上 下
16 / 48

10 コスタリカ――都市は森の中に

しおりを挟む
 双発の黄色い機体のプロペラ機は、峻険な山脈の連なりを飛び越えながら、ひたすら東へと飛行を続けていた。ペルー共和国の首都リマのホルヘ・チャベス国際空港を飛び立った燃料補給直後の飛行艇ボンバルディアCL―415は、馬の鞍(くら)のような形をした峠の手前の上空に差し掛かっていた。
 「クスコ市の手前、マチュピチュ遺跡の上空に近づきました。これから四五度、南に転進して一時間も飛べば、目的地のカタウアシ村の上空に着きますが、ここで転進しますか? フライング・プレジデント、ミス・ナオミ・ブラウン」
 サングラスをかけた長袖のワイシャツを腕まくりした日系人青年パイロットが、操縦席の右隣の助手席に座る淡いイエローの長袖ブラウスと明るいチョコレート色のスカートを身に着けた、金髪ショートの女性に英語で指示を求める。どことなく東洋人らしい面持ちを帯びた横顔だが、肌の色は白く、ネイティブなアメリカン・イングリッシュで返答が来た。
 「そうねえ、マイケル。せっかくここまで来たのだから、遺跡の上空を一周してから南下するわよ。遺跡の周囲にも、確か小規模ながら、アンデネスがあったわね。見ていきたいわ。ハルキは、アンデネスのビデオ撮影を。ラウラは、今日は悪いけど着陸はできないから、植物の種子の採取はできないけど、その若い頭にいろんな知識を詰め込んで帰りなさい、いいわね」
 ナオミ・ブラウンは、中南米コスタリカに拠点を置く「プラント・ポシビリティ・ラボラトリー・センター」(Plant Possibility Laboratory Center)、略して「PPLC」、日本語に訳せば、「植物可能性研究センター」の上席研究員を務めており、一途な研究姿勢で所内の人望を集めている三〇歳を超えたばかりの新進の女性研究員だ。ラウラ・マドリガルは、コスタリカの名門コスタリカ大学に通う一八歳の女子大学生で、植物可能性研究センターの見習い研究員になったばかり。絶滅危惧が心配されたり、希少性が高かったりする伝統品種や土着品種の種子を保存するシード・バンク運動に熱心に参加していることをナオミに認められ、最近、植物可能性研究センターにスカウトされたばかりだ。
 「はい、マアム・ナオミ!(ナオミ先生!)」 後部左側の座席から、半袖シャツにスポーティーなウインド・ブレーカーを羽織ったラウラが、ポニー・テールの髪を揺らしながら、元気良く答える。
 そして遥樹は、沖ノ鳥島の一件のあと、グアム島で一週間ほどの経過観察ののち、幸運にも快方に向かったのだが、「不用意に帰国はできない」という篠原老人と鷹田教授の意見の一致のもと、篠原老人の勧めで、数十年前に老人が設立に関わった、コスタリカの植物可能性研究センターに研究員として勤めることになったのだ。マイケル青年は、グアム島が雨季の間は「空中消防隊」が開店休業の状態なので、篠原老人の指示で一時的に休職し、植物可能性研究センターの臨時お抱えパイロットとして雇われたのだった。
 ストライプ入り水色のワイシャツを腕まくりしたあと、日本製のハンディ・ビデオ・カメラのスイッチを入れながら、遥樹が英語でナオミに尋ねる。
 「ええと、アンデネスっていうのは、段々畑のことでよかったですね、ミス・ブラウン」
 「そうよ、古代インカ帝国時代の農業遺跡ね。標高差を使った水と蒸気の循環、霧が運ぶ水分、そして気温差をたくみに利用して作期や作目を変えて、年間の長い期間にわたって収穫が続くように古代の人たちが知恵を凝らしていたのよ。まず観光地にもなっている遺跡を一周撮影したら、現在も現役で使われているカタウアシ村のアンデネスを空撮するのよ」
 飛行艇ボンバルディアCL―415が、馬の鞍の形をした峠とその脇にそびえる尖(とん)がり帽子のような頂を持つ小高い峰のシルエットの左肩を乗り越え、右回りに旋回して行く。峰の東側の斜面は、午前の日差しを浴びて輝いている。鋭角的に削り取られ、精密に組み上げられた、芸術品とも見まがう石造りの建造物が、手に取るように間近に広がっている。遺跡の平坦な区域や階段、遺跡の左下に続く九十九(つづら)折(おり)の登り道に、観光客らしき人影の群れが小さく望まれる。
