上 下
30 / 48

21 スーパー・プラントの秘密

しおりを挟む
 研究管理棟「生物学ステーション」の南翼二階の会議室には、重苦しい雰囲気が漂っていた。マホガニー製のテーブルを、草野勤所長、名誉所長の篠原五郎老人、マックス・ブリッジマン副所長、ナオミ・ブラウン上席研究員が囲み、深刻な表情で椅子に座って黙り込んでいる。
 ノックに続いてドアが開き、緑色の半袖Tシャツを着た女性スタッフが来客を告げた。
 「プロフェッサー・タカダ(鷹田教授)がお見えになりました」
 「どうぞ、お入りください」 草野所長が日本語で入室を促す。
 鷹田教授がラフな服装でリュックを背負ったまま、ドアから姿を見せた。
 「ただ今、参りました。鷹田です」
 「鷹田くん、しばらくぶりだね」 篠原老人が日本語で声をかける。草野所長も、「久しぶりだ、鷹田くん」と日本語で迎え、右手を差し出して、空いている椅子への着席を促した。
 「済みません。失礼ですが、こちらのお二人は?」
 鷹田教授がリュックを床に置き、座席に座りながら、初対面の白人男女を交互に見つめる。草野所長が英語と日本語で女性が研究統括担当のナオミ・ブラウン上席研究員、男性がマックス・ブリッジマン副所長だと紹介した。二人とも口元に少し笑みを浮かべて会釈したが、どことなくぎこちない。
 鷹田教授が「上席研究員さんは、以前に篠原さんがお話しされていたご自慢のお孫さんでしたね。まるで鳶(とんび)が鷹を産んだが如く、とおっしゃっていましたね」と言って座を和ませようと日本語と英語で早口にしゃべった。鳶(Inverness)が鷹(Hawk)を産む、を直訳されてもアメリカ人には理解できるわけがなく、ナオミがやや眉をひそめてブリッジマン副所長の表情をうかがう。草野所長が受け取って、英語で説明する。
 「ああ、鷹田教授は今、篠原さんとブラウン上席の間柄について、〝A black hen lays a white egg〟(黒い牝鶏が白い卵を産む)という英語の諺を日本語流に言い換えて話されたんだよ」 ナオミが瞬時に表情を輝かせた。
 「光栄です。日本語を不勉強で、すみません」
 「いやいや、ところで今日は何を議題にした集まりです?」 鷹田教授が割と流暢な英語で尋ねる。鷹田教授は、海外の学会で研究発表する機会が多いので、英語はそこそこ使えるほうだ。またも草野所長が応じる。
 「ほかでもない、君の研究成果を狙う筋から、われわれは脅迫されているのだよ」
 「脅迫? 私の研究? 何かの間違いじゃありませんか?」 鷹田教授は、思わず上半身を後ろに反らした。
 「嘘ではない。通信経路を秘匿するトーア(Tor)で脅迫文を電子メールで送信してきている。英文で一通、日本語でも一通。内容は同一だ。ブラウン上席研究員、プリント・アウトしたものを鷹田教授に」
 ナオミが手元のフォルダーからA4サイズの書類を二枚取り出し、立ち上がって、鷹田教授に手渡した。鷹田教授が食い入るように書類に目を通す。
 「これは…」
 「そう。彼らの狙いは明確だ。一つ、沖ノ鳥島で実証した植物の生長速度を促進する技術の原理の開示。二つ、生長促進遺伝子そのものの構造に関する情報の提供。三つ、生長促進遺伝子の組み入れ方法の提示。これを文書にまとめて、今日の午後三時までに、指定したクラウド上の仮想ドライブにアップロードせよ、という要求だ。さもなくば…」
 「完全無視を許してもらえそうもないですなあ」 鷹田教授は、脅迫文の最終段落に目を落とす。そこには…
 「要求に応じない場合は、今日の一般開放で来場しているPPLC見学者を無差別に殺傷する」と記してある。
 うなりながら、鷹田教授が質問する。
 「犯人に心当たりは?」 これには篠原老人が応じた。
 「鷹田くんも知っているように、沖ノ鳥島ではスーパー・プラント化したフタバナヒルギからサンプルを採取した輩(やから)がおる。わしのところのマイケルが研究員に扮して研究管理棟を張っていたところ、楠木くんの研究室の周辺を探っている連中がおっての。そのうちの一人が沖ノ鳥島の武装兵に違いない、という。鷹田くんらは、隻眼(せきがん)の兵士と遭ったそうじゃが、それと似た風貌(ふうぼう)だということじゃ」 草野所長が篠原老人の発言を、逐一、ナオミとブリッジマン副所長のために英語に翻訳していく。
 「警察に連絡は?」 鷹田教授が英語と日本語で尋ねる。篠原老人が答える。
