上 下
37 / 48

27 サルソラへの祈り

しおりを挟む
 キャサリンの装甲車部隊が去った翌日から、植物可能性研究センター(PPLC)では、あわただしい日々が続いた。
 シード・バンク爆破事件の翌日、全焼した「シード・リザベーション・ビルディング(種子保存棟)」で現場検証が行われた。原生保存林地区リーダーのアーサ・シクウォイアが負傷により入院で不在。サブ・リーダーのケイラーほか中核スタッフは、あらかじめ運び出していた三〇〇〇種類もの植物の種子を商店や工場などの冷凍庫で手分けして臨時に保管してくれていた民間の協力者たちを訪問し、種子保存棟が再建されるまで、保管が長期間になることを連絡しに出払ってしまった。新人だけど普段元気が良くて、種子保存棟にそこそこ詳しくて、父親がモンテベルデ周辺管轄の警察署長であり、たまたま実行犯とも事件の日に会っているラウラが立ち合いには適任だろうということで、ラウラを中心にして同僚の若手の女性研究員が付き添う形で、現場でコスタリカ警察の婦人警官に応対することになった。
 ラウラは、中年の婦人警官の後ろに付いて、現場を何重にも囲う黄色い進入禁止テープをくぐって、建物の入り口に進んだ。黒焦げた鉄筋の柱、焼けただれた床、原形をとどめないほどに崩れた壁が間近に見える。屋根が何カ所も焼け落ちていて、いくつも開いた穴から青空が見える。焼け焦げた後のにおいが鼻を突く。消火に使われた水の残りのしずくが時折、天井からしたたってくる。
 「では、マドリガルさん。建物の部屋の配置とそれぞれの役目を教えてください」
 記入ボードを左腕に抱えた婦人警官が左胸のポケットからボールペンを右手に取り、ラウラに促した。
 「はい」
 ラウラが、火災の煤(すす)で汚れて炎の熱で形がゆがんだ受付けカウンターを回り込む。受付係用の背もたれ椅子は、焼け崩れてしまって、とても座れる状態にない。
 「ここ受付けカウンターでは、原生保存林地区からや、PPLCの敷地全体、モンテベルデの全域や、コスタリカ国内、そして、中南米じゅうからも、土着の植物の種子の持ち込みを受け付けまして…」
 ここまで説明すると、ラウラは前日、遥樹を手招きして誘いながら各部屋を案内し、アーサの押すキャスター付きラックにぶつかって二人にからかわれた記憶や、そのあとのアーサの負傷など一連の出来事が一気に思い出されて、胸が一杯になってしまった。自然に、とめどもなく涙があふれ出てくる。嗚咽(おえつ)を抑えられない。両手で顔を覆う。
 「…すみません。落ち着きがなくて…」
 「いいんですよ。皆さんが大切に使っていた建物が壊されて、ショックだったでしょう。一息ついてから、説明を聞かせてくださいね」
 ボールペンをポケットに戻した婦人警官が、泣きじゃくるラウラのそばに近づき、右手をラウラの背中に添えた。

 インターネットのニュースやテレビなどの報道を通じてPPLCでの事件、テロリストによるシード・バンク爆破やアメリカ軍による侵入未遂の発生を知った海外プロジェクトの提携先の団体からは、PPLCの研究員たちの安否確認とプロジェクトの継続可能性に関する問い合わせの電話や電子メールが相次いだ。
 事件発生時に自国が昼頃だった日本からは、ベトナムで身体障碍(しょうがい)者の自立や農業振興で支援に取り組んでいる市民団体『ベトナムの大地に未来の森を』の代表者からの電子メールが水源林地区のジュリー・ミード宛てに即座に届いた。安否を尋ねつつ、できるだけ早く情況を伝えてほしい、という内容だ。
 やや遅れて、中国の黄土高原・楡林(ゆうりん)市で長年にわたり砂漠緑化プロジェクトを進めているベテラン農業普及員の秋樹人(しゅうじゅじん)からも、ナオミ・ブラウン上席研究員に宛てて、ファクシミリで、状況を尋ねながら無事を祈る手書きの文面が送られてきた。「超樹(スーパー・プラント)を守れ!」というメッセージ付きだ。ナオミがファクシミリに気付いたのは、事件発生翌日の昼頃だったが。
 FAO(世界食糧農業機関)の造林専門家セルワレプティ・マケバは、南アフリカ共和国のケープタウンに帰省していて、事件の発生を知ったのは、現地時間で早朝のテレビ・ニュースを通じてだった。世界各地の難民キャンプにテント型シード・バンク(種子銀行)を設置する事業の実施が予定通り可能なのかどうか、原生保存林地区リーダーのアーサに電子メールを何度か送信したが、返事がないため、サブ・リーダーのケイラーに同じ内容の電子メールを送ってきた。ケイラーは、アーサの負傷を伝え、命に別状はないこと、海外プロジェクトは基本的に計画通り実施に移す方向だということを返信した。
 NASA(アメリカ航空宇宙局)から都市林施業地区リーダーのヘルダー・ヴィリャロボスへの電話連絡は、時差はほとんどないにもかかわらず、事件発生翌日の夕方にかかってきた。NASAの担当者は、「アメリカ国内で関係方面に事実確認をしていた」という。自国の軍隊が絡んだ事件だったため、そのことを非常に遺憾に思うということと、それだけに可能な限り、PPLCに対して支援を惜しまない、というメッセージを口頭で伝えた。ヘルダーの周囲の研究員たちが伝えるところでは、これ幸いと、ヘルダーがNASAに高額の支援金を要求したとか。