 マイケル青年が操縦桿を操りながら、眼下の光景を見て口笛を短く吹いたのに続き、ラウラが風音を真似たような「ヒュー」という歓声を上げる。
 遥樹は、飛行艇が山影から日向に出て、急に眩しくなったので、反射的に左手を額にかざしていた。具合が良くなったとはいえ、強い光はやはり相当に苦手なままだ。
 「ハルキ! フォーカス!」
 遥樹の上司に当たるナオミ・ブラウンが、広大な景色に見惚(みと)れているのだろうと、遥樹をたしなめる。「ピント合わせて」と「集中なさい」の両方の意味に遥樹は受け取って、ただちに録画ボタンを押して撮影を開始した。ファインダーから覗いた遺跡の右下に続く斜面には、いまは何も実っていないが、かつては土着のジャガイモやトウモロコシが豊かに収穫されていただろう、石垣で囲われた畑の遺構が何段も連なっていた。
 飛行艇ボンバルディアCL―415は、マチュピチュ遺跡を右旋回で一周したのち、一路南へ進路を取った。岩場ばかりの険しい山岳地帯、モンターニャ(山林)に覆われた起伏に富んだ高原を、飛行艇が順調に越えていく。ところどころ、場所によって薄い雲が覆っているが、おおむね眼下の視界は良好だ。時折、小さな滝も見えてくる。
 ラウラは、あれを撮って、これも撮って、と遥樹にねだり、まるで観光旅行気分だ。単調な飛行が続き、手持ち無沙汰になると、握り締めた両手を左右に交差させたあとに、手の甲を上向きにして遥樹のほうに差し出し、どちらの手にキャンディが入っているか、当てさせた。遥樹が当たったら、遥樹に口を開かせて、握っていたキャンディの包みを解いて、キャンディを頬張らせる。遥樹が外れたら、ラウラの勝ちで、自分でキャンディを頬張る、という他愛のない遊びに興じている。
 ナオミが一つ咳払いする。
 「そこの二人。これは、ドライブ旅行じゃあないのよ。ラテン系の女の子に、じっと静かになさい、といっても無理かもしれないけれど。遥樹も、しゃんとして。というか、病み上がりにしては、随分と、はしゃぐわね」
 「イエス、フライング・プレジデント、マアム・ナオミ!」 またも、ラウラは、返事だけはしっかりしている。遥樹は、「エクスキューズ・ミー、ミス・ブラウン」と言って黙り込んだ。
 やや置いて、遥樹がナオミに尋ねる。
 「みんなが、ミス・ブラウンのことを、〝フライング・プレジデント〟(空飛ぶ社長)と呼びますが、どうしてです?」
 ナオミが答えを言いよどんでいると、ここぞとばかりに、マイケル青年が会話を受け取った。
 「それは、専用のヘリやセスナで出勤したり、出張したりする、お偉いさんだからですよ」 あっさりと指摘する。ナオミがあわてる。
 「よしなさい、マイケル。私は、ただの上席研究員よ」
 マイケル青年が、うやうやしくお辞儀の仕草をしながら、「お言葉ですが、ミス。まさしく、今、この機の状況が、ミスお抱えのチャーター・フライトです。つい先日も、この機の側面と翼に、PPLCのマーク、〝働き者の象徴〟ということで、『果物を背中に乗せたハリネズミ』のマークをペイントさせましたよね」と返した。
 ナオミも、負けていない。
 「さっきから、ミス、ミスって、どうして東洋系の男たちは、女性を素直にファースト・ネームで呼べないわけ? 西洋の社会なら、上司の女性にだって、ファースト・ネームで呼ぶわよ!」と言い返す。
 「そういえば、ナオミって、日本的な名前ですね」と遥樹が聞き返す。
 「いい着眼点です、ミスター・クスノキ」とマイケル青年が応じた。「ミス・ナオミのご威光は、由緒ある血筋から、発しているんですよ」
 もうだめ、と観念したように、ナオミがこうべを垂れる。遥樹が、えっ、といったようにマイケル青年の横顔を見つめる。ラウラは、にやりにやりと笑っている。ここからは、マイケル青年の独壇場だ。
 「レイディース、アンド、ジェントル・マン!(ご注目、紳士淑女の諸君!)  ミス・ナオミ・ブラウン・イーズ!(ナオミ・ブラウンさんは!)」 ナオミが、ますますこうべを垂れる。マイケル青年が、ひときわ大きな声で叫ぶ。
 「グランドーター・オブ・アワー・ビッゲスト・スポンサー、ミスター・シノハラー!」(われわれの最大の出資者、篠原さんのお孫さんでーす!)
