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8 T・B・I――外傷性脳障害
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三時間ほどの飛行のあと、昼頃に、飛行艇ボンバルディアCL―415は、グアム島の手前上空に差し掛かった。中央部がくびれた左右に細長い緑豊かな島影が、青々とした凪(な)いだ海上に見えてきた。雨季らしく、ところどころ雲の絨毯(じゅうたん)が覆っている。ヘビが口を開けたような形の小さな湾が右下を過ぎていく。
「右側の突き出た半島に米軍のアブラ海軍基地がある。奴(やっこ)さんたち、ここからやって来たのかもしれんな。パイロット、やや左に進路を取って、グアム国際空港の隅に着陸しなさい」
篠原老人が指示すると、パイロットのマイケル青年が、着陸用の車輪を下げるためレバーを操作した。マイケル青年が流暢な英語で外部と連絡を取り始める。空港の管制官と連絡を取っているようだ。駐機許可の取得をすますと、さらには空港へのタクシーの呼び出しまでこなしているらしい。
グアム島に近づくに従い、この一時間ほど口数が少なくなっていた遥樹(はるき)が、絞り出すような口調で声を発した。
「せ、先生。硫黄島の海上自衛隊基地は、まだでしょうか」
ううんっ? とうなって振り返りながら、鷹田教授が応じる。
「遥樹、何言ってる。今、俺たちが向かっているのは、グアム島だぞ」
顔を見ると、遥樹が額に脂汗を浮かべ、両手で頭を抱え、耐えるような表情をしている。遥樹は、「すみません、さっきから、窓の光がまぶしくて、頭痛と、めまいが…」と途切れ途切れにつぶやいた。
鷹田教授は、研修や研究発表のために遥樹を連れて旅客機で移動することがこれまでたびたびあったが、機内で遥樹が体調を崩すことはなかったと思い返した。
「珍しいな、飛行機酔いか。あと、もう少しだ。遥樹、頑張れ」
「先生、キャビン内の補助燃料を早く捨てないと、この機が危ないです」
会話のちぐはぐさに、高度を下げる操縦に入っていたパイロットのマイケル青年も怪訝(けげん)に思いながらも、計器類をひと通りチェックして、篠原老人のほうをちらりと見て、「All green〈オール・グリーン〉. No problem, sir〈ノー・プロブレム、サー〉」(異常なし。問題ないです)と告げた。
篠原老人は、しばらく目を閉じたあと、目を見開き、「シェル・ショック。爆発がすぐ近くで起きたことによる一種の〝戦争神経症〟じゃな」と言い切った。
「何です、それは」 鷹田教授が声を上げる。篠原老人が重々しげに語る。
「塹壕に隠れた兵士が砲撃を間近に受け続けた時などに発症したものだが、記憶障害や心身の不調が特徴じゃ。第一次世界大戦で見つかったものじゃが。最近では、手製の路肩爆弾の攻撃を装甲車内で受けたイラクやアフガニスタン帰りのアメリカ兵によく見られる。確か、TBI、『外傷性脳障害』とか言ったの。音速を超える爆風が、脳に何らかの障害を与えると考えられておる」
「お、お詳しいですね。まさか、遥樹が、それに…」 鷹田教授の声が震えている。
「爆発した米軍機からの爆風で楠木くんがマングローブの枝に引っかかったのなら、考えられんことではない。じつはの、グアムの知り合いのやっとる病院で、そういった帰還兵の患者が療養しとるでな。残念じゃが、楠木くん、グアムでしばらくゆっくり、骨休みじゃぞ」
篠原老人は、話の仕舞いに、遥樹に話しかけていた。
飛行艇ボンバルディアCL―415は、グアム国際空港に着陸後、大型旅客機の間をすり抜けながら、管制官の指示通り、邪魔にならないように空港の隅に駐機した。
篠原老人は、マイケル青年が機内に用意してあった折り畳み式の車椅子の上の人となり、マイケル青年にいつも通りに押すように命じた。頭を右手で押さえて足取りが弱々しい遥樹に、鷹田教授が時折、肩を貸してやる。四人とも、ライフジャケットは機内に残した。
