上 下
17 / 48

11 アグロフォレストリーの青年(前)

しおりを挟む
 遥樹は、「生物学ステーション」と名付けられた研究管理棟の研究室で、イン・シリコ(in silico)、つまり試験管の中で行う遺伝子組み換え植物の実験を、上司の上席研究員ナオミ・ブラウンの指示に従って設計し、遺伝子組み換え植物を開発するポジションに配置され、日々、午前中はこの仕事に追われることになった。東京の首都圏大学大学院で後輩院生の高島裕子や佐々木豊にやらせていた分注作業を、いまはオートマチックの分注機で短時間に済ませたり、試験体が少ない場合には自らマイクロピペットを使って分注作業をしたりしている。
 遥樹の得意は、鷹田教授の指導のもとで開発した、孟宗竹の遺伝子や振動を栄養分に変換するという独特な遺伝子の組み入れ技術なので、それをいろいろな植物に応用する目的の実験設計がナオミから頻繁に指示される。種子の発芽率や発芽勢、伝染性病害チェックなど新品種テストもこなし、あわただしい。
 遥樹は、首都圏大学大学院での経歴を買われて、ナオミの右腕として復原区域を担当する研究室の一つのサブ・リーダーに配置されていた。ただし、アメリカの大学仕込みのやり方にこだわる、いわばナオミの「左腕」となっている先任のアメリカ人サブ・リーダー、ジョージ・ホフマンがいて、しばしば意見の対立が起きた。ナオミも、祖父の篠原老人に似たところがあって、時折やや強引とも思える日程や内容の指示を寄越してくる。何とか切り抜けて、やれやれと思う日が続いた。
 午後は、復原地区で遥樹が自分で設計したスーパー・プラント樹木の樹高や幹の太さを計測し、演習林の体積、つまりバイオマスを推計して記録する作業に充てられた。夕方からは、寮の自室で自由な時間を持つことができた。
 数週間が過ぎて仕事にも慣れてきたある日の朝、生物学ステーション内の遥樹のいる研究室の固定電話が鳴った。ナオミからのものだ。
 「ハルキ、私よ。PPLCの外から掛けてる」
 「こんな早くから、どちらへ」
 「チラ島よ」 遥樹は、ペルーからの帰りに飛行艇ボンバルディアCL―415が経由したニコヤ湾の奥に、そんな名前のやや大きな島があったはずだと思った。
 「まさか、これから僕にそちらへ向かえ、と言うんじゃないでしょうね」
 「馬鹿ね、今日は午後からPPLCの各地区のプロジェクト・リーダーが集まって、各案件の近況報告が行われるでしょ。統括役の私が欠席するわけにはいかないわ。あなたも助手として参加することにしたじゃない」
 「は、はい、ナオミ」
 「返事は一回で。用件を伝えるわ。私たちの復元地区のプロジェクトのプレゼンテーション用資料を今日の出席者人数分、プリント・アウト」
 遥樹がすかさず、「済ませてあります」と答える。
 「いいわ。それと、海外プロジェクト・コンペティション用の資料も、同じ部数、プリント・アウト」 またも「済んでます」と遥樹。
 「グッド・ジョブ、ハルキ。あとは例のビデオ・ムービーを、よろしくね」
 「えっ、あれは、本当に必要ですか? ビデオなしでも、イラストか何かで説明できそうな感じですけど」
 「理性と感情に、同時に訴えるのなら、ムービーしか、あり得ないわ」
 「わかりました。とりあえず五分で編集してあります。仰せの通りに、フライング・プレジデント・ナオミ。ところで、チラ島には何をしに?」
 「チラ島には、ハルキがPPLCにやって来る少し前に、私たちの研究管理棟のブランチ(支所)ができているのよ。いま、研究データの回収と、ブランチのメイン・メンバーの出迎えに来てるってわけ。このあと、私たちの飛行艇で生物学ステーションに戻るわ。じゃあ、あとで」 ここで、一方的に電話が切れた。
