他所に、切羽詰まった伊三次の喉がグゥッと鳴る。

 へっ、こいつぁますます油売りのガマだねぇ。

 そんな風に巳代松が苦笑した直後、真っ赤な頬を一層火照らせ、柳の下で格子へ背を向けて、ごつい体がすたこら逃げ出す。





「よしっ、勝った!」

 冷やかし男の遁走を見送り、涼香はぐっと胸を張った。

 外で成行きを見物していた奴らの歓声に応え、調子にのって両手まで振りだす。

「……あんたさぁ、馬鹿じゃないの」

 隣の朝霧は呆れ返り、無邪気に喜ぶ涼香をたしなめた。

「だって朝霧姉さん、言ったでしょ。冷やかしなんて邪魔なだけ。おはぐろどぶで溺れちゃえって」

「そりゃまぁ」

「追い払う算段、してみました。昔、実家の御勝手に野良猫が忍び込んだ時、私が一睨みしたら逃げたので」

「猫と男を一緒にするの、どうよ?」

「あら、猫に失礼かしら」

「……はぁ」

「あいつ、虫だものね、え~と……そうそう、ありじごく」

 ころころ笑う涼香の無邪気さに、朝霧は肩を竦めた。





 まれに、こういう遊女がいる。世間知らずのまま苦界へ落ち、実情も知らぬまま妙に馴染んでしまう娘が。

 結局、遊女の運命は客次第。

 涼香の場合、初めての客、所謂突出しの相手が六十をとうに過ぎた老舗両替商・常盤屋の御隠居で、偉く気に入られ、とんとん拍子で身請け話にまで発展したから遊女の辛苦を良く判っていない。

 華やかな廓の裏側に淀む、女の地獄の深淵をまだ実感できていない。

 この後、つつがなく常盤屋の囲われ者になってしまえば、一層世間と隔離されていくのであろう。

 その無邪気さと無知が哀れに思える反面、うまい世渡りに感じられ、妙に憎たらしく見える時もある。
 
 どうやら今宵は憎い番だ。





 朝霧は、そっと胸の奥で呟いていた。

 あぁ、身請けの前に一度くらい、涼香の、あの能天気を吹っ飛ばす騒動でも起きないもんかねぇ……
 

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