空港内では、国内機の帰投なので、面倒なパスポート・チェックなどはなされなかったが、遥樹の様子を見て救急車を呼ぶかどうか気遣う職員が何人かいた。篠原老人がそのたびに「病院の当てがある」旨をマイケル青年の通訳を通じて伝えた。篠原老人の顔パスで国際線のゲートから逸(そ)れた別のゲートに自動的に職員に案内されると、鷹田教授は、あらためて研究のスポンサーとして逞(たくま)しい人物を得たと実感するのだった。
鷹田教授の今回の訪米で表敬訪問に当たり鷹田の援助依頼にスポンサーとして名乗りを上げてくれた、この篠原老人は、太平洋戦争後に繊維産業で成功を収めた資産家で、中米にある植物関係の研究施設の設立にも携わった経歴を持つ。
篠原老人はこのグアム島では、自然の恵みをもたらすとして地元の住民が気にもとめない、毎年乾季の終わりの四月頃に頻発する山火事を、地球温暖化を抑制する観点から消し止めるべきだとして、空中消火専用の飛行艇ボンバルディアCL―415を地元の消防署に寄贈し、マスコミに取り上げられて時の人となっていたのだった。この特殊な飛行艇の機能については、じかに目にするまで鷹田教授は、まったく理解していなかったのだが。
沖ノ鳥島への緊急救難活動も、「軍は作戦のためには民間人を二の次にする」という強い説得に、鷹田教授が強引に従わされたが、結果的に篠原老人の判断が正しかったことになる。老人本人はあらかた普段は車椅子生活なのに、飛行艇のチャーターの即決手配など、あまりにフットワークの良い、沖ノ鳥島への出発準備で、鷹田は遥樹へのメール発信を途中まで書きかけのまま中断せざるを得ないほどだった。
車椅子に腰掛けて両ひざに杖を横たえて乗せた篠原老人、車椅子を押して進むマイケル青年、苦しげな表情で足取りが危うい遥樹、肩を貸す鷹田教授の四人が、白壁が清潔感を醸(かも)し出す一階の到着ロビーを玄関に向かっていく。観光客らしい軽装の西洋人男女、半袖Tシャツ姿の東洋人グループらが、立って談笑したり、ソファーに座って時間待ちをしたりしている間を通り過ぎて進む。
四人が玄関を出ると、左側にタクシー乗り場があり、一番手前のセダン車がにじり寄ろうとしたが、それを封じるように、別のタクシーが四人のそばに突っ込んできて急停車した。
「Hey, Michael!〈ヘイ、マイケル!〉 Welcome you back!〈ウェルカム・ユー・バック!〉」(やあ、マイケル! よく戻ったな!)
窓から運転手が身を乗り出して、甲高い声でマイケル青年を呼んだ。友人のタクシー運転手らしく、年齢がマイケル青年と同じぐらいに見える。「Oh, he is who you said…〈オー、ヒー・イズ・フー・ユー・セイド…〉」(ああ、彼が例の…)と運転手が遥樹を見て言いかけたところでマイケル青年が駆け寄り、運転手の手に一ドル札二枚を握らせた。普通チップは一ドルが相場なので、運転手はにやりと笑う。
運転席から路上に降り立った運転手の青年が、助手席や後部座席のドア、トランクを手際良く開け、手招きする。手前のタクシーの運転手がけたたましくクラクションを鳴らすなか、杖を突いて車椅子からゆっくり立ち上がった篠原老人が、くだんのタクシーの運転席を、黙れっ、というかのように凝視する。クラクションが鳴りやんだ。
マイケル青年が介添えして篠原老人を、鷹田教授が肩を貸して遥樹を後部座席に乗せ、マイケル青年が助手席、鷹田教授が後部座席の右隅に収まった。折り畳んだ車椅子をトランクに収めた運転手の青年は、運転席に戻り、ただちにアクセルを踏み込んだ。
タクシーは、グアム国際空港の北側の市街地の路上を、ヤシの街路樹の連なりや、庭のマリア像の印象的な教会、乗用車が数多く駐車するスポーツ用品店、瀟洒(しょうしゃ)な白壁のマンションなどを脇に見ながら、軽快に進む。歩道にカラフルなTシャツを着た小太りの現地チャモロ人男女たち、マレー系の顔立ちでフィリピン人と見られるスリムな女性たちなど、ゆったりと歩いたり、立ち話をしたりしている姿が眺められる。一行の乗ったタクシーは、真っ赤な塗装が施された観光バスと時折、すれ違う。一五分ほどでタモン湾を臨む海岸に並んで建つホテル群の一つに到着した。