 「賊が見学者に紛れて研究管理棟とシード・バンクに突入する事態が想定できるのでな、逆に賊を袋のネズミにしてやろうと、このセンターの各出入り口に警官を増派してもらったのじゃが…。サイバー・テロを担当する部署から刑事が来たが、今のところ脅迫メールの逆探知は不可能ということじゃ。刑事は別室に控えている。われわれの判断を待つ、と言っている」
 ナオミが右手を小さく挙げて、篠原名誉所長の言葉を補う。
 「それと、あらかじめ名誉所長の指示により、研究室の植物生長促進遺伝子のセットを贋物(にせもの)と差し替え、さらにスーパー・プラント化を施した種子は、ほかの保存中の種子と合わせて、すべてシード・バンクから施設外に移送してあります」
 「いっそ、その隻眼の兵士を別件逮捕しては」と鷹田教授が返す。
 「鷹田くん、複数犯だったら、来場者の生命を保証できないよ。経緯から見て、複数犯、背後に主犯の個人か組織が存在する可能性が高いと見なければ」と草野所長が言い返す。
 じっと会話を聞いていたマックス・ブリッジマン副所長が口を開いた。
 「プロフェッサー・タカダ。オキノトリ・アイランド(沖ノ鳥島)で実証されたスーパー・マングローブに使われた植物の生長促進技術は、世間に公表をはばかるほど、危険なものなのかね。先日の研究の近況発表会でも、君の愛弟子(まなでし)のハルキ・クスノキくんが吊るし上げに遭ったようなんだが、危険が大きいということで、ハルキくんは何も話さなかった、と聞いている。何やら、風などの振動を生長エネルギーに変換するのだとか…」
 鷹田教授が腕を組んで、うつむき加減に口をへの字にして黙りこくっている。
 「鷹田くん。ここにいる人物は、全員信用できる。わしが保証する」 篠原老人が返事を促した。鷹田教授が視線を上げた。
 「私の植物生長促進技術の核心は、植物が潜在的に備え持つ〝動物性〟の側面を最大限に引き出す点にあります。いえ、もっとはっきり言えば、〝植物と動物の合体〟と言っていいでしょう」
 「何だって?」 耳を疑うような発言に、居合わせた者たちは色めき立った。
 「今、何と…」 篠原老人も絶句する。
 鷹田教授が右手の指を大きく開いて前に突き出し、ほかの者たちが一斉に質問しかけるのを制しながら、発言を継ぐ。
 「今から概略を説明します。お聞きになれば、それほど大それた技術、ましてやマッド・サイエンスではないことがおわかりいただけると思います。ただし、使用には細心の注意が必要なんです」
 鷹田教授は、マホガニー製のテーブルのそばに立ててあったホワイトボードのほうを見ると、立ち上がって近づき、ボード下のポケットに置いてある黒のフエルトペンを取り上げた。ふたを外すと、細胞の核に見立てたマルを描き、細胞壁に当たる二重の大きな四角を書き足して、マルを囲んだ。極めてシンプルな細胞の模式図だ。
 「植物の細胞です」
 続いて、鷹田教授はマルを半分囲むように、半円の矢印を描き加えた。
 「プラズマ・ストリーミング(plasma streaming 原形質流動)だね」とブリッジマン副所長。「ええ」 鷹田教授が続ける。
 「原形質流動は、細胞内の小器官にさまざまな生体分子を届けるための、細胞内の物質の移動です。エネルギーとしてアデノシン三リン酸、略してATPが使われます。ATPがエネルギー源に使われることは、動物内の細胞と共通です」
 「ATPは、〝生体のエネルギー通貨〟と言ったね」と草野所長がうなずく。
 次に鷹田教授は、丸い矢印の外側に接する直線を何本も描き足す。
 「細胞骨格です。マイクロ・フィラメントとも呼ばれますが、別名は『アクチン』です。ATPのエネルギーによって、これと相互作用を起こしてモーターたんぱく質が作動します。このモーターたんぱく質の別名は『ミオシン』。アクチンとミオシンが運動の原動力となるという点では、植物の原形質流動と動物の筋肉の収縮とは、極めて似た性質があります」
 「なるほど、その点では、植物と動物は似ておるの」 篠原老人がひざの上に横たえていた杖の頭を右手で軽くたたいた。
 「次にこれは、私の研究成果でなく、日本の理化学研究所の研究成果ですが、モーターたんぱく質の遺伝子を生物界最速の移動速度を持つシャジクモ・ミオシンの遺伝子に組み換えます。すると、原形質流動の速度が一・五倍~二倍に上がり、生長速度が上昇します。生体の大型化につながることも分かっており、例えば、葉の大きさが四〇パーセント大きくなるという実験結果も得られています。なお、シャジクモは、世界中の池や湖で育つごく一般的な藻(も)の一種です」 室内に感心を表す溜め息が流れる。