 「『私たちの飛行艇』ってナオミが言っていたけど、どう考えても、私物化してるよ」
 独りごちる遥樹に、普段はライバル関係にある、もう一人のサブ・リーダー、アメリカ人男性研究員のジョージが、深くうなずく。「だから人呼んで、フライング・プレジデント」
 遥樹は、ナオミから電話で指示を受けたあと、生物学ステーション内で日課になっているひと通りの作業にメドを付けると、復原地区に向かう準備を整える。ロッカーで白衣を脱ぎ、柄入りの半袖Tシャツ、化繊のスウェットパンツ姿に着替える。スーパー・プラント化した樹木、ここでは熱帯性常緑高木のマホガニーなのだが、その樹高を測るレーザー距離計や幹の太さを見るための輪(りん)尺(じゃく)、直径計測用の巻尺、計測結果を入力するノート・パソコンなどを入れたリックサックを背負う。
 「じゃあ、ジョージ。僕は、ファーム(畑・演習林)へ行くよ」
 「オーッ! あとは俺に任せろ。午後の発表会とコンペで、また会おうぜ、ハルキ!」とジョージが遥樹を送り出す。
 遥樹は、壁がガラス張りで明るい研究室から歩み出ると、清涼感のある白壁の廊下を進んで、一階に続く階段を降りていく。手すりの少し上の壁面には大小さまざま、色とりどりのメモ用紙が何枚も貼り付けてある。一枚一枚見ていくと、ある現象を説明するのに、この計算式で良いのかと尋ねる問いや、大至急、探している参考文献や論文の題名を訊くもの、行き詰まった実験のブレーク・スルーとなる技術を尋ね訊くものなど、殴り書きだったり、ワープロ打ちだったり、思い思いの表現で張り出されている。
 壁の匿名の質問の落書きに、匿名の落書きで答える――。
アメリカの名門マサチューセッツ工科大学(MIT)で伝統的に行われている慣習を、そのMIT出身のナオミ・ブラウンが、ここPPLC、今では自分がかなり実務的に取り仕切っている「植物可能性研究センター」にも取り入れたものだ。
 遥樹が自分にも答えられる質問がないかと見ていくと、ピンク色のメモ用紙に、「ハルキ、サングラス要る?」というのがあった。定規で不意に額をパチンとたたかれた感覚にとらわれる。
 「ラウラの仕業(しわざ)だな…」
 遥樹は、沖ノ鳥島の一件以来、光過敏症の症状から完全には抜け切れていない。この生物学ステーションの玄関から炎天下の昼下がりに出て行く際に、まぶしくて両手をかざして、それでも目を開けていられないことがよくある。その動作を、ラウラがどこからか、観察していたようだ。
 ご丁寧にメモ用紙には、誰かが「奴(やつ)には、サングラスは似合わない」と書き加えてあるのも、この研究施設らしいと言える。さらに、ラウラのものらしいメモ書きが読める。
 「私が選ぶんだから、似合うに決まってるでしょ、どこかのバカ!」とある。
 遥樹は、マイケル青年が飛行艇ボンバルディアCL―415の操縦中にかけているトンボ眼鏡のようなサングラスを思い浮かべ、「センスないなあ」と思いつつも、ラウラの厚意が捨てがたく、メモ用紙に「君に任せるよ」と書き添えた。
 そして…このやり方なら…、遥樹は目を閉じたまま、両手でまともに両まぶたを覆って、生物学ステーションの玄関から、片足を踏み出す。炎天下の日差しがきつい。
 「ああ、また…」 遥樹にとっては、まぶしいだけではない。怪鳥の姿のような形状の軍用機から、火だるまになった人影が、ばらばらと空中に投げ出される映像が、すぐそこに展開されているかのように、瞬時によみがえる。普段は、そんなことはないのに、頬がこわばる。動悸が激しくなる。
