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赤い痕
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ガシャン!!
大きな落下音が厨房内に響き渡り、理恵子は慌てて声を出した。
「失礼しました!」
集まる視線を感じながら落とした数枚のプラスチックの食器を拾っていると、隣から手が伸びてくる。
「珍しいな。疲れてんのか?」
「ありがとう。田所君」
厨房の白衣に身を包み、帽子とマスクをつけてエプロンをした男性が、落ちたお皿を拾って手渡してくれた。
調理師の田所典之は、理恵子と同じ33歳であり、中途採用という共通点もあって職場ではよく話す異性だ。
学生時代は赤髪でピアスをしていたという彼は、やんちゃな雰囲気を残しつつ、今は黒髪を短く切りそろえて真面目な社会人をしている。
「今日、ミスが多くないか?さっきもおかゆを自分の指にかけて火傷してただろ?なんかあった?俺でよかったら、相談にのるよ」
察しがいい同僚は困る。もっとも、自分がわかりやすいだけかもしれないが。
「な、なにもないよ!大丈夫!」
「そうか?…まぁ、無理するなよ。お前、ただでさえ溜め込むタイプなんだから」
優しい言葉は嬉しいが、年下男性とワンナイトをしたことで動揺しているだなんて、言えるわけがない。
「ありがとう。田所君。でも本当に大丈夫だから」
「そっか。…ほい。これで最後っと…っ、木山!お前、首!」
落ちていた最後の一枚を拾った田所が、理恵子の首の後ろを見て、焦ったように声を上げた。
「え?クビ?…そんな…今日失敗ばかりだから?困るよ!私、働かなきゃいけないのに!」
「は?ちが…その”クビ”じゃなくて…大体俺にそんな権限ないし…」
「理恵ちゃーん。田所君の言うことなんか気にすることないって。理恵ちゃんをからかって遊んでるだけなんだから。大体、食器落としたくらいじゃクビにならないわよ。割れてないし。理恵ちゃんは普段から真面目で完璧なんだから、たまに失敗するくらいがちょうどいいのよー。気にしない気にしない」
ベテランパートのおばちゃんがフォローしてくれる。
「…ありがとうございます。…よかったぁ。…あ、田所君も拾ってくれてありがとね」
「お。おう」
「?」
何故かカクカクと変な動きをしながら、田所は仕事に戻って行くのを見て、理恵子は首をかしげた。
***
「ママ、その腕、どうしたの?」
「え?」
「赤くなってる。ぶつけた?」
一緒にお風呂に入っていた菜穂が、理恵子の二の腕を見て心配そうに声をあげたのはその日の夜のこと。
言われて自分の腕を見てみれば、確かに太ももやお腹にも赤い痕がある。
(気づかなかった。仕事中にぶつけたっけ?…あれ?でも、これってもしかして…)
いくら理恵子がドジとはいえ、太ももやお腹をぶつけて気が付かないわけがない。
馴染みのない痕だから一瞬わからなかったが、これはいわゆるキスマークというやつなのではないか。
その考えに至った瞬間、ボッと顔が赤くなる。
「ママってしょっちゅうケガしてるよね。気をつけてよ」
「…あ、うん」
(うう。娘にこんな痕を見られるなんて!蔵上君の馬鹿!)
お風呂を出て髪を乾かし終わったタイミングで、スマホが着信を告げた。
舞だろうかと何も考えずに手に取って、画面を見て固まる。
『着信中 蔵上草哉』
(蔵上君?なんで?…そういえば随分前に番号を交換したような…)
戸惑いながらも通話ボタンを押して、電話に出た。
「も、もしもし…」
『こんばんわ。蔵上です。今、話せますか?』
相変わらず低くて耳障りのいい声が、機械越しに聞こえてくる。
「あ、うん。ちょっと待ってね」
菜穂を確認すると、すでにベッドに入って本を読んでいた。
この状態になると、9時過ぎには勝手に寝落ちしてくれるだろう。
赤ちゃんの頃と比べて、大分手がかからなくなったのはありがたい。
会話を聞かれたくなくて、個室に移動する。
「大丈夫。…何か用だった?あ、また忘れ物したとか?」
何を話したらいいかわからず、無理やり明るくふるまうと、とんでもない言葉が返ってきた。
『いえ。ただ、理恵子さんの声が聞きたくて』
「…へ?」
(今、なんて?)
