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34 夜明けの航空写真(上)

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 ダウン・バーストの荒ぶりは、激しくも、はかないものだった。一時間も経たないうちに、暴風の威力を失った。サイクロンも、南西への移動速度を予想以上に高め、急速にツヴァル諸島の西方海域から離れようとしている。満潮時刻を迎える夕刻に近づくに従い、むしろ潮位が下がっていった。
 潮位が引くのに合わせ、遥樹(はるき)や葵たちのカヌーが抜け出したあとの三隻のカヌーは、オールで漕いで位置合わせをしながら、元の建物の屋上に軟着陸し、乗り込んでいた者たちは皆、安堵の表情を浮かべた。
 遥樹たちPPLC研究員たちは、フォンガファレ島の北東部に建つマネアパ(集会所)に近い海岸沿いのスーパー・マングローブ防潮林にカヌーを漕ぎ付けると、オールを船内に置き、船内に用意してあったロープを手近な太い幹に括り付けてから、一人ひとりマングローブの幹にばらばらに移動し、しがみ付いた。数十分でダウン・バーストの強風がやんだ。高潮が引き潮に変わり、島内から環礁に向かって強い流れが足元の枝々をくぐっていく。
 台風一過で、透き通った紺色の天空と水平線ぎわの燃えるような夕陽が印象的な黄昏(たそがれ)時が訪れた。満潮時が重なり、引き潮の勢いが緩んできた。しかし、すでに潮位はかなり低くなり、防潮林のマングローブ下部のタコ足のような支柱根の上半分が水面上に露わになってきた。
 遥樹は、淡い夕暮れの光の中で目を凝らしながら、隣り合わせるマングローブ同士が形作る支柱根が編み出す網目に、住民たちの衣類や食器、家具、自家用の貯水タンクなどが引っかかっているのを見た。
 ぶかぶかという異音に研究員の一人が反応し、足元の支柱根をのぞき込んでいる。別の研究員が持ち合わせていたフラッシュ・ライトを点灯して、異音の元に向ける。
 「オー、ピーッグ!(おやっ、豚だ)」 誰となく、声を上げる。
 支柱根の網目に前足を絡めて、茶色の豚や白い豚、黒い豚がそれぞれ頭と上半身を水面から出し、鼻を上に突き上げ、ひくひく動かしている。水面の陸地側をフラッシュ・ライトで照らすと、両耳を広げて鼻を突き上げて顔を水面から出して、犬かきよろしく泳いで近づいて来る豚が一〇匹ぐらい見えた。島民たちが家畜として飼育していた豚たちが、防潮林に難を逃れてきたのだ。
 遥樹は、緊張がみなぎる満潮時から、暗く不安な夜を、海面上で皆と乗り切ることになると覚悟していたが、予期せぬ珍客の来訪で、気分が明るくなってきた。運動神経が抜きん出た一匹が、係留してあるカヌーの中に飛び上がった。鼻を鳴らして、袋に噛み付いている。
 「いかんっ、僕らの非常食!」 遥樹が研究員メンバーに注意を飛ばす。男性研究員の一人がマングローブの枝からカヌーに飛び移って、豚を取り押さえようと、抱き着いたり、脚をつかんだりと、派手な大捕り物を繰り広げる。研究員が尻にひと噛み食らい、素っ頓狂な声を上げる。ほかの研究員たちが遠慮なく声を立てて笑った。
 男性研究員たちが遥樹も交じって数人がかりで豚を取り押さえ、支柱根の束にロープで括り付け終わった時分の深夜、捕り物を面白がっていた女性研究員たちの声色にもさすがに疲労の色がにじんできた。捕り物の直後で散らかっているが、カヌーに乗り移るよう遥樹が女性研究員たち二人に指示を出す。
 しばらくすると、支柱根に抱きつくように取り付いて浮かんでいる小さな子豚たちがぐったりしている様子を見て、女性研究員たちが男性研究員たちに手伝わせながら抱き上げてカヌーの内側に乗せてやった。初め子豚たちは、前足を船底に突き立て、鼻を急角度で振り上げたまま緊張していたが、女性研究員たちが頭をなでてやっていると、子豚たちも疲れには勝てないようで、女性研究員たちの太ももやひざにあごを載せて、小さな寝息を立て始めた。女性研究員二人も、肩を寄せ合いながら、こっくりこっくり居眠りし始めた。
 遥樹たち男性研究員たちは、枝の上でまんじりともせず、緊張の一夜を明かそうとしていた。再びダウン・バーストをもたらすような巨大な積乱雲、スーパー・セルが発生するようなら、態勢を組み直さなければならない。
 東の空が明るさを増してきた。深宇宙を感じさせる群青の空と接する水平線に、赤々とした光が浮き上がって来る。台風一過の快晴だ。まもなく太陽の上端が姿を現すだろう。
 「あっ、いけない」 日光を直視すると光過敏症を発症しかねない遥樹が、左胸のポケットから眼鏡ケースを取り出して開き、サングラスをかける。
