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33 嵐のキング・タイド(後)

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 カヌーに乗り移った住民たちの間から、悲鳴が上がった。一〇〇メートルほど先のスーパー・マングローブの防潮林に、ダウン・バーストがもたらした高波の白く泡立った先端部分がぶつかったのだ。すでに本来のキング・タイドで支柱根の半ばぐらいまで海水に浸かっていたスーパー・マングローブ林は、新たな高波に見舞われて、支柱根を生やした部分があらかた海水の水面下に没した。海水から上に出ている幹や枝葉が激しく前後左右に揺れる。押し倒されそうになった樹勢のやや劣る樹の左右から別の樹がまるで弱い樹をかばおうかとするように幹や枝葉を傾ける。突破箇所の波の速度と強さが高まって、左右のマングローブが引き寄せられているのだろうが、まるで木々が意思を持って仲間の樹のために身を捧げているかのように見える。
 スーパー・マングローブの防潮林の働きで津波のような高波が速度をややそがれているところへ、フォウや遥樹たちから見て左手、フォンガファレ島の南の方から、右手、島の北方に向かって進む、船外機モーター付きのカヌーが近づいて来るのが見えた。高波で道路はすべて水没している。平屋建てであれば屋根ばかり、二階建てであれば二階部分ばかりが水面に出ている建物の間の水面を、全速力で突き進んでいる。
 カヌーの胴の脇に赤十字のマークが塗られているのが見える。舳先(へさき)にいる白衣の男性が、カヌーの中央に横たえられた小柄な女性――女の子らしい――の頭のそばにかがみ込んでいる。白衣の男性が、船外機を操縦する漁師風の男に大声で怒鳴っている。スーパー・マングローブ防潮林の並木の南端から何の障害もなく押し寄せた新たな高波が、回り込んで押し寄せており、カヌーのすぐ後ろまで迫っている。
 船外機付きのカヌーは、島の北部に建つプリンセス・マーガレット病院に向かっているようだ。フォウは、嫌な既視感を覚え、首飾りの十字架を握り締める右手に力を込めた。平屋建ての屋根の上や、二階建ての建物の窓から、疾走するカヌーに気付いた人々がエールを送っているのが、風雨の音に掻き消されながらも、端々から伝わって聞こえてくる。
 フォウや遥樹たちには、赤十字のカヌーが津波のような高波から身をかわせ切れるかどうかを、見届けている猶予はない。スーパー・マングローブ防潮林にぶち当たった新たな高波の高さから見て、こちらの屋上もとても安全とは言えない。平屋建ての屋根の上に出ていた人々が屋根の下に呼びかけて自家用のカヌーを水面に押し出させているのが見える。二階建ての窓から周囲を用心していた人々は、北西からの新たな高波に気付き、家族や知人たちと知らせ合いながら、二階の屋根の上に登り始める様子がうかがえた。そこここの高い椰子の木に登っている子供たちの姿も散見される。こうした人々のすぐ足元を、スーパー・マングローブ防潮林で勢いをやや削がれながらも、二、三メートルの厚みで新たな高波が突き進んで来る。地盤の土壌や貝殻、家々のもろい壁材や家具、衣服や箱のようなものを巻き込んで、黒々とした海水が生き物のように押し寄せて来る。
