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しおりを挟むその日、春のあたたかな夜風を浴びながら、仕事を終えたユカリさんは帰り道を急いでいました。
時刻はもう午後7時49分。
この調子じゃ家に付くのは8時過ぎ……あの子との約束の時間に遅れっ放しじゃない、この頃……
地下鉄の駅を降り、借りているオンボロアパートまではおよそ徒歩11分です。それを七分で走り抜け、二階までキーキーきしむ外廊下を登って、ようやく我が家の玄関のドアを開いて、
「ただいまっ、タマキ。今日も遅れちゃってゴメンね」
意識して明るく、爽やかに、廊下の奥へ声を掛けても返事がありません。
あ、こりゃもしかして……
底のすり減ったローファーを脱ぎ、足音を忍ばせて廊下の先にある狭いダイニングキッチンへ入っていく。すると、ス~、ス~、小さな寝息が聞こえてきました。
テーブルに置かれた食べかけチョココロネのかたわら、6才になるタマキちゃんが頭を伏せています。
後ろでまとめてお団子にした髪が、寝息といっしょに揺れていて、ユカリさんはその隣に座り、コンビニで買ってきたオムライスを二人分、手作りのマイバッグから取り出しました。
チョココロネが晩ごはんじゃ栄養が足りないよね……でも、良く寝てる。起こすの、かわいそうな気もするなぁ。
ユカリさんは小さく溜息をつきました。
これまで4年間、お父さんがいない二人っきりの暮らしをユカリさんは、大事な一人娘と続けてきています。
お年寄りのお世話をする施設で朝9時半から夕方6時半までガッツリ働く力の源は夜、家に帰ってタマキちゃんと過す一時。
朝は忙しすぎる為、午後八時までに仕事から戻って一緒にご飯を食べるのが二人の間のお約束です。小学校で起きた事、前の夜に見た夢、お友達とゲームした時のお話などを、タマキちゃんから聞かせてもらうのがユカリさんの生きがい。
特に「夢」のお話は一番のお気に入りでした。
タマキちゃんはお茶目でおてんば、何処にでもいる元気な女の子ですが、毎日の夢だけは普通じゃ有りません。人並外れて想像力が豊かなのでしょう。同じ夢の続きを何日も続けて見る上、連続ドラマみたいに山あり谷ありの展開がエキサイティング。
それに、何たってスケールが大きいのです。何せ、無敵の救世主になって、様々な世界の危機を次々と解決していくのですから。
え、子供が救世主なんて変?
子供は可能性のかたまりですよ。歴史に名を遺す本物の救世主だって、普通に暮らす子供の時代はありました。この世を丸ごと変えてしまうスーパーパワーの持主が、今も人知れず生まれ落ちているかもしれない。
それに、なんたって夢の中なら何でもアリでしょ?
「あのね、あたし達の世界もね、あたしが大人になる頃、大変な事が起きて、星がこわれそうになるんだよ」
一年前くらいでしょうか。長い夢のお話を最初にユカリさんが聞かされた時は、こんな恐ろしい前置きから始まりました。
「だからタマキ、夢の中で色んなトコへ旅して、色んな人と会って、世界を救う練習しなきゃいけないの」
「ふう~ん、色んなトコってどんな?」
「夢の中に、たくさん扉があるの。そこから、どこへだって行けちゃうんだけど……はじめは、大きなドラゴンがいる魔法の世界なの」
昼間、家にいない分、夜中に放送しているラノベ系ファンタジー・アニメを見まくっているママは、思わず身を乗り出しました。
「テュポーンって百個も頭が有る竜の王様がいるのね。すごく強いんだけど、急にアクマがいっぱい現れて、竜の国があぶなくなるの」
「それ、タマキがやっつけたンだ?」
「ウン、ファイヤーパンチでバーン、とぶっ飛ばしてメデタシメデタシ。魔法の世界は平和になりました」
「おぉ」
「えらい? ねぇ、えらい?」
「タマキちゃん、えらい。ママ、ほめてつかわす」
「やったぁ!」
ニコニコ笑って、晩ごはんをモグモグ食べる娘を見ながら、「なるほど、ぶっとばしちゃうのね。最近の少女アニメ、アクションとか、すごいもんな」なんてユカリさんは思っていました。
そして、それから数日後、次の夢が始まったのです。
今度は宇宙のはるかかなた、ミツバチに似たエイリアンの女王・ペンドールが超能力で支配する星のお話。カマキリみたいな大型のエイリアンが攻めて来て、危ない所をタマキが助けてあげたのだそうで、
「又、悪い奴をぶん殴っちゃったの?」
「ううん、今度はサンダーキックでカマキリのボスをビビッと」
「蹴っ飛ばしたのね?」
で、メデタシメダシとなって、それから更に数日後、
「ママ、大変!」
「あら、また、夢の救世主の出番かしら?」
「今度もチョ~大変なの。未来の国なの。マジェスという名前の王様ロボットと家来ロボが、すっごい科学の国を作ってて」
「今度はコンピューターが狂って暴走した、みたいな?」
「あ、ママ、なんでわかるの?」
そりゃまぁ、夢の中のお話と言う事で、アニメでよくあるストーリーを口に出しただけなのですが、見事に的中。
救世主タマキちゃんは暴走AIにキラキラ光線を「キ~ン!」と浴びせ、みんなで壊れたコンピューターを修理した後、夢の世界へ戻ったそうです。
自慢する時の癖で鼻のてっぺんをポリポリかき、ご機嫌で話してくれたのですが、それから少し様子が変わって来ました。
タマキちゃんは夢の中の冒険を話してくれなくなったのです。
「だって……どの世界に行っても、みんなワガママばっか言うんだもん。タマキの力で仲が悪い他の国をやっつけろ、なんて言われた事もあるの」
いつの間にか、夢はタマキちゃんにとって楽しい世界ではなくなってしまったみたいです。
それに、前は朝までグッスリ眠っていたのに、何だか時々、哀しそうな面持ちで寝返りを打つようになりました。
夢の中の出来事じゃ、どんなに心配してもママにはどうにもなりません。ただ、そばで心配する事しかできなかったのですが……
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