 徐々に明るさに慣れて、右目、左目の順に目を開ける。未舗装のまっすぐに伸びる幅一〇メートルほどの林道の右手に都市林施業地区の木々の連なり、左手には遥樹が担当する復原地区の木立や熱帯雲霧林が見える。両地区を分かつ林道の先には、立ち働く研究員たちの姿や、機材を運ぶトラック、土木工事に向かう万能トラクター「ウニモグ」の動きが望まれる。樹冠生物学の連中が搭乗して繰り出しているものだろう観測用の小型飛行船が、ゆったりと右の都市林施業地区から左の復原地区に流れていく様子もうかがえる。
 「ようし、行くぞ」 両手を突き上げて、一つ伸びをすると、遥樹は玄関の脇に置いたスポーツ・サイクルを前方に押し出してすばやくまたがり、軽快に漕ぎ始め、徐々に速度を上げる。
 草いきれが、むせるほど濃い。
 おびただしい野鳥の鳴き声に交じって、右手の遠くからチェーンソーのうなる音が聞こえる。左手の森林の樹木には時折、測定や調査のためにロープを使ってツリー・クライミングで登攀(とうはん)を試みている研究員たちの姿が見えては後方に消えていく。
 「みんな、頑張っているな」
 しばらく進むと、どこからともなく聞き慣れた双発のエンジン音が聞こえてきた。自転車を停めて、生物学ステーションのほうを振り向くと、四つの地区を区切って交わる林道の交差点の中央に建つ、上から見ると十字型をしたレンガ色の二階建ての構造物の真上を、左側から右側へと飛行艇ボンバルディアCL―415の黄色い機体が通り過ぎて行くのが見えた。機体側面にPPLCのトレードマーク「果物を背中に載せたハリネズミ」の絵柄がはっきり見える。
 「フライング・プレジデントのご帰還だな」
改めて生物学ステーションを見やれば、壁面にはツタ性の濃緑の植物が這(は)い伸び、手前や左右に突き出した建物の端の玄関のそれぞれにはコスタリカ特有のさまざまなランが植えられ、色鮮やかな花を付けているのが見える。
 遥樹は、前を向いて再びスポーツ・サイクルを漕ぎ出す。
 二〇、三〇階ほどの高層ビルの高さほどのユーカリや時折セコイアも混じって等間隔に並んでいる雄大な人工林を右側に眺め、左側には熱帯らしいジャングル然とした鬱蒼(うっそう)たる雲霧林を見やりながら、進んでいく。
 モンテベルデ自然保護区には二〇〇〇種類を超える樹種が存在すると言われるが、この復原地区ではそのうち約二割の樹種にスーパー・プラント化する生命工学を施しているとナオミから以前に聞いている。光合成の効率を高めたもの、成長の速い樹種と掛け合わせたもの、環境ストレス耐性を高める遺伝子操作を加えたもの、特定の植物ホルモンが多く分泌されるように遺伝子工学で調整したもの、木材の主原料リグニンの生成能力を高めたものなど、区画に区切って生長促進実験を実施しているという話だった。さらに二割の樹木には、二酸化炭素施肥のほか、FACE(Free Air CO2 Enrichment)実験施設による栄養成長速度強化、微小磁場環境の整備による生長促進など、樹種の生体には生命工学を施さずに環境の整備によって生長を促す試みも続けられているということだった。残りは対照のためや新たに見つかった技術を試すための区域とするため、手付かずに残してある、とナオミが話していたのを思い出した。
 遥樹は、自転車の車上から、下刈り用のアタッチメントを取り付けたウニモグが右側の都市林施業地区に入る横道の細い林道に曲がっていくのを見やり、正面の主林道をさらに進み、左右にいくつかのカナディアン風の丸太ロッジをやり過ごしながら、自分の担当する区域の丸太ロッジにたどり着いた。