 マイケル青年が口笛を吹きまくると同時に、ラウラも「ヒュー、ヒュー」を連発する。遥樹は、構えていたハンディ・ビデオ・カメラを思わず落としそうになった。
 「篠原さんの、孫娘?!」 遥樹が「道理で、そっかぁー 威圧的だもんね! ていうか、ミドル・ネームが『S』でしたもんね!」と言うとすかさず、「ウィズ・リーズン?」(納得でっしょっ?)と、わざとらしく、マイケル青年が続ける。
 そうこうしているうちに、カタウアシ村の手前上空に飛行艇ボンバルディアCL―415が差し掛かった。左右に激しくくねる谷川を足元に見ながら、殺風景な高原を越えたと思うや、突然、緑豊かな広大な沃野が眼前に広がった。左側の丘陵に石垣造りの等高線が数限りなく刻まれ、等高線の線と線の間に緑が植わっている。丘陵に挟まれた平地には、作物が植わった石垣で囲われた四角い農地がいくつも並び、傾斜に沿って緩やかな雄大な段々畑を形成している。段々畑のところどころには、色濃い緑の潅木も散見される。そんなアンデネスの連なりの中央に、つつましい家々の並びが望まれる。まさに「箱庭」という言葉を当てるに相応しい眺めだ。機内の全員が、しばし息を呑む。
 ナオミが、祈るかのように両手を合わせて、強く握り締めた。
 「みんな、タイム・マシンは信じないでしょうけれど。今から五〇〇年前のアンデス文明のさなかの田園地帯に、いきなり連れて来られたのと、まったく同じ風景を、私たちはいま、ここで見ているのよ」
 いつしかマイケル青年は陽気な口笛を、ラウラは天真爛漫な歓声を、遥樹は真面目なビデオ撮影を、それぞれ忘却の彼方に逸してしまっている。
 ナオミが、本来のペースを取り戻しながら、しかし優しい口調で、みんなに話しかける。
 「フライング・プレジデントより、乗組員の全員に達します。五〇〇年前から延々と続く植物と人々の暮らしに思いを馳せて、現代社会にどうしたら活かせるのか、心と体で感じて、これからの研究生活に、いいえ、人生の過ごし方に、役立てて行ってほしいと思うのよ」
 続けて、ナオミの持ち前のてきぱきした指示で、遥樹がビデオ撮影を一時間ほどで着々とこなすと、飛行艇ボンバルディアCL―415は、すぐさま帰路についた。ナオミらしい強行軍の飛行プランだと言える。
 北の隣国エクアドルの首都キトにあるマリスカル国際空港にいったん着陸し、空港内で給油と遅い簡単な昼食を済ませたあと、キトから南アメリカ大陸を離れて太平洋上を進み、中南米の小国コスタリカに向かって再び一路、北上していく。
 夕刻迫るころ、一行が乗った飛行艇ボンバルディアCL―415は、東側から大西洋、西側からは太平洋に挟まれた、南北に細長い地峡の南海岸にたどり着いていた。
 「いったん、サン・ホセのフアン・サンタマリア国際空港におりますか? フライング・プレジデント、ナオミ」 マイケル青年が尋ねると、ナオミが即座に答える。
 「いいえ、直接、PPLCの私設滑走路に向かうわよ。新人の二人に見せておきたいものがあるのよ」
 機は、コスタリカ西岸に北側から南に突き出した半島に囲まれたニコヤ湾の西岸に沿って飛行し、湾の奥行きの中ほどまで進むと、右に操縦桿を切った。海岸沿いの街並み上空を離れ、夕陽を背に受けての飛行となった。
 飛行艇ボンバルディアCL―415は、農耕地を越え、しばらく南に流れる川に沿って飛び、川が大きく蛇行する小高い丘を越えて、奥深く広大な森林に覆われた丘陵地帯の上空にやって来た。丘陵地帯の向こう正面に日本の富士山によく似た姿で深緑に覆われた山容が望まれる。
 「ラウラには説明の必要がないと思うけど、ハルキがいるから説明すると、正面にピラミッド型に突き出ている山、国立公園のシンボルとして有名なアレナル火山が、見えるわね。火山の手前に一面に広がる熱帯雲霧林帯が、エコツーリズムで世界的に知られているモンテベルデ自然保護区よ。私たちのPPLC、植物可能性研究センターは、この自然保護区の東外れにあるんだけれど。マイケル、アメリカのジョージア大学コスタリカ・キャンパスの辺りの上まで来たら、右に旋回ね。私たちの研究施設や実験林を一望するのよ」
 飛行艇ボンバルディアCL―415は、畑の間にロッジ風の一階建ての校舎が散らばるキャンパスの上を越えると、右方向に機体を傾けた。
 しばらく直進すると、眼下の左と右とで明らかに植生が異なる区域が広がる空域に入って行った。未舗装だが、ほぼ直線に整備された林道が真下を走っている。