空港の到着ロビーを出た時と同様に、マイケル青年が篠原老人の乗った車椅子を押し、鷹田教授が遥樹に肩を貸しながら、ホテルのロビーに入る。フロントで予約を取ってあるか尋ねてくる受付けカウンターの女性に、予約はなく、ホテル一階のクリニックに外来で診察を受けに来たことを告げる。いったん出てテニスコート側の入り口から入って正面にあるクリニックに行けばチェックインは要らない、と受付カウンターの女性に教えられ、一行はそのようにした。
ホテルの一階の一区画を改築した小さなクリニックのドアを開けると、日本人医師が運営する医療施設にふさわしく、日本人の若い看護婦が受付カウンターで出迎えた。
「これは、篠原さん。どうされました。しばらくお見かけしませんでしたが、またお足の具合ですか?」と聞いてくる。診察が終わったと見える地元の男女が二人ずつ待合室のソファーに腰掛けている。
「今日は、わしではなくて、こちらの若者での」
篠原老人がおおよその遥樹の症状を手短に看護婦に伝えた。看護婦が今聞いた症状に関して問診票に書き入れつつ、海外旅行者向けの保険に遥樹が入っているか尋ねてくる。「保険が利かずとも、わしがカードで決済する」という篠原老人の一言で遥樹は、鷹田教授に付き添われながら診察室へと看護婦に案内されて進んだ。
縁なしの眼鏡をかけた中年の小太りの医師が、椅子に座ったまま看護婦から受け取った問診票に目を通しながら、遥樹と鷹田教授を診察室に迎え入れた。
「いかがされましたか」と医師が尋ねてくる。
鷹田教授は、はたと気づいて、すべてを話すわけには行かないと思いつつ、もっともらしい理由づけで、遥樹が爆発風を受けたことにしなければ、と考えた。
「私はその場には居合わせなかったのですが、マンションでガス爆発があって、巻き込まれたようです。爆発の風圧を受けて、頭痛やめまいがするようです。日差しがまぶしいだとか。手足に力も入らないようで。問題は、一時的な記憶違いが…」
医師は、「手足の方は、神経かねえ」とつぶやきながら、「少し強く触るよ」と言って、丸椅子に座っている遥樹の背後に立ち、上腕の裏側を揉(も)んだり、首を後ろに反(そ)らさせたりした。
「今ので手足に痺(しび)れを感じた?」と訊く。遥樹が「いいえ」と小さな声で答えると、席に座ってカルテに記入しながら、「首や腕の神経の影響ではないね。ガス爆発の近くにいたというのは本当?」と尋ねてくる。
やや置いて、遥樹が「ええ」と答える。
「イラク、アフガニスタン帰りの米兵で、即席爆破装置の攻撃を受けて、似たような症状の患者がグアムに転地療養に来ているよ。篠原さんがさっき看護婦に話したそうだが、爆風が脳に何らかの損傷を与えているという説が有力なんだが」と医師が話す。後ろ脇に立っている鷹田教授が「CTスキャンとかMRIで、脳を精密検査する必要があるのでしょうか」と尋ねる。
医師は、即座に答え、「外傷性脳障害、英語の略称でTBIと言いますが、これまでの知見で知られている限り、CTスキャンやMRI検査では、何も映りません。ところで、夜は眠れてますか」と続けた。沖ノ鳥島でのフタバナヒルギ付き消波ブロックの設置作業、ダウン・バーストの発生から一晩しか経っていない。
鷹田教授は、「彼は今朝、気絶から覚めたばかりです」と答えた。医師は、「一晩経っていますか。爆発現場に救急車は来なかったんですか」と尋ねる。鷹田教授は、「現場が混乱していて、彼を発見できなかったようです。われわれは、現場に彼がいることを知っていたので、確認しに行ったんです」と答えるしかなかった。
医師は、軽くうなずきながら「はい、いいですよ。現段階で入院の必要は認めません。数日間、経過を見ましょう」と言い、看護婦に頭痛薬と睡眠導入剤を一週間分出すように指示した。「不眠や記憶障害が続くようでしたら、また来てください。提携先の医療機関を紹介します」と医師は付け加えた。遥樹は、やや安心した表情になり、両ひざに両手を突いて、ゆっくり立ち上がると、鷹田教授と一緒に医師に頭を下げ、後ろを向いて診察室のドアに向かう。遥樹が出ていった頃合いに、医師が口を開いた。
「ところで、お連れの方、最近、グアムではガス爆発による火災のニュースを聞きませんが、どこの事故ですか?」と背中から医師が尋ねてくる。鷹田は体が固まった。