 「ファーザー、遥樹、フォウ、アイリス! 早く、早く!」 葵が出入り口の塔屋の影から左手で手招きして、カヌーへの乗り込みを促す。屋上に突き出した出入り口の周りには、五、六隻のカヌーが舳先を北西向きに並べられ、すでに家族ごとに乗り込んでいる。屋上の手すりに密着させてアウトリガーを括り付けていたロープを、葵が機転を利かせて、手すりから伸びる舫(もや)いのように舳先近くの横木に結び直してある。これならば、屋上を越える高さの波が来ても、ブイのようにカヌーが浮かんで、手すりから一定の長さを保って、沖に流されてしまうことがない。
 司祭が「アオイ、いい塩梅(あんばい)にロープを結び直してくれたね。ありがとう」とねぎらった。葵が、「いえいえ、アウトドア派の直感です」と言いながら、無造作に頭の後ろに束ねた縮れ毛の下の首筋を右手で掻いている。
 にわかに、北西からの風と雨が強まる。屋上の手すりに差し込む風が、高く笛のような音を奏で始めた。家族ごとに収まったカヌーの後尾に一つぐらいずつ空きがあって、葵のほか遥樹やフォウ、アイリス、司祭が、各自それぞれの判断で手近なカヌーに乗り込みに向かう。
 「フォウお姉ちゃん!」 フォウが、声のするほうを振り向くと、屋上の出入り口から西寄りに並んだカヌーに両親や兄弟姉妹と乗り込んでいるファカレパが見えた。母親のひざの上に腰掛けて、かぶった赤いヘルメットを両手で押さえて、風に飛ばされないようにしている。ファカレパの手前に一人だけ座れるスペースがある。
 「ここ、空いてるよ」 「あっ、ありがとう。ファカレパ」 フォウが、ファカレパの乗ったカヌーに近付き、防水性のトートバッグを舷側の内側に立て掛ける。
 「これ、お姉ちゃんの大切な…」 ファカレパが小さな両手でぶかぶかのヘルメットを外して、フォウに手渡そうとする刹那、ひときわ強い風が吹き付けた。
 「きゃあ!」 赤いヘルメットが意思を持った生き物のようにファカレパの手から離れて、飛び跳ねる小鹿を思わせる動きでカヌーの間を縫って、バウンドしながら風下に吹き飛んでいく。
 やや風下のカヌーにいた遥樹や葵が反射的に腕を伸ばすが、かすりもしない。赤いヘルメットは、屋上の南側の手すりのてっぺんにコツリと当たり、いったんは手前に跳ね返って落ちるかに見えたが、新たな風の勢いを床から受けて、吹き上げられて宙に舞いながら、手すりを越えた。
 フォウが息を取り乱して、風下の手すりのほうに向かって駆け出すのと、建物の北側の壁にどす黒い波がぶち当たって水しぶきを上げ、屋上の床が風上から風下に向かう海水に浸されていくのが同時だった。建物の二階部分が高波に飲まれ、屋上の手すりのすぐ外は黒々とした海面に早変わりした。
 くるぶしぐらいまで浸かりながら、フォウが駆けて行って、南側の手すりに両手をかけて取り付く。フォウはしばらく赤いヘルメットの行方を目で追った。高波は島の南東からも押し寄せている。屋上から一〇メートルぐらいの波間に赤いヘルメットが漂い、意外にも風下の遠くに流れていかない様子を確かめると、フォウは手すりをつかんだ両手にぐっと力を込め、体重を浮かそうとした。
 「いけない!」「無理だ!」 人々が叫ぶ。が、鋭い風雨の中では、声が掻き消されてしまう。
 「おおばかものっ!」 突拍子もない大声を上げながら、フォウの腰に後ろから両腕を回して、手すりから引き離そうとする者がある。遥樹だ。フォウが反射的に身をよじらせ、無意識のうちに右足のかかとで遥樹の右足の向うずねや爪先を蹴りつける。
 「何のために、ここに戻った!」 小柄なフォウの頭に頬を寄せるようにしながら、届けとばかりに遥樹が叫ぶ。