 内外のマスコミから取材の申し込みがおびただしい数で寄せられ、通常の業務に支障を来す恐れが出てきたため、事件から中一日置いて、PPLCの草野勤所長、マックス・ブリッジマン副所長、ナオミ・ブラウン上席研究員、さらに今回の事件で鍵を握った植物生長促進技術を開発した鷹田大(だい)・首都圏大学大学院教授、アメリカ大統領補佐官を告訴した総合商社系研究所の仲本道夫研究員の五人が、サン・ホセ市内のプレス・センターで記者会見を開いた。
 中南米からだけでなく、欧米や日本などアジアからも、科学、社会、経済、犯罪、軍事など、多彩な分野からジャーナリストたちが集まった。記者からの質問は、PPLCの活動内容、関連施設の被害状況、アメリカ軍侵入未遂の背景にある目的、そして鷹田教授の植物生長促進技術の画期性に集中した。
 話が冗長になりがちな草野所長に代わって、ナオミがPPLC設立以来の「都市は森の中に、森は都市の中に」という研究テーマ、そして水源林、原生保存林、復原、都市林施業の四地区で取り組んでいる主な研究内容を簡潔に説明した。アメリカ軍の侵入未遂については、すでにホワイトハウスから、「テロリストの撲滅を目的として、ペリー六世外交担当補佐官の収集した情報に基づいて作戦が実行に移された」との公式見解が発表されていた。このことを指摘する記者の質問が続いた。これにはバイオ・ハザード防止の名目で協力を依頼されて当日現場にいた仲本研究員が「ペリー六世補佐官が多国籍バイオ化学メーカーとの個人的な利害関係から仕組んだ陰謀」との反論を、例の大きな声でしつこく主張した。
 「たった一カ月で樹木を三、四〇メートルの高さに生長させる技術があるとは、考えられない」との懐疑的な指摘には、鷹田教授が、PPLCの会議室で説明したように、「細胞内の原形質流動を速めるシャジクモ・ミオシン遺伝子を導入し、さらに、細胞壁のプライマリー・ウォール(一次壁)にマイクロ・フィラメントとモーターたんぱく質が交互に並ぶように遺伝子操作して振動エネルギーを栄養に転換するようにしてやれば可能だ」との見解を述べた。「事件の最中にイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に投稿したので、掲載されたら読むように」と記者たちに勧めた。
 「すでに日本本土の遥か南方の島で実証されている」との鷹田教授の発言に、沖ノ鳥島へのスーパー・マングローブの移植について知らない記者たちの間から、どよめきが起きた。
 「この際、言っておく」と前置きして鷹田教授が、「俺と遥樹の植物生長促進技術をこのまま『特定秘密』に指定しておいたら、日本政府に対して損害賠償請求裁判を起こすことも辞さない。もっとも、国際的な科学雑誌で技術を発表するから、秘密指定を維持しても、無駄だがな」と日本の首相に喧嘩(けんか)を売るような発言を付け加えたことは、言うまでもない。
 ブリッジマン副所長は、多少技術は異なるが、スーパー・プラント化したナナカマドをシベリアの森林大火災に、またスーパー・マングローブをツヴァル諸島の高潮「キング・タイド」への対処に、それぞれ現地政府からの要請を受けて、投入する予定にあることにも言及した。

 記者会見の翌日からは、海外の民間企業や政府、市民団体、一般市民からの問い合わせが相次ぎ、対外的な交渉を担当するマックス・ブリッジマン副所長、その秘書役のナオミ・ブラウン上席研究員は、電話や電子メールによる対応に追われた。
 ナオミが、とくに回答に優先順位を置いた質問だけでも、次の通り多岐にわたった。