雰囲気から察したのか、医師は「事情がおありのようですが、医者は病気とけがを治すのが唯一の務めですから、プライバシーには関わりません。篠原さんとは断続的にですが、一〇年来ぐらいの付き合いです。心配なさらないでください」と振り向く鷹田教授に視線を送って話しかけた。
鷹田教授は、待合室で車椅子に座った篠原老人に「数日間の経過療養」と診断されたことを告げた。このままホテルにチェックインするかどうか、相談していると、マイケル青年が「ホテルは料金が高い。洗濯機や食器、タオルなんかが揃ったサービス付きアパートメントが長期滞在には便利」ということを教えてくれた。一人当たり二週間宿泊しても四〇〇ドル足らずだという。先ほどのマイケル青年の友人が運転するタクシーをホテルのロータリーに待たせてあるということなので、すぐにそのタクシーで向かうことにした。
タクシーに四人が乗り合わせるころ、雨季らしい綿雲が上空に差し掛かり始めた。強い南洋の日差しに顔をしかめていた遥樹の表情が、やや柔らかくなる。
一行を乗せたタクシーは、青みがかった海原が印象的なタモン湾に沿った道路をグアム国際空港とは反対方向の西側の郊外に向かって進んでいく。助手席ではマイケル青年が携帯電話でサービス付きアパートメントの空き状況を確認している。割と短時間で空きが見つかり、タクシーはマイケル青年の案内に従って、商店街を左折して住宅街に入って行った。純白と深緑色のツートンカラーが印象的でこじんまりとした二階建てのアパートが並んでいる。その中の一棟の手前でタクシーは停まった。
鷹田教授が降りて門扉を開けようとするが、鍵がかかっている。すぐに管理人がやって来るはずだ、とマイケル青年が言う。一〇分ほどでサングラスをかけた丸顔のチャモロ人らしい高齢の男性が電動スクーターでゆっくり近づいて来た。よっこらしょ、といった風情で電動バイクから降り立つと、門扉とアパートの鍵を二本ずつズボンのポケットから取り出し、ちゃらちゃら鳴らしながら右手でぶら下げて、門扉に手を掛けている鷹田教授に手渡した。
「泊まるのは、何人かな」ということを、ブロークンな英語で訊いてくる。鷹田教授が自分と遥樹を指さしながら、「Two(二人だ)」と答える。
高齢の管理人の男性は、「鍵はそれで足りるね。一人一日一二ドルだが、何日間泊まる?」と訊く。鷹田教授は、「とりあえず、一週間」と答えた。高齢の現地男性は、小さな電卓で計算し、一人八四ドルずつ、合計一六八ドルをチェックアウト時に支払ってもらうが、チェックアウト時に返す約束でセキュリティ・デポジット(一時預り金)として一人一〇〇ドルずつ、合わせて二〇〇ドルを先に渡してほしい、ということを言ってくる。
こういうシステムか、というように鷹田教授がマイケル青年の顔を見ると、うなずいている。鷹田教授は、財布からフランクリン大統領の図柄が入った一〇〇ドル紙幣を二枚、高齢の管理人に手渡した。
管理人は、手帳に鷹田教授の氏名や年齢、連絡先、パスポート番号などを記入させると、「良い旅を、差額はチェックアウト時に手渡すよ」ということを言いながら、電動スクーターにまたがって、のんびりとした速度で去っていく。
タクシーの後部座席で篠原老人が鷹田教授を手招きしている。
「わしは、済まんが、ここまでじゃ。わしも、この島でたちの悪い持病のため、何度目かの長期療養中の身なんでな。ここで、投宿先のホテルに帰らせてもらう。身の回りのことは、マイケルに面倒を見させるから、心配は要らん。ああ見えて、結構、役に立つでな」
篠原老人は、マイケル青年を呼びつけて、「一週間、バイト代を出すから、鷹田教授と楠木くんの衣食住を手伝うように」と命じた。雨季は山火事の心配がないから、マイケル青年が有給休暇を取れるように消防署に言っておく、ということも言った。マイケル青年は、気前良く、「Yes, sir〈イエッサー〉」(合点です)と篠原老人に敬礼して答えた。
続けざまに篠原老人は、「このタクシーをボーナス付きで一週間チャーターする。わしをホテルに送った後、ただちに現地点に戻るように」と運転手の青年に命じた。運転席から左手を差し出した運転手の青年と、マイケル青年がハイタッチした。