 丸太ロッジは、いずれも植物可能性研究センター、PPLCの研究員たちの詰め所や活動拠点、研究機器・資材の保管庫として使用されている。祝祭日には施設を一般向けに開放することもあるので、そうした際には、見学者向けの休憩場所にも使われることになっている。
 遥樹は、板張りの階段を駆け上がって、三角屋根の丸太ロッジの入り口ドアを開いて中に入った。四つほど並んだ木製のテーブルの一つにリュックを置き、測定に必要なレーザー距離計や輪尺などを取り出し、また外へ出た。
 丸太ロッジからさほど遠くない道なりの場所に、切り開いた区域があり、遥樹がスーパー・プラント化を試みた五本のマホガニーが立っている。灰色の太い幹が上に伸びるにしたがって枝分かれし、それぞれ豊かに葉を茂らせている。その列の先には、対照のために植えた通常のマホガニーが五本並んでいるが、見るからに樹勢が劣る。
 林道の脇に立ち、まずはスーパー・プラント化したマホガニーから測定していく。レーザー距離計で幹までの水平距離と樹冠の頂までの距離を測定する。次いでレーザー距離計に内蔵された三六〇度チルトセンサーで樹冠の頂までの仰角を測る。三角関数を使ってレーザー距離計の高さの水平から上のマホガニーの高さを計算する。さらに幹の根元までの伏角(ふっかく)も三六〇度チルトセンサーで測る。こちらも三角関数を使ってレーザー距離計の高さの水平から下の幹の地面からの高さを計算する。三角関数で計算した二つの高さを足し合わせれば、マホガニーの樹高を知ることができる。
 「一二メートル。二週間ほどでここまで育つとは、大したものだ」
 遥樹は、植物の潜在的な能力に感心しながら、次々と測定し、メモ帳に数値を記入していく。
 今度は近付いて、幹に巻き付けて円周を測れば直径に換算した目盛りを読める直径メジャーを使って、太さを測っていく。いずれも、ほぼ一メートルほどの太さに育っていることがわかった。
 続けて、対照の五本に作業を移す。レーザー距離計を使うまでもなく、巻尺で高さを測っていく。いずれも一メートル数十センチだ。こちらも直径メジャーを使うことなく、L字の定規を二つ合わせたような形をした輪尺を使う。片方のL字定規を引いて、もう一方のL字定規とで幹を挟み込んで、開いた幅の目盛りを読む。十数センチの太さのものばかりだ。二週間ほどでは目立った生長はしていないが、こちらがむしろ正常値だ。
 遥樹は、丸太ロッジに戻って機材やメモ帳をリュックに戻して、いったん自分専用のロッカーに仕舞い込んで鍵をかけた。
 デジタル式の腕時計を見ると、ランチの配達までに時間がある。
 遥樹は、今日は、隣の都市林施業地区の地区リーダーとランチを自分の丸太ロッジで一緒に摂りながら、都市林施業地区で実験されているアグロフォレストリーの技術向上にマホガニー生長促進技術が有効かどうか話し合う、いわば「パワー・ランチ」を誘われているのだが、一度、アグロフォレストリーの農場を自分の目で見ておきたいと思い、丸太ロッジを後にし、スポーツ・サイクルで主林道をさらに東に進んだ。
 雄大なユーカリ林が途切れ、二メートルほどの高さの角材の杭が数メートルずつ一定の間隔で何列も並ぶ区域、バナナの木が並ぶ区域、カカオの木が並ぶ区域、アサイーの木の列、タペレバーの木の列、マホガニーの木の区域という配列が三回ほど繰り返して眺められたころ、次の角材の杭の立ち並ぶ区域に十数人ほどの研究員たちが集まって立ち働いているのが見えた。
 遥樹は、スポーツ・サイクルから降り、林道の脇の木立に立て掛けると、研究員たちの動きに目を凝らした。長靴を履いてスウェットパンツ、半袖Tシャツ姿の研究員たちが、杭の根元にコショウのポット苗を埋め込んでいる。ある者たちは、杭と杭の中間にカカオの苗を植えている。
しおりを挟む

処理中です...