男性研究員たちが、チンパンジーよろしく枝にしがみつきながら腕を伸ばして身を乗り出し、次第に淡い朝日に照らし出されてくる島内の建物や人家の様子に目を凝らす。
 遥樹は、双眼鏡を目に当てたり、外したりしながら、海岸に近い人家やマネアパ、教会付属の先ほどいた建物、椰子の木などをチェックする。島内に浸水している海水面には雑多な家財が散らばって浮いているが、建物や人家には外面上は目立った被害が見られない。地域ごとに格差があるだろうから、スーパー・マングローブ防潮林の効果の有無も含めて、後日、詳しく調べる必要がある。
 引き潮がまだ続いている。建物の壁と浸水の表面を観察するに、大人のひざまでぐらいの深さといったところか。気の早い住民が数人どこからか現れて、そこここを歩いて建物や自宅の具合を確認し始めている。こうした人たちの足元を確かめると、ひざの下の深さにまで海水が引いているようだ。
 「僕らのフタバナヒルギの防潮林の近くの建物の被害は、意外と思ったよりも少なそうだね」と遥樹。「時間が経つと、いったんは完全に水が引くでしょう。今日の満潮時の夕方のキング・タイドも、例年並みのひざ上か腰の高さぐらいに落ち着くんじゃないでしょうか」と別の男性研究員。
 陽がすっかり上がり、研究員たちが、乾燥ココナツの中身を塩で食べる「タカタカ」で軽く腹ごしらえをしていると、もう浅く勢いも緩くなった引き潮に乗って、人家と人家の間の水面を赤い物体がふらふらと漂いながら流れて来た。
 「サブ・リーダー!」 カヌーの中に座って食事を取っていた女性研究員の一人が気付いて、右手で指さす。
 「あれは、イエレミアさんの…」 遥樹がスーパー・マングローブの支柱根づたいに尻でうまく滑り降り、しぶきを上げて水面に降り立った。くるぶしの上ぐらいまで海水が浅くなっている。遥樹は、大股にゆっくりしっかり歩を進めて、赤い丸い物を両手で拾い上げた。
 「間違いない。イエレミアさんのお母さんの形見のヘルメット!」 遥樹が中の水を捨ててから、ヘルメットを頭の上に両手で掲げて、仲間の研究員たちに見せる。研究員たちの間に、感嘆の声が流れる。
 人家の影から、上半身を前かがみにした人影が回り込んできて現れた。左右に一人ずつ幼い子供たちを従えている。フォウと二人の女の子、テアギナとファカレパだ。
 「フォウお姉ちゃん、あそこ!」とテアギナとファカレパが叫ぶ。聞き覚えのある子供たちの声に、遥樹が振り向く。ばしゃばしゃ水を跳ねて走り出す子供たちの後ろで、フォウが背筋を伸ばし、右手で髪を背中に流すいつもの癖のしぐさを見せる。
 「お姉ちゃんと、赤いヘルメットを追いかけて来たんだよお」とファカレパ。ツヴァル語なので、遥樹には何を言っているかわからないが、何となく言葉の意味が感じられた。
 「おおーっ、みんな、無事だったか。これに追いつこうとしてたんだね」 小さな両手をいっぱいに広げて差し出すファカレパに、遥樹がしゃがんでヘルメットを差し出す。
 「私のせいだよお」 受け取ったファカレパが、ヘルメットを抱きしめて、今にも大声で泣き出しそうだ。「よく追い着いたね、頑張ったね!」と遥樹が笑顔を見せる。
 甲高い子供たちの声に刺激された十数匹ほどはいるだろう豚たちが騒ぎ始めて、スーパー・マングローブ化されたフタバナヒルギ防潮林のタコ足状の支柱根から前脚を外して、浅い海水に飛び降りて、物凄い勢いで家々の間へと、てんでばらばらに突進していく。
 この時、異変が起きた。
 風雨や高潮の流れを受けて、まちまちな方向にかしいでいたフタバナヒルギの木々が、幹の下部から四方八方に伸ばした支柱根のうち、深く曲がったほうの根にあたかも踏ん張ろうかとするような力を働かせ、ぶるっと振動を起こした、かのように見えた。振動は、幹や枝葉にも伝わり、まるで樹そのもの全体が身震いしたかのようだ。樹全体がきしみや葉擦れの音をたてながら、かしいだ幹をゆっくりと垂直近くまで立て直す。さながら、豪雪の後の雪解けで重しを外された北国の森で繰り広げられる光景のようだ。これが、次々に別の木々にも連鎖していく。研究員たちがあわてて幹にしがみ付いたり、飛び降りたり、支柱根づたいに滑り下りたりしている。
 ファカレパの左側に追い着いたテアギナが腰の両脇に小さな両手の拳を当てて、「やっぱりっ、歩く樹の、行列だよお」とうなずいている。二人の間に立ったフォウが、二人の小さな肩に手を置いて、抱き寄せるようにしてたたずむ。
 遥樹があらためてよくよく防潮林を振り返り見れば、タコ足状の支柱根の手前に木製テーブルやカラー・ボックスのような家具、金属製の貯水タンク、衣類、何かが入ったビニール袋、椰子の葉、野菜くずなどが雑多に流れ着いている。