 フォウがびくっと身を震わせたかと思うと、その肩の力みも消えた。急にフォウが手すりから手を放して遥樹に身を任せたので、二人一緒に後ろに倒れ込む。屋上の床を浅く浸す海水に遥樹がまともに仰向けに倒れ込み、その上半身に、体勢を持ち直そうとして体をよじったフォウが思いっ切り、身を投げ出す。仰向けの遥樹の上体に、うつ伏せになったフォウの上半身が斜めに勢いよく折り重なった。しばらく、二人とも動かない。
 「うーん、後頭部、打ったあ…」 遥樹が目を閉じたまま唸っているが、屋上まで忍び寄せていた海水が幸いしてクッションの役目を果たしたようだ。両ひざを立て、頭を上げようとする。はっとしてフォウが両腕を床に突いて、自ら上半身を上げようとした。図らずも、遥樹の顔の両脇に腕を突き、上から覗き込むような体勢になった。痛みをこらえて目をつむったままの遥樹の顔が近づいてくる。
 「うーん、おいしすぎるねえ。青春の輝きだねえ」と葵が引っ掻き回す。怪訝に思った遥樹が右目だけ開くや、二人の位置関係に気づき、あわてて「イエレミアさん、たいへん失礼しました!」と言って、ばっしゃと後頭部を水に浸ける。「ご、ご免なさい」 フォウがあわてて立ち上がる。遥樹も立ち上がったが、くるりと背を向け、左胸の辺りを抑えて、咳き込みながら、「い、痛てて」とうめいている。「私の体重で。私の所為で、ご免なさい」 フォウが遥樹の背中に向かってお辞儀をすると、遥樹が右手で眼鏡ケースを掲げ、肩越しに、「違います、これこれ。プラスチック製でいいのに、ラウラがジュラルミン製なんかのケースを渡すから。あばら骨にまともに、ぐっと押し付けられちゃって。イエレミアさんも、さぞかし…。あっ、胸のクッションが大きいから、大丈夫か」とやった。ちらっと自分の胸元に目をやり、「そんなに大きくありません!」とフォウ。
 「二人とも、いい加減にしなさい! 早く船に乗り込みなさい!」 暴風の中でも、太い、よく通る声が響いた。司祭だ。
 気が付けば、もうひざの辺りまで海水の水位が上がっている。二人は、慌てて司祭に黙礼を送ると、フォウはファカレパの家族が乗ったカヌーに、遥樹はPPLC研究員たちが乗ったカヌーに、それぞれ急いで乗り込んだ。
 海水に浮かび始めたアウトリガー付きカヌーは、それぞれ北西からのダウン・バーストによる強風を受けて、舫いを結び付けられた舳先を北西向きに漂っている。カヌーに乗っていると、前方から波と風雨が来るので、物凄い勢いで前向きに進んでいるような錯覚にとらわれる。前方を見やると、二階建ての建物の屋根に逃れた人々、司祭の一行と同じようにカヌーの上に乗り込んだ人々、木々の枝にしがみ付いている者たちなど、おのおの難を逃れている様子がうかがえる。スーパー・マングローブの防潮林の向こうに広がる環礁の洋上には、大きくドーム状に生長して下部を濃いネズミ色に染めた積乱雲が望まれる。
 スーパー・マングローブの防潮林に砕かれながら寄せ来る高波に襲われかけていた赤十字の船外機付きカヌーは、速力を増して、遥樹たちから見て遥か右側、北東へと姿を消していった。
 北西からのダウン・バースト由来の波と、南東からのサイクロン由来の波とが、至る所でぶつかり合い、ところどころで渦巻きが生じている。家屋から流れ出た家財がぐるぐると円を描いて漂い、回っているのが見える。波間に浮き沈みしながら、フォウの母親の形見の赤いヘルメットが、スーパー・マングローブの防潮林の手前で、大きく周回する運動に入っているのがわかる。
 「回っているぞおっ」 遥樹が右腕を赤いヘルメットの方向に突き出しながら、隣のカヌーに乗っているフォウに呼びかける。フォウが大きくうなずく。
 「防潮林の配置を工夫すれば、高波が崩れて、渦を巻く。波が渦を巻けば、沖合いに人や物が流されない!」 風を突いて叫んでいるのは、葵だ。