鷹田教授が振り返ると、サービス付きアパートメントの門扉に、遥樹が背中をもたれかけて寄りかかり、両ひざに両手を当てて、顔をうつむかせて休んでいる。
間もなく、南の島の雨季らしいスコールが降り注ぎ始めた。
「右側の突き出た半島に米軍のアブラ海軍基地がある。奴(やっこ)さんたち、ここからやって来たのかもしれんな。パイロット、やや左に進路を取って、グアム国際空港の隅に着陸しなさい」
篠原老人が指示すると、パイロットのマイケル青年が、着陸用の車輪を下げるためレバーを操作した。マイケル青年が流暢な英語で外部と連絡を取り始める。空港の管制官と連絡を取っているようだ。駐機許可の取得をすますと、さらには空港へのタクシーの呼び出しまでこなしているらしい。
グアム島に近づくに従い、この一時間ほど口数が少なくなっていた遥樹(はるき)が、絞り出すような口調で声を発した。
「せ、先生。硫黄島の海上自衛隊基地は、まだでしょうか」
ううんっ? とうなって振り返りながら、鷹田教授が応じる。
「遥樹、何言ってる。今、俺たちが向かっているのは、グアム島だぞ」
顔を見ると、遥樹が額に脂汗を浮かべ、両手で頭を抱え、耐えるような表情をしている。遥樹は、「すみません、さっきから、窓の光がまぶしくて、頭痛と、めまいが…」と途切れ途切れにつぶやいた。
鷹田教授は、研修や研究発表のために遥樹を連れて旅客機で移動することがこれまでたびたびあったが、機内で遥樹が体調を崩すことはなかったと思い返した。
「珍しいな、飛行機酔いか。あと、もう少しだ。遥樹、頑張れ」
「先生、キャビン内の補助燃料を早く捨てないと、この機が危ないです」
会話のちぐはぐさに、高度を下げる操縦に入っていたパイロットのマイケル青年も怪訝(けげん)に思いながらも、計器類をひと通りチェックして、篠原老人のほうをちらりと見て、「All green〈オール・グリーン〉. No problem, sir〈ノー・プロブレム、サー〉」(異常なし。問題ないです)と告げた。
篠原老人は、しばらく目を閉じたあと、目を見開き、「シェル・ショック。爆発がすぐ近くで起きたことによる一種の〝戦争神経症〟じゃな」と言い切った。
「何です、それは」 鷹田教授が声を上げる。篠原老人が重々しげに語る。
「塹壕に隠れた兵士が砲撃を間近に受け続けた時などに発症したものだが、記憶障害や心身の不調が特徴じゃ。第一次世界大戦で見つかったものじゃが。最近では、手製の路肩爆弾の攻撃を装甲車内で受けたイラクやアフガニスタン帰りのアメリカ兵によく見られる。確か、TBI、『外傷性脳障害』とか言ったの。音速を超える爆風が、脳に何らかの障害を与えると考えられておる」
「お、お詳しいですね。まさか、遥樹が、それに…」 鷹田教授の声が震えている。
「爆発した米軍機からの爆風で楠木くんがマングローブの枝に引っかかったのなら、考えられんことではない。じつはの、グアムの知り合いのやっとる病院で、そういった帰還兵の患者が療養しとるでな。残念じゃが、楠木くん、グアムでしばらくゆっくり、骨休みじゃぞ」
篠原老人は、話の仕舞いに、遥樹に話しかけていた。
飛行艇ボンバルディアCL―415は、グアム国際空港に着陸後、大型旅客機の間をすり抜けながら、管制官の指示通り、邪魔にならないように空港の隅に駐機した。
篠原老人は、マイケル青年が機内に用意してあった折り畳み式の車椅子の上の人となり、マイケル青年にいつも通りに押すように命じた。頭を右手で押さえて足取りが弱々しい遥樹に、鷹田教授が時折、肩を貸してやる。四人とも、ライフジャケットは機内に残した。
空港内では、国内機の帰投なので、面倒なパスポート・チェックなどはなされなかったが、遥樹の様子を見て救急車を呼ぶかどうか気遣う職員が何人かいた。篠原老人がそのたびに「病院の当てがある」旨をマイケル青年の通訳を通じて伝えた。篠原老人の顔パスで国際線のゲートから逸(そ)れた別のゲートに自動的に職員に案内されると、鷹田教授は、あらためて研究のスポンサーとして逞(たくま)しい人物を得たと実感するのだった。