 とくに目を引いたのが、二本のフタバナヒルギから生い茂った支柱根に巻き込まれた、薄汚れた白い軽トラックだ。支柱根に締め付けられているようで、悲しげな金属音を上げていたかと思うと、ふいにフロントガラスが派手な音を立てて割れるのが聞こえた。人は載っていないようで、運転席からは何の気配もしない。
 「クルマを締め上げた?」と遥樹。「地球温暖化の原因とみられる二酸化炭素の排出源に、マングローブがきつーい、お仕置きでしょっ」と別の男性研究員。皆がどっと沸く。フォウもにこにこほほ笑んでいる。
 どこから遠くから、ジェット・エンジンの音が響いて来る。皆が仰ぎ見ると、北から接近してくる小型ジェットが、フォンガファレ島の東側の太平洋上を低空で回り込むコースに入りつつある。
 女性の研究員の一人が、もはや地面に底を着けたカヌーから茶色の子豚を抱き上げながら、地面に降り立ち、「飛行場、まだ水びたしで、生活物資も散乱していて使えないんじゃない?」と、まだカヌーの中で座ってタカタカをほおばっている隣の女性研究員に訊く。聞かれた女性研究員が口をもぐもぐさせたまま、言葉ごと飲み込んでから首をかしげる。
 別の男性研究員が受け取って、「あれはジェット・エンジンを積んだ飛行艇。多分、ロシア製だろう。サブ・リーダーのジョージから聞いたことがある。ツヴァル政府が各国に支援を要請してるんで、来たんじゃないか」と答えた。
 遥樹が双眼鏡で機体を確かめると、全体に白い機体で、水面に接する下部が青い塗装だ。側面には機首から後尾へ横一直線に赤いストライプが一本見える。胴体上部から張り出した両翼の付け根の上にジェット・エンジンが一個ずつ据え付けられているのが確認できた。翼の先端近くの下側に小ぶりのフロートが付いている。
 ジェット・エンジン付き飛行艇が、緩やかに高度を下げ、海水面に白い航跡を引きながら、防潮林から百数十メートルほどの沖合で停止した。すぐに遥樹のスマートホンが鳴った。遥樹が「あっ、ツヴァルの基地局が生きてるね」と感心しながら、腰のホルダーからスマートホンを取り出し、電話に出た。耳に密着させたことをすぐに失敗したと思わせるほど、馬鹿でかい声が聞こえてきた。
 「おお、ハルキ! みんなは無事か! ロシア政府チャーターのジェット飛行艇『Be―200』から、俺、ジョージだっ」
 「ありがとう、ジョージ。まだPPLC関係者のことしかわからないけど、みんな無事だよ。水が引いて来て、ようやく人が動けるようになったばかりなんだ。これから各方面に連絡を取ってみようかと思ってた。それにしても、聞いてなかったけど、よく来て…」
 遥樹が言い切る前に、同僚のジョージ・ホフマンが話し始める。
 「ロシア連邦政府からPPLCへの感謝の印しさ。鎮火に半年以上かかるところだったシベリアのタイガ森林火災を、スーパー・プラント化したナナカマドによる囲い込みで、たった一カ月で消火できたからな。ロシア政府は、森林火災災害に費やされるはずだった国家予算を、都市部や自治政府の貧困対策に流用できることになったんだ。テロ事件の発生や分離・独立運動の動きが収まってきてるそうだ。災害担当の政府高官が教えてくれた。『森の問題解決が、都市問題を救った』なんて話してる。それで、俺らが向かう先で一朝事あるときは、支援を拒まない、ということになったらしい」
 「積荷は、何かな」と遥樹。
 「非常用の糧食や生活物資だね。沖合からの輸送手段がないから、屈強な男を集めて、小舟を漕いで、取りに来てくれ」 ジョージは、ここまでしゃべると、通話を切った。相変わらず、マイペースな性格だ。遥樹がスマートホンを腰のホルダーに仕舞って、皆を見回して指示を飛ばす。
 「ジョージがロシア政府の援助で食料を持ってきた。関係方面と連絡を取って、飛行艇まで往復するカヌーを出す。イエレミアさんは、アイリス・アトウッドさんと協力して長老たちとも相談して、人出しの手配を頼みます。PPLC側は、ツヴァル政庁と交渉して、集積場所を確保しよう。ええと、そこでまだタカタカを食べてる君。君に首相秘書との電話連絡を頼もう」
 「えー、あたしー?」と女性研究員。やおら立ち上がるので、びっくりした子豚たちが飛び跳ねたり、縁をよじ登ったりしてカヌーから逃げ出していく。遥樹が「最も食べた者が補給の責任を果たす。理にかなってるだろ? 僕たち男性は、君ら女性たちの指示で力仕事に徹するよ」
 「はーい、わかりましたー」と女性研究員。
 男性研究員の一人が「あれを見ろ!」と声を上げた。北西の上空にプロペラ機の編隊が見える。五機ほど、いずれも胴体下部が船底状をした飛行艇ばかりだ。ここで遥樹のスマートホンが再び鳴った。遥樹がホルダーからスマートホンを取り出し、耳に当てると、聞き馴染んだ声が届いた。
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