 いくつもの渦の相互干渉作用のためか、カヌーが上下左右に不規則な揺れを始めた。隣り合わせたカヌー同士が左右に張り出したアウトリガーを激しくぶつけ合う。右側から遥樹やPPLC研究員たちが乗り込んだカヌーの左舷アウトリガーがぶつかり、左側から葵や中高年の夫婦が乗り合わせたカヌーの右舷アウトリガーに突かれると、フォウやファカレパの家族を乗せたカヌーは、右へ左へぐらぐらと大きく揺さぶられた。
 「きゃあ!」 母親の両腕に抱かれてひざの上に座っているファカレパが、激しい揺れに今にもカヌーの外に投げ出されそうになる。ファカレパの幼い兄弟姉妹も跳ね上げられて、何人かはカヌーの外に投げ出されそうだ。
 「みんな、しっかりつかまるのよ!」 フォウが声を張り上げる。これが、二度も三度も続いた。
 いよいよ、低く厚く暗いネズミ色の雲が頭上に迫って来た。
 遥樹は、自分の後ろに座っているPPLC研究員たちを振り返り、雨に濡れて額にへばり付いた前髪の隙間から視線を上げて、意を決したような瞳を向けた。瞬間、濡れネズミ姿の研究員たちは戸惑いの表情を見せたが、すぐに晴れやかな笑みを浮かべてみせた。遥樹が呼びかける。
 「子供たちの身の安全のため、舫いを解いて、ここから離れる。みんな、いいね」
遥樹の提案に、研究員たちの強気な発言が続々と上がる。「こんなこともあろうかと、GPS付スマホを満充電しておいたぜ」「わたし、こう見えても、魚釣りの腕がプロ級なのよ」「生まれて初めて、オーストラリアに上陸だ!」
 遥樹がはにかんだような笑みを見せる。「そこまで行くことはないよ。けど、オールは何本ある?」 五、六人のうち、三人が手に手にオールを掲げた。
 「上等だ!」と言って、遥樹も右手にオールを掲げた。「舫いを解いたら、オールを漕いで、全速前進! 一〇〇メートル先のスーパー・マングローブ防潮林を目指す。樹に乗り移るぞ!」
 「イエッサー!」 遥樹は、迷うことなく、引き止め結びになった舳先の舫いの端を引いて、解き放った。すぐさま遥樹がオールを海面に突っ込むと、研究員たちもばしゃばしゃと波にオールをめいめい突き立てた。研究員たちは、初めはおっかなびっくり、押っ取り刀の風でオールを使っていたが、徐々に体で加減を覚え、うねりに見え隠れしながら前進していく。
 遥樹たちの様子を見ていた葵が、右舷のアウトリガーがフォウやファカレパたちのカヌーに激しく接触する具合いを見ながら、中高年夫婦を振り返る。
 「私らは、子育てが終わっているからね」と夫人。夫が、「俺は、今は足を痛めて現役から身を引いているが、かつては南太平洋を股にかけた漁師だ。オールを漕ぐ腕っぷしは鈍ってないぜ」とオールを振り上げた。
 「じゃっ、俺らは、風下の南東側のスーパー・マングローブ林を目指すとしますか」
 葵の提案に中高年夫婦がそろってうなずく。葵は、フォウやファカレパのほうを見やって、歯茎が見えるぐらいの笑顔を作ると、「んじゃ、また後でな」と言って、躊躇なく舫いの結び目の一端を引いて解き放った。葵と中高年の夫婦が乗り合わせたカヌーが、不規則な波に翻弄されながら、揺れて遠ざかる様子がフォウのいる所から見えた。
 頭上を覆う厚い雲の中に、強烈な閃光と稲光が短い間隔で駆けめぐる。すぐに、とどろきが聞こえてくる。雲霧の戸張を越えて遠ざかるカヌー二隻の姿が、もはやフォウからは、よく見えない。フォウは、ペンダントの十字架を包み込む右手に力を込めた。
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