鷹田教授の今回の訪米で表敬訪問に当たり鷹田の援助依頼にスポンサーとして名乗りを上げてくれた、この篠原老人は、太平洋戦争後に繊維産業で成功を収めた資産家で、中米にある植物関係の研究施設の設立にも携わった経歴を持つ。
篠原老人はこのグアム島では、自然の恵みをもたらすとして地元の住民が気にもとめない、毎年乾季の終わりの四月頃に頻発する山火事を、地球温暖化を抑制する観点から消し止めるべきだとして、空中消火専用の飛行艇ボンバルディアCL―415を地元の消防署に寄贈し、マスコミに取り上げられて時の人となっていたのだった。この特殊な飛行艇の機能については、じかに目にするまで鷹田教授は、まったく理解していなかったのだが。
沖ノ鳥島への緊急救難活動も、「軍は作戦のためには民間人を二の次にする」という強い説得に、鷹田教授が強引に従わされたが、結果的に篠原老人の判断が正しかったことになる。老人本人はあらかた普段は車椅子生活なのに、飛行艇のチャーターの即決手配など、あまりにフットワークの良い、沖ノ鳥島への出発準備で、鷹田は遥樹へのメール発信を途中まで書きかけのまま中断せざるを得ないほどだった。
車椅子に腰掛けて両ひざに杖を横たえて乗せた篠原老人、車椅子を押して進むマイケル青年、苦しげな表情で足取りが危うい遥樹、肩を貸す鷹田教授の四人が、白壁が清潔感を醸(かも)し出す一階の到着ロビーを玄関に向かっていく。観光客らしい軽装の西洋人男女、半袖Tシャツ姿の東洋人グループらが、立って談笑したり、ソファーに座って時間待ちをしたりしている間を通り過ぎて進む。
四人が玄関を出ると、左側にタクシー乗り場があり、一番手前のセダン車がにじり寄ろうとしたが、それを封じるように、別のタクシーが四人のそばに突っ込んできて急停車した。
「Hey, Michael!〈ヘイ、マイケル!〉 Welcome you back!〈ウェルカム・ユー・バック!〉」(やあ、マイケル! よく戻ったな!)
窓から運転手が身を乗り出して、甲高い声でマイケル青年を呼んだ。友人のタクシー運転手らしく、年齢がマイケル青年と同じぐらいに見える。「Oh, he is who you said…〈オー、ヒー・イズ・フー・ユー・セイド…〉」(ああ、彼が例の…)と運転手が遥樹を見て言いかけたところでマイケル青年が駆け寄り、運転手の手に一ドル札二枚を握らせた。普通チップは一ドルが相場なので、運転手はにやりと笑う。
運転席から路上に降り立った運転手の青年が、助手席や後部座席のドア、トランクを手際良く開け、手招きする。手前のタクシーの運転手がけたたましくクラクションを鳴らすなか、杖を突いて車椅子からゆっくり立ち上がった篠原老人が、くだんのタクシーの運転席を、黙れっ、というかのように凝視する。クラクションが鳴りやんだ。
マイケル青年が介添えして篠原老人を、鷹田教授が肩を貸して遥樹を後部座席に乗せ、マイケル青年が助手席、鷹田教授が後部座席の右隅に収まった。折り畳んだ車椅子をトランクに収めた運転手の青年は、運転席に戻り、ただちにアクセルを踏み込んだ。
タクシーは、グアム国際空港の北側の市街地の路上を、ヤシの街路樹の連なりや、庭のマリア像の印象的な教会、乗用車が数多く駐車するスポーツ用品店、瀟洒(しょうしゃ)な白壁のマンションなどを脇に見ながら、軽快に進む。歩道にカラフルなTシャツを着た小太りの現地チャモロ人男女たち、マレー系の顔立ちでフィリピン人と見られるスリムな女性たちなど、ゆったりと歩いたり、立ち話をしたりしている姿が眺められる。一行の乗ったタクシーは、真っ赤な塗装が施された観光バスと時折、すれ違う。一五分ほどでタモン湾を臨む海岸に並んで建つホテル群の一つに到着した。
空港の到着ロビーを出た時と同様に、マイケル青年が篠原老人の乗った車椅子を押し、鷹田教授が遥樹に肩を貸しながら、ホテルのロビーに入る。フロントで予約を取ってあるか尋ねてくる受付けカウンターの女性に、予約はなく、ホテル一階のクリニックに外来で診察を受けに来たことを告げる。いったん出てテニスコート側の入り口から入って正面にあるクリニックに行けばチェックインは要らない、と受付カウンターの女性に教えられ、一行はそのようにした。