 「マイケル、操縦の腕を上げたじゃないの。PPLCの研究施設エリアのちょうど真ん中を飛んでいるわ。ラウラ、ハルキ、いいこと? PPLCの研究演習林は、大きく四つに分かれているの。いま進んでいる道路の左側の土地が水源林地区、そして道路の右側が原生保存林地区よ。水源林地区は、私たちの実験演習林の中で人為的な操作をいっさい加えないサンクチュアリ、いわば森林の生命線ね。一方の原生保存林地区では、いかに雲霧林を現状のまま残していけるかを研究していて、絶滅が危惧される在来品種や伝統品種を守っていくためのジーン・バンクとしての研究や活動も続けているわ。こちらはラウラの専門分野といえるわね。あとしばらくで、みんなにも、もうお馴染みの『生物学ステーション(Biological Station)』、つまり研究管理棟ね。それから森林観測塔や、見学者のための森林資料館の上を飛び越えることになるわ」
 ほぼ人の手が入っていないとみられる道路左側の水源林地区の鬱蒼(うっそう)とした雲霧林と比べて、道路右側の植生は手入れが行き届いて、緑の明るい若々しい枝葉が目立つ。
 飛行艇ボンバルディアCL―415は、生物学ステーション、各種の実験施設や森林観測塔、資料館などが建ち並ぶエリアを一瞬で飛び越えた。左側と右側に見える植生がすっかり変化した。
 「今、林道の左側に広がっているのが復原地区。この復原地区では、いったん破壊されたら何十年もかかる森林の復原をどのようにしたら短期間に実現できるか、遺伝子工学も駆使した研究が続けられているのよ。こちらは、ハルキの得意分野といえるでしょうね」
 遥樹は、自分の得意分野と言われて、復原地区をしっかり目に焼き付けようと、上半身を左側に乗り出して、目を凝らす。左側の席に座っているラウラが、「どうぞ、ハルキ」と言って、座席の背もたれにぴたっと体を付けて、窓の外を見やすくしてやる。
 植えたばかりの苗木の区域、成長途上の若木の区域、生長し切って枯損(こそん)木(ぼく)や傾斜木が目立つ区域が、樹種ごと折り重なっているのが望まれる。
 「ありがとう、ラウラ」と言って、遥樹は自分の座席に座り直した。
 残るは、右側の地区だ。
 「右側に広がっているのは、都市林施業地区よ」
 「都市林施業地区?」「こんな人里離れた熱帯雲霧林なのに?」 遥樹とラウラが交互に疑問を口にした。
 切り株ばかりが並んでいる区域、そうした切り株から新たな若木が育っている萌芽二次林が多い区域。かと思えば、伐採を待つばかりの巨木が悠然と立ち並ぶ区域が眺められる。
 「この植生、何か、おかしくないですか?」 遥樹がナオミに尋ねる。ラウラも続く。
 「私もそう思う。おかしい、すごくおかしい!」
 巨木の大群は、こんもりとした樹形で樹高が一〇〇メートルを超えると思われる、中南米ならば、さほど珍しいとはいえないユーカリの木々の間に、やや樹高は劣るが、太い幹で樹皮の濃い赤みが印象的で、明らかに広葉樹のものではない、針葉樹のそれとわかる複葉羽状の葉をまとった凛々(りり)しい姿がすがすがしい、まず中南米ではあり得ない巨木がまばらに立っている。
 「あら、あなたたち、よく気が付いたわね。さすがは、私たちPPLCの『輝けるニュー・ホープ』といったところね。何の樹か、当ててご覧なさい」 ナオミのクイズに、遥樹とラウラが思わず顔を見交わす。ほぼ同時に二人が答える。
 「セコイア! 北アメリカ西岸にしか、自生しない!」
 ナオミが声を立てて笑う。
 「あなたたち、練習もしてないのに、息がぴったりよ。その通り、学名『セコイア・デンドロン』として知られる、通称『セコイア』よ」
 「どうして、ここに」 遥樹が訊く。ナオミが答える。
 「素朴だけれど、とっても深い質問ね。生物学的には、棲息地域の限界を実証・確認するといった意味があるわね。ここがアグロフォレストリーも営む施業地区という意味では、次世代につなげる革新的で新しい産業技術を開発・確立するという意味があるわ。そして、人類の文明論という側面から言えば、都市と森林の関係のあり方を哲学する場だとも言えるわね」
 遥樹とラウラが、再び顔を見合わせる。
 「文明論? ですか」 ナオミが、後部座席に座る二人を交互に見ながら、ゆっくりとうなずく。
 「私のPPLC初心者ナビゲーションの役目としては、ここまでね。あとは、ここの所長のドクター・クサノに、じかに訊くといいわ。所長の口癖は、『都市は森の中に、森は都市の中に』よ」
 「えっ」 遥樹とラウラは、またもや、顔を見合わすばかりだった。
しおりを挟む

処理中です...