思わず手に持っていたタオルを床に落とすほど動揺する理恵子に構わず、蔵上は続ける。
『本当は会いたいんですけど、まだ平日ですし。週末まで我慢します。…理恵子さん、次の休みは日曜日ですよね?家に行ってもいいですか?』
「え、私の休み、なんで知って…」
理恵子の職場は老人ホームなので、必ず土日が休みというわけではない。
シフト制だが、小さい子を持つシングルマザーである理恵子に職場が気を使ってくれて、土日のどちらかを休みにしてくれている。
だが、それを蔵上に教えた覚えはない。
「冷蔵庫にシフト表と、菜穂ちゃんの学校行事を書き込んだカレンダーを貼っているでしょう?トイレに行くときに目に入ったので見ちゃいました。すみません、勝手に」
理恵子の仕事はシフト制なので、急に飲み会に誘われても行けないことが多い。
加えて理恵子は忙しいとスマホを見ないこともあるので、連絡がつきにくいと周囲からぼやかれている。
なので、舞に言われるがまま、こうして冷蔵庫にシフトと予定表を貼っているのだ。
舞は、毎月そのシフトの写真をスマホで撮って、声優関連のスケジュールを決めたり、休みの日に遊びに来てくれたりする。
プライバシーを考えたらそれはどうかと思うが、連絡に無頓着な理恵子には、これくらい強引なくらいがちょうどいいのだ。
「ううん。大丈夫だよ。舞ちゃんもそんな感じだから。…でも、日曜日は菜穂の習字道具を買いに行く予定なの。指定された筆、この辺じゃ売ってなくて隣町のショッピングモールまで。だから…」
「ごめんなさい」と続けて断ろうとした時、彼が言葉をかぶせてきた。
「なら、俺が運転しますよ。理恵子さん、疲れてるでしょ?隣町のショッピングモールってあの大きいとこですよね?あそこ、日曜日めちゃくちゃ混みますよ?荷物持ちをしますんで、遠慮なく使ってください」
「え?いや、でもそんな…悪いし…」
「それに確か、その日って人気の子供アニメのイベントがあったと思います。駐車場がいっぱいで入れないって可能性もあるんで、運転者が別にいれば安心ですよ。ね?」
「う」
確かにイベントの事は失念していた。
あのショッピングモールは、一度イベントで駐車場がいっぱいになり、入れずに帰ってきたこともある。蔵上の言う通り、運転者が別にいれば、近くで降ろしてもらって、また迎えに来てもらうことも可能だ。
だがそんなこと、夫でもない人に頼めるわけがない。
「で、でもやっぱり…」
「じゃあ10時に行きますから。菜穂ちゃんに伝えておいてくださいね」
「ちょっ、蔵上君」
「ああ、そうだ」
言い忘れたと言わんばかりに、蔵上は続ける。
「愛してますよ。理恵子さん」
(っ!?)
「では。おやすみなさい」
顔を真っ赤にして口をパクパクしている間に、電話は切れてしまった。
(あんな強引な人だっけ?)
以前の蔵上との違いに驚きながら、画面が真っ暗になるまで、通話の切れたスマホを茫然と見つめていた。
大きな落下音が厨房内に響き渡り、理恵子は慌てて声を出した。
「失礼しました!」
集まる視線を感じながら落とした数枚のプラスチックの食器を拾っていると、隣から手が伸びてくる。
「珍しいな。疲れてんのか?」
「ありがとう。田所君」
厨房の白衣に身を包み、帽子とマスクをつけてエプロンをした男性が、落ちたお皿を拾って手渡してくれた。
調理師の田所典之は、理恵子と同じ33歳であり、中途採用という共通点もあって職場ではよく話す異性だ。
学生時代は赤髪でピアスをしていたという彼は、やんちゃな雰囲気を残しつつ、今は黒髪を短く切りそろえて真面目な社会人をしている。
「今日、ミスが多くないか?さっきもおかゆを自分の指にかけて火傷してただろ?なんかあった?俺でよかったら、相談にのるよ」
察しがいい同僚は困る。もっとも、自分がわかりやすいだけかもしれないが。
「な、なにもないよ!大丈夫!」
「そうか?…まぁ、無理するなよ。お前、ただでさえ溜め込むタイプなんだから」
優しい言葉は嬉しいが、年下男性とワンナイトをしたことで動揺しているだなんて、言えるわけがない。
「ありがとう。田所君。でも本当に大丈夫だから」
「そっか。…ほい。これで最後っと…っ、木山!お前、首!」
落ちていた最後の一枚を拾った田所が、理恵子の首の後ろを見て、焦ったように声を上げた。
「え?クビ?…そんな…今日失敗ばかりだから?困るよ!私、働かなきゃいけないのに!」
「は?ちが…その”クビ”じゃなくて…大体俺にそんな権限ないし…」
「理恵ちゃーん。田所君の言うことなんか気にすることないって。理恵ちゃんをからかって遊んでるだけなんだから。大体、食器落としたくらいじゃクビにならないわよ。割れてないし。理恵ちゃんは普段から真面目で完璧なんだから、たまに失敗するくらいがちょうどいいのよー。気にしない気にしない」
ベテランパートのおばちゃんがフォローしてくれる。
「…ありがとうございます。…よかったぁ。…あ、田所君も拾ってくれてありがとね」
「お。おう」
「?」
何故かカクカクと変な動きをしながら、田所は仕事に戻って行くのを見て、理恵子は首をかしげた。
***
「ママ、その腕、どうしたの?」
「え?」
「赤くなってる。ぶつけた?」
一緒にお風呂に入っていた菜穂が、理恵子の二の腕を見て心配そうに声をあげたのはその日の夜のこと。
言われて自分の腕を見てみれば、確かに太ももやお腹にも赤い痕がある。
(気づかなかった。仕事中にぶつけたっけ?…あれ?でも、これってもしかして…)
いくら理恵子がドジとはいえ、太ももやお腹をぶつけて気が付かないわけがない。
馴染みのない痕だから一瞬わからなかったが、これはいわゆるキスマークというやつなのではないか。
その考えに至った瞬間、ボッと顔が赤くなる。
「ママってしょっちゅうケガしてるよね。気をつけてよ」
「…あ、うん」
(うう。娘にこんな痕を見られるなんて!蔵上君の馬鹿!)