ホテルの一階の一区画を改築した小さなクリニックのドアを開けると、日本人医師が運営する医療施設にふさわしく、日本人の若い看護婦が受付カウンターで出迎えた。
「これは、篠原さん。どうされました。しばらくお見かけしませんでしたが、またお足の具合ですか?」と聞いてくる。診察が終わったと見える地元の男女が二人ずつ待合室のソファーに腰掛けている。
「今日は、わしではなくて、こちらの若者での」
篠原老人がおおよその遥樹の症状を手短に看護婦に伝えた。看護婦が今聞いた症状に関して問診票に書き入れつつ、海外旅行者向けの保険に遥樹が入っているか尋ねてくる。「保険が利かずとも、わしがカードで決済する」という篠原老人の一言で遥樹は、鷹田教授に付き添われながら診察室へと看護婦に案内されて進んだ。
縁なしの眼鏡をかけた中年の小太りの医師が、椅子に座ったまま看護婦から受け取った問診票に目を通しながら、遥樹と鷹田教授を診察室に迎え入れた。
「いかがされましたか」と医師が尋ねてくる。
鷹田教授は、はたと気づいて、すべてを話すわけには行かないと思いつつ、もっともらしい理由づけで、遥樹が爆発風を受けたことにしなければ、と考えた。
「私はその場には居合わせなかったのですが、マンションでガス爆発があって、巻き込まれたようです。爆発の風圧を受けて、頭痛やめまいがするようです。日差しがまぶしいだとか。手足に力も入らないようで。問題は、一時的な記憶違いが…」
医師は、「手足の方は、神経かねえ」とつぶやきながら、「少し強く触るよ」と言って、丸椅子に座っている遥樹の背後に立ち、上腕の裏側を揉(も)んだり、首を後ろに反(そ)らさせたりした。
「今ので手足に痺(しび)れを感じた?」と訊く。遥樹が「いいえ」と小さな声で答えると、席に座ってカルテに記入しながら、「首や腕の神経の影響ではないね。ガス爆発の近くにいたというのは本当?」と尋ねてくる。
やや置いて、遥樹が「ええ」と答える。
「イラク、アフガニスタン帰りの米兵で、即席爆破装置の攻撃を受けて、似たような症状の患者がグアムに転地療養に来ているよ。篠原さんがさっき看護婦に話したそうだが、爆風が脳に何らかの損傷を与えているという説が有力なんだが」と医師が話す。後ろ脇に立っている鷹田教授が「CTスキャンとかMRIで、脳を精密検査する必要があるのでしょうか」と尋ねる。
医師は、即座に答え、「外傷性脳障害、英語の略称でTBIと言いますが、これまでの知見で知られている限り、CTスキャンやMRI検査では、何も映りません。ところで、夜は眠れてますか」と続けた。沖ノ鳥島でのフタバナヒルギ付き消波ブロックの設置作業、ダウン・バーストの発生から一晩しか経っていない。
鷹田教授は、「彼は今朝、気絶から覚めたばかりです」と答えた。医師は、「一晩経っていますか。爆発現場に救急車は来なかったんですか」と尋ねる。鷹田教授は、「現場が混乱していて、彼を発見できなかったようです。われわれは、現場に彼がいることを知っていたので、確認しに行ったんです」と答えるしかなかった。
医師は、軽くうなずきながら「はい、いいですよ。現段階で入院の必要は認めません。数日間、経過を見ましょう」と言い、看護婦に頭痛薬と睡眠導入剤を一週間分出すように指示した。「不眠や記憶障害が続くようでしたら、また来てください。提携先の医療機関を紹介します」と医師は付け加えた。遥樹は、やや安心した表情になり、両ひざに両手を突いて、ゆっくり立ち上がると、鷹田教授と一緒に医師に頭を下げ、後ろを向いて診察室のドアに向かう。遥樹が出ていった頃合いに、医師が口を開いた。
「ところで、お連れの方、最近、グアムではガス爆発による火災のニュースを聞きませんが、どこの事故ですか?」と背中から医師が尋ねてくる。鷹田は体が固まった。
雰囲気から察したのか、医師は「事情がおありのようですが、医者は病気とけがを治すのが唯一の務めですから、プライバシーには関わりません。篠原さんとは断続的にですが、一〇年来ぐらいの付き合いです。心配なさらないでください」と振り向く鷹田教授に視線を送って話しかけた。