 ・熱エネルギーを吸収するスーパー・プラントによって温暖化を阻止に役立てられるか。
 ・放射能耐性スーパー・プラントを核物質汚染対策に活用できないか。
 ・地すべり対策にスーパー・プラントを投入可能か。
 ・アマゾン熱帯雨林再生プロジェクトにスーパー・プラントを活用したい。
 ・植物は塩害や熱ショックなどで病虫害木となるが、スーパー・プラントでは、そのようなことは起きないのか。
  ・スーパー・プラント化したヤナギによってアスピリンを急速に大量生産できないか。
 ・自然界にもともと存在しないスーパー・プラントは、果実がアポトーシス(プログラム細胞死)を起こすように設計されるべきではないか。
 ・農作物をスーパー・プラント化した場合、摂取したヒトに医学的影響は発生しないのか――など。

 ナオミがブリッジマン副所長を呼んで、PPLCの研究管理棟「生物学ステーション」二階会議室で回答の優先順位を相談している際に、別件の用事でたまたま面会に訪れた総合商社系研究所の仲本道夫が、じつに商魂たくましい提案を持ちかけた。
 現在寄せられている案件、そして今後寄せられる案件について、PPLCから技術供与を受け、自分の商社系研究所で実用化技術・製品を開発し、親会社の大手総合商社が依頼元に販売する。商社からPPLCにライセンス料を支払わせる。「これで、どうや」という申し出だった。所内の幹部と各地区のリーダー及びサブ・リーダー、そして篠原名誉所長にも相談のうえ、この提案は承認された。キャサリン・ペリー大統領補佐官が利害関係のある民間の多国籍バイオ化学メーカーを通じて独占的に行おうとしたことを、いわば「先取り」、あるいは「横取り」したような形だが、仲本の集団訴訟提訴によってPPLCの現状が維持された功績は大きく、PPLCの主体性も維持される案なので、提案はすんなりと受け入れられた。
 ナオミは、外部からの質問事項に順位を付けて各地区のリーダーやメンバーに割り振る作業を進めるとともに、事件前に対応を急ぐことになっていたシベリアの森林大火災、ツヴァル諸島の高潮に対処するよう、あらためてそれぞれ復原地区のサブ・リーダー、ジョージ・ホフマンと楠木(くすのき)遥樹(はるき)に指示を出した、ツヴァル諸島への対応には、予定通り、地元出身のフォウ・イエレミアも充てた。
 事態を知った高島裕子が休暇返上でジョージ、そして遥樹とフォウのために、例の自作のマイクロピペットを振るって、ナナカマドやマングローブのスーパー・プラント化に必要な遺伝子操作を手伝う、という申し出をしてくれた。これで二週間ほどで、現地に送り出せるだけの本数の苗木がそれぞれ揃えられる目処が立つことになった。