お風呂を出て髪を乾かし終わったタイミングで、スマホが着信を告げた。
舞だろうかと何も考えずに手に取って、画面を見て固まる。
『着信中 蔵上草哉』
(蔵上君?なんで?…そういえば随分前に番号を交換したような…)
戸惑いながらも通話ボタンを押して、電話に出た。
「も、もしもし…」
『こんばんわ。蔵上です。今、話せますか?』
相変わらず低くて耳障りのいい声が、機械越しに聞こえてくる。
「あ、うん。ちょっと待ってね」
菜穂を確認すると、すでにベッドに入って本を読んでいた。
この状態になると、9時過ぎには勝手に寝落ちしてくれるだろう。
赤ちゃんの頃と比べて、大分手がかからなくなったのはありがたい。
会話を聞かれたくなくて、個室に移動する。
「大丈夫。…何か用だった?あ、また忘れ物したとか?」
何を話したらいいかわからず、無理やり明るくふるまうと、とんでもない言葉が返ってきた。
『いえ。ただ、理恵子さんの声が聞きたくて』
「…へ?」
(今、なんて?)
思わず手に持っていたタオルを床に落とすほど動揺する理恵子に構わず、蔵上は続ける。
『本当は会いたいんですけど、まだ平日ですし。週末まで我慢します。…理恵子さん、次の休みは日曜日ですよね?家に行ってもいいですか?』
「え、私の休み、なんで知って…」
理恵子の職場は老人ホームなので、必ず土日が休みというわけではない。
シフト制だが、小さい子を持つシングルマザーである理恵子に職場が気を使ってくれて、土日のどちらかを休みにしてくれている。
だが、それを蔵上に教えた覚えはない。
「冷蔵庫にシフト表と、菜穂ちゃんの学校行事を書き込んだカレンダーを貼っているでしょう?トイレに行くときに目に入ったので見ちゃいました。すみません、勝手に」
理恵子の仕事はシフト制なので、急に飲み会に誘われても行けないことが多い。
加えて理恵子は忙しいとスマホを見ないこともあるので、連絡がつきにくいと周囲からぼやかれている。
なので、舞に言われるがまま、こうして冷蔵庫にシフトと予定表を貼っているのだ。
舞は、毎月そのシフトの写真をスマホで撮って、声優関連のスケジュールを決めたり、休みの日に遊びに来てくれたりする。
プライバシーを考えたらそれはどうかと思うが、連絡に無頓着な理恵子には、これくらい強引なくらいがちょうどいいのだ。
「ううん。大丈夫だよ。舞ちゃんもそんな感じだから。…でも、日曜日は菜穂の習字道具を買いに行く予定なの。指定された筆、この辺じゃ売ってなくて隣町のショッピングモールまで。だから…」
「ごめんなさい」と続けて断ろうとした時、彼が言葉をかぶせてきた。
「なら、俺が運転しますよ。理恵子さん、疲れてるでしょ?隣町のショッピングモールってあの大きいとこですよね?あそこ、日曜日めちゃくちゃ混みますよ?荷物持ちをしますんで、遠慮なく使ってください」
「え?いや、でもそんな…悪いし…」
「それに確か、その日って人気の子供アニメのイベントがあったと思います。駐車場がいっぱいで入れないって可能性もあるんで、運転者が別にいれば安心ですよ。ね?」
「う」
確かにイベントの事は失念していた。
あのショッピングモールは、一度イベントで駐車場がいっぱいになり、入れずに帰ってきたこともある。蔵上の言う通り、運転者が別にいれば、近くで降ろしてもらって、また迎えに来てもらうことも可能だ。
だがそんなこと、夫でもない人に頼めるわけがない。
「で、でもやっぱり…」
「じゃあ10時に行きますから。菜穂ちゃんに伝えておいてくださいね」
「ちょっ、蔵上君」
「ああ、そうだ」
言い忘れたと言わんばかりに、蔵上は続ける。
「愛してますよ。理恵子さん」
(っ!?)
「では。おやすみなさい」
顔を真っ赤にして口をパクパクしている間に、電話は切れてしまった。
(あんな強引な人だっけ?)
以前の蔵上との違いに驚きながら、画面が真っ暗になるまで、通話の切れたスマホを茫然と見つめていた。
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