 「ここからは、私の研究分野です。細胞分裂してすぐできるプライマリー・ウォール(一次壁)の内部にマイクロ・フィラメントとモーターたんぱく質が交互に並ぶように遺伝子操作を施します。一次壁はまだ柔らかいですから、外部から受ける圧力によって伸縮します。ですから、風などの振動や圧力が一次壁に加われば、アクチンとミオシンが相互に作用し合い、今度はエネルギーが消費ではなく、蓄積するほうに働きます。エネルギーの一部は細胞内部の原形質流動のさらなるエネルギーに、残りは細胞壁そのものの生長に使われます。結果として、植物の生長速度が飛躍的に上がります。なぜこのような効果が得られるのか、厳密な解明は今後の課題ですが、遺伝子操作の方法のほうは確立できています。あと、沖ノ鳥島の一件では、遥樹、いや楠木くんの組み込んだ孟宗(もうそう)竹(ちく)の遺伝子が相当利いていることを申し添えておきます」
 鷹田教授は、フエルトペンのふたを閉め、ホワイトボードのポケットに戻した。
 「生長を速めるだけならば、さほど危険性は高くないのでは」 ブリッジマン副所長が鷹田教授に視線を向ける。すぐさま、鷹田教授が返す。
 「植物のアクチンとミオシンの研究を深化させると、植物と動物の境目があいまいになり、植物と動物を融合的にとらえる研究へと科学の扉を開きます」 室内の全員が視線を鷹田教授に向ける。
 「例えば、これはたった一例ですが、私の技術によってスーパー・プラント化し、さらにカーボン・ナノチューブの埋め込みにより電導性も高めた樹木を開発したとします。然るべき電極を差し込んで適切に電圧を加えれば、この樹木は細胞壁に組み込まれたアクチンとミオシンの働きにより、動物の筋肉のように動きますから、自由に向きを変えることが可能です。電導性がある以上、電波を発信・受信できますから、〝生きたレーダー〟として使えます。戦場ではレーダーは破壊されれば修理か交換をしない限り復旧できませんが、樹木レーダー、ましてやスーパー・プラント化したものならば、ごく短期間に、しかもそれこそ〝自然に〟再生・復旧します。もっとも樹木に完全に〝偽装〟した軍事レーダーですから、敵から攻撃目標として狙われることはないでしょう」
 「動く植物の軍事転用だね」 ブリッジマン副所長が唇をかみしめる。
 「さらに懸念があります」 鷹田教授が続ける。
 「皆さんは、〝ソーラー蜂〟をご存じですか」 皆、首を横に振る。
 「スズメバチの一種、オリエント・ススメバチですが、これが日光を受けて外骨格で発電していることが数年前に発見されました。餌からのカロリーに加え、太陽光エネルギーも使って昼間を活発に活動していると考えられています。このソーラー蜂の場合は外骨格に太陽電池に似た構造が見つかったのですが、仮に、光合成を行う葉緑体を動物の皮膚に組み入れて日光からエネルギーを受け取れるような生命工学を施したら、どうなるでしょうか。皮膚を通じて得た太陽エネルギーをアクチンとミオシンの相互作用、つまり筋肉の収縮に使えるようになるとしたら…。動物の筋肉組織のパワーアップだけにとどまらず、筋肉運動に使うエネルギーを節約して栄養蓄積に回せることによる生体組織の成長促進、並びに通常よりも早い成長の完了、つまり言い換えれば、例えば家畜の短期増産、あるいは反対に飼料や食料の節約にも、きっとつながるでしょう。そして、キメラ胚を使用して異種間で移植を行うことだって可能でしょう。しかしながら、これだけでは社会的なインパクトは、とどまらないように思えて仕方ないのですが…。例えばこれを、ヒトに応用したりなどしたら…」
 鷹田教授にしては、言い切りが悪い締めくくりになった。
 一同が黙り込んでしまうなか、またもノックの音に続いてドアが開いた。スタッフの女性に続いて、深緑色のスーツを着込んだ中高年の男性と、半袖のワイシャツに緑色のネクタイをした若い男性が入って来た。服装の色は、内部の人間を装っているが、物腰が明らかに違う。
 「ロドリゲス警部補に、サンチェス特捜刑事…」 ナオミが立ち上がって、テーブルの座席を手で差して、腰掛けるように促す。