 一方、事件から一週間ほどで、原生保存林地区リーダーのアーサ・シクウォイアがサン・ホセ市内の病院から退院し、市内のアパートに戻ることになった。モンテベルデ一帯を管轄するポール・マドリガル警察署長の計らいで、一日だけ兄のヴァルが出所を認められて、妹のアーサのために荷物運びを手伝えることになった。まだ観光でコスタリカ国内に残っていた鷹田結(ゆい)も、志願してアーサに付き添う。もしも事件の日、自分が丸太ロッジに戻ると言い張らなかったら、アーサが負傷しなくて済んだのに、と自責の念を感じていたのだった。万が一のために、警護役でロドリゲス警部補が同行する。ヴァルにくくり付けた腰縄の手前側に手錠を結びつけ、自分の左手に掛けている。見ようによっては、ロドリゲス警部補のほうが、ぎょろっとした目付きからして罪人のように見える。
 通りに面した質素な五階建てのアパートの三階にアーサの借りた部屋がある。心配して出迎えた大家の老婦人が四人のためにドアの鍵を開けてやった。
 「アーサお嬢さん、大変でしたね」
 三角巾で吊るされた包帯巻きの左腕を見ながら、しゃがれた声で大家が気遣う。
 「いいえ、大家さん。こうして再び、兄に遭えましたし。私が通うPPLCも、兄さんが大ぽかをやらかした以外は、無事安泰です」
 アーサは、いつも頭の後ろでルーズに編んだ三つ編みを左肩に回して左胸に垂らす髪型だが、この日は髪を編めないため、ストレートの髪型で微笑んでいる。大家は、アイパッチをはめたヴァルの顔を見て、「ああ、お兄さんも大変だったねえ」と同情する。
 「いえ、この馬鹿はもともと、このざまです」とロドリゲス警部補が口を挟む。
 「入院中、火の元と水道、電気の確認で、何回か入らせてもらったけれど、部屋の中は元のまま、いじってませんよ。さあ、どうぞ」
 大家に促されて、まずアーサが玄関に入る。衣類の入ったトートバッグを両手で提げ持った結が続く。すぐに食べられるようなパンや果物、牛乳パック、チーズ、ハムなど食品がぎっしり詰まった大きな買い物袋を抱えたヴァルが、結の後に続いた。
 玄関をすぐ入って、すぐ右手の壁の上、天井と接する辺りに、こんもりとタンポポの穂のような感じに、球状に枝を張った緑色の植物が、エアプランツのように吊り下げられているのが、結やヴァルの視界に入った。
 「あっ、西部劇の映画で、風に乗って転がっていく、まあるい草!」
 結が珍しそうに見つめている。
 ヴァルが、「お前、こんなもの、田舎のオクラホマ州から、わざわざ持って来たのか」と半ば呆(あき)れている。
 「そうよ。私たちの故郷、ターレカ町の外れの荒地から拾ってきたタンブル・ウィード(回転する草)よ。学術的には、オカヒジキ属ヒユ科の植物群、学名『サルソラ』(Salsola)と言うのだけど」
 「お前、俺たちにとって珍しくもない、こんな雑草、馬や牛どもの餌になるようなものを、何でまた…」
 アーサが振り返って、ヴァルに向き合う。
 「兄さん。このタンブル・ウィードは、一部分を草食動物に食べられてるけど、この種類の植物の特徴として、自ら茎を折って根を切り捨てて、風に乗って転がって動けるように自分の体を変化させた状態。そう、今は眠った状態だけど、自分に合った環境の土地にたどり着いたなら、また目を覚まして、その土地に種子を蒔(ま)くわ。そして種子が成長し、また動物たちや虫たちに枝葉を与えて栄養を分けるのよ。兄さん、私たちも、いろいろな土地に、その土地にふさわしい良い種を蒔ける人間にならなくてはいけないのよ」
 「俺には生物学のことは、よくわからんな」とヴァル。
 「私は、人に〝人格〟があるなら、生物みんなにも〝生命の格〟と呼べるようなものがあって、植物にもそれが備わっていると言っているのよ。身を捧げ、動物や昆虫に食べられつつ、種を残して自らの生命を地上に広げようというのが、植物の意思よ。私が思うに、第一に自己犠牲を〝生命格〟として持つ尊い生き物が植物なの。これを人間も見習ったらいいと思うのよ」
 「そう言えば、お前、子供のとき、母さんから植物と動物の〝眠らない競争〟の昔話を聞きながら、『植物のほうが動物より偉い』『植物と話がしたい』とか、言っていたな。まさか、今でも…」
 「独自に電子センサーを開発して、本気で取り組んでいるわ」
 「そうだったのか!」
 ヴァルは、ずり降ろしそうになった買い物袋を抱え直した。
 「さあ、だから、このタンブル・ウィードに祈りを捧げましょ。いつも、出掛けと帰宅時には、私はそうしているのよ」
 「お、おい、アーサ! 田舎じゃ、これ、家畜の餌になってる代物だぞ」
 ヴァルは、また買い物袋をずり落としそうになった。
 「丸いクリスマス・ツリーと思えばいいのじゃないかね」と大家の老婦人が話を合わせる。
 アーサは、さっそくタンブル・ウィードのほうに向き直り、頭を少しうつむけて、目を閉じる。結は、仏さま、観音さまを拝むように、両手を合わせた。大家の老婦人も瞑目(めいもく)の祈りに加わる。
 「済まんが、俺はキリスト教徒だから、それを拝むわけにはいかん」と背を向けるロドリゲス警部補の左手の手錠につながる腰縄を、ヴァルが買い物袋の下から片手で器用に引っ張る。ロドリゲス警部補が、よろけながら、「痛えっ」と言って、ぎょろり目を剥(む)く。
 「刑事、俺たち兄妹(きょうだい)のために、形だけでいい」
 ふて腐れた態度でロドリゲス警部補は、「馬鹿げた兄妹もあったもんだ」と文句を言いつつ、ヴァルが瞑目の姿勢をとると、隣に並んで静かに目を閉じてたたずんだ。
しおりを挟む

処理中です...