鷹田教授は、待合室で車椅子に座った篠原老人に「数日間の経過療養」と診断されたことを告げた。このままホテルにチェックインするかどうか、相談していると、マイケル青年が「ホテルは料金が高い。洗濯機や食器、タオルなんかが揃ったサービス付きアパートメントが長期滞在には便利」ということを教えてくれた。一人当たり二週間宿泊しても四〇〇ドル足らずだという。先ほどのマイケル青年の友人が運転するタクシーをホテルのロータリーに待たせてあるということなので、すぐにそのタクシーで向かうことにした。
タクシーに四人が乗り合わせるころ、雨季らしい綿雲が上空に差し掛かり始めた。強い南洋の日差しに顔をしかめていた遥樹の表情が、やや柔らかくなる。
一行を乗せたタクシーは、青みがかった海原が印象的なタモン湾に沿った道路をグアム国際空港とは反対方向の西側の郊外に向かって進んでいく。助手席ではマイケル青年が携帯電話でサービス付きアパートメントの空き状況を確認している。割と短時間で空きが見つかり、タクシーはマイケル青年の案内に従って、商店街を左折して住宅街に入って行った。純白と深緑色のツートンカラーが印象的でこじんまりとした二階建てのアパートが並んでいる。その中の一棟の手前でタクシーは停まった。
鷹田教授が降りて門扉を開けようとするが、鍵がかかっている。すぐに管理人がやって来るはずだ、とマイケル青年が言う。一〇分ほどでサングラスをかけた丸顔のチャモロ人らしい高齢の男性が電動スクーターでゆっくり近づいて来た。よっこらしょ、といった風情で電動バイクから降り立つと、門扉とアパートの鍵を二本ずつズボンのポケットから取り出し、ちゃらちゃら鳴らしながら右手でぶら下げて、門扉に手を掛けている鷹田教授に手渡した。
「泊まるのは、何人かな」ということを、ブロークンな英語で訊いてくる。鷹田教授が自分と遥樹を指さしながら、「Two(二人だ)」と答える。
高齢の管理人の男性は、「鍵はそれで足りるね。一人一日一二ドルだが、何日間泊まる?」と訊く。鷹田教授は、「とりあえず、一週間」と答えた。高齢の現地男性は、小さな電卓で計算し、一人八四ドルずつ、合計一六八ドルをチェックアウト時に支払ってもらうが、チェックアウト時に返す約束でセキュリティ・デポジット(一時預り金)として一人一〇〇ドルずつ、合わせて二〇〇ドルを先に渡してほしい、ということを言ってくる。
こういうシステムか、というように鷹田教授がマイケル青年の顔を見ると、うなずいている。鷹田教授は、財布からフランクリン大統領の図柄が入った一〇〇ドル紙幣を二枚、高齢の管理人に手渡した。
管理人は、手帳に鷹田教授の氏名や年齢、連絡先、パスポート番号などを記入させると、「良い旅を、差額はチェックアウト時に手渡すよ」ということを言いながら、電動スクーターにまたがって、のんびりとした速度で去っていく。
タクシーの後部座席で篠原老人が鷹田教授を手招きしている。
「わしは、済まんが、ここまでじゃ。わしも、この島でたちの悪い持病のため、何度目かの長期療養中の身なんでな。ここで、投宿先のホテルに帰らせてもらう。身の回りのことは、マイケルに面倒を見させるから、心配は要らん。ああ見えて、結構、役に立つでな」
篠原老人は、マイケル青年を呼びつけて、「一週間、バイト代を出すから、鷹田教授と楠木くんの衣食住を手伝うように」と命じた。雨季は山火事の心配がないから、マイケル青年が有給休暇を取れるように消防署に言っておく、ということも言った。マイケル青年は、気前良く、「Yes, sir〈イエッサー〉」(合点です)と篠原老人に敬礼して答えた。
続けざまに篠原老人は、「このタクシーをボーナス付きで一週間チャーターする。わしをホテルに送った後、ただちに現地点に戻るように」と運転手の青年に命じた。運転席から左手を差し出した運転手の青年と、マイケル青年がハイタッチした。
鷹田教授が振り返ると、サービス付きアパートメントの門扉に、遥樹が背中をもたれかけて寄りかかり、両ひざに両手を当てて、顔をうつむかせて休んでいる。
間もなく、南の島の雨季らしいスコールが降り注ぎ始めた。
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