 ぎょろっとした目つきの中高年のロドリゲス警部補が右手を挙げて着席を遠慮しながら、「犯人の指定した時刻まで、三時間を切ってますが、結論は出ましたか。要求に応じる場合と、断る場合とで、われわれの動き方も変わってきます」と単刀直入に訊いてくる。
 「鷹田くん、正念場じゃぞ」 篠原老人が低い声で判断を促した。
 伏せ目がちに鷹田教授は、「すでに決心は…」と口を開き、すぐに視線を上げ、「付いています」と言い切った。居合わせた人達が「おお」と絞るような声を出す。
 「では、鷹田くんの判断を、皆に」と草野所長が穏やかな口調で促す。
 「何事も、人の命には代えられません。犯人の要求に、全面的に応じます」
 鷹田教授の発言に一同がどよめく。
 「何という!」「虎を野に放つようなもの」「社会的リスクを君は今、指摘したばかりじゃないか!」
 鷹田教授が一人ひとりの視線に目で答えながら、慎重に言葉を続ける。
 「いずれは、このように私の植物生長促進技術を外部に明らかにしなければならなくなると思っていました。今回は、想定外の形でしたが…。外部向けに発表するための論文は、以前からできています。犯人にすべての情報を発信した一時間後、科学雑誌にも同じ内容の論文を投稿し、技術を公に発表します」
 篠原老人が低い声で、「それで良いのかの。技術のマイナス面が野放しにならんかの」と尋ねる。鷹田教授がゆっくりうなずく。
 「科学雑誌に送る論文には、想定される弊害(へいがい)についても詳しく列挙してあります」
 ロドリゲス警部補がぎょろっとした目にかすかに笑みを浮かべながら、話し出す。
 「英断ですな。それでは、われわれは引き続き本日は念のため、この施設内の警備に当たりますが、おそらく惨事はこれで未然に防がれたと見て良いでしょう。犯人の特定は、通信後の反応、あるいは次のメッセージ・メールの解析を待つしかありません。プロフェッサー・タカダのファイルに、犯人に気付かれないような追跡ソフトを組み込みたいが、了承してもらえるだろうか? これはステルス性の高いスニッファ(嗅ぎ回り)・ソフトなんだが、犯人がファイルをダウンロードした瞬間にデータを収集し、われわれに瞬時に発信したのち、完全に自己消滅するようにプログラムしてあるのだが」
 しばし考えてから、鷹田教授が応じる。
 「万が一、犯人が気付いて報復に出てくる事態は考えられませんか」
 これには端正な顔立ちのサンチェス特捜刑事が答えた。
 「確かに、通信経路を秘匿するトーアを使って脅迫文を電子メールで送信してきていますが、今回の要求に応じない場合の報復措置が、〝来場者の無差別殺傷〟となってますよね。いいですか、もしも仮に犯人がコンピューターや情報技術に詳しい人間ならば、報復措置は、この施設内のコンピューターをシステム・ダウンさせるだとか、保存データを全部消去するだとか、この国の公共施設をハッキングして使用不能にするだとか、サイバー・テロに近い行為に出るはずです。持てる力を誇示するためにね。ところが犯人はじつに泥臭い、原始的と言うか、あえて語弊を恐れずに言わせていただくなら、誰にでもできる単純に殺人をほのめかしているだけです。おそらく犯人は、ファイル入手後にそれを高額で買ってもらえる企業などに売り込みをかけるのでしょうが、ことが刃傷(にんじょう)沙汰(ざた)に及んだ場合、そんな〝血塗られた商品〟にすぐさま飛びつくような企業はあるでしょうか。へたをすれば、殺人や傷害の共犯が疑われますよ。商品を血で汚さずに、きれいなまま売るのであれば、はなからサイバー・テロを選択すべきです。こう考えると、殺人でしか脅しを仕掛けられない今回の犯人は、情報技術に疎い奴らと考えるのがごく自然です」
 サンチェス特捜刑事は、不敵な笑いを鷹田教授に見せた。鷹田教授は、いつもの調子に戻って、鷹田節の話し方で応じる。
 「そこまで言うのなら、任せることにする。来場者たちの命をコスタリカ警察が保証してくれよ」 サンチェス特捜刑事がわずかに首を振りながら答える。
 「プロフェッサー・タカダ、あなたが犯人の求める技術情報ファイルを提供してくれることこそが、最大の人命保証ですよ」
 鷹田教授は、何も聞こえなかったようにリュックに取り付き、上部のふたを開け始めた。「さて、いつも持ち歩いているノート・パソコンからファイルをアップロードするが、段取りは?」
しおりを挟む

処理中です...