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67.閑話 あの時歴史は動いたのかもしれない 3
しおりを挟む「――キルフェコルトに出すメニューは決まったかい?」
学園祭が間近に迫ったある日。
昼間の調理実習室には、常連と化している貴族たちがいた。
アクロディリア・ディル・フロントフロン――の、身体を借りている人物と。
異国の王子ラインラック・ウィートラントと。
アクロディリアの肉体の本来の持ち主である、アロウフィリと名乗るアクロディリア本人と。
それとラインラックの従者であるヴァーサス・ケイドと。
いつものメンツであるメイドのレンは、今、食材を取りに少し出ている。
ここ最近、ラインラックたっての希望で、彼はアクロディリアから料理を学んでいる。
何が琴線に触れたのかはわからないが、まず間違いなく、彼は今、料理の世界にハマッている。
「クローナが肉を食べられないので、そこを考えると魚介がいいですわね」
偽アクロディリアは、これから始める調理の準備をしながら漏らす。
先日、とある事件のお礼にと、食事の提供を始めた偽アクロディリアの作る料理は、とても独創的で味も良かった。
もしかしたら、料理の世界をラインラックにより強く魅せたのは、偽アクロディリアのせいなのかもしれない。
ちなみにラインラックとヴァーサスに出した料理は、本人の希望により卵料理だった。
オムレツにおでん風に煮付けた半熟味たま、厚焼き玉子、出汁巻き、卵を繋ぎにした麺を使ったスープパスタと、本人のレパートリーの全てを出した。
そして次は、この国の王子であるキルフェコルトの番である。
今晩出すことになるので、今のうちに下ごしらえをしておくつもりだ。
それと、偽アクロディリアが練習をした台所とは根本的な環境が違うので、まず練習も必要となる。
漠然とメニューは決まっているが、望み通りの味に作れるかどうかは、やってみないとわからない。
台所もそうだが、そもそも食材からして違うのだから。
「魚介か。いいね」
「魚のさばき方は憶えていますか?」
「憶えてはいるけど、もう少し練習はしたいかな」
一国の王子のセリフとは思えないが、これが一国の王子のセリフである。
「――ところで殿下、決心はつきまして?」
偽アクロディリアは包丁の刃を見て曇りがないことを確認しながら、しかし声だけは改まっていた。
「決心、というと……あの話かい?」
「ええ」
包丁を置き、向き直る。
「わたしの料理を、全て、受け継ぐ覚悟は決めましたか?」
そもそも偽アクロディリア――弓原陽は、持ってきた料理のレシピと技術を、メイドのレンに継がせるつもりだった。
元の世界では一般的でも、この世界では珍しい料理である。
料理屋でも開けば一稼ぎはできるだろうと考えていた。
しかし残念なことに、レンは不器用だった。
その上、料理をすること自体をすでに諦めていた。
そこまで味にこだわりもないし、どんなに手間を掛けても腹に入れば皆一緒、くらいに思っている。
美味しいものは好きだが、それを自分で手間隙掛けて作る気はない、と。美味しいものが食べたい時は料理屋でもレストランでも行く、と。
はっきりそう言ったので、弓原陽は教えるのを諦めた。
次に考えたのはアロウフィリ――本物アクロディリアだ。
しかし彼女も同じだった。
いや、レンよりもっと「自分で料理すること」に価値を見出せない人種だった。
何せ辺境伯令嬢だ。
料理なんて使用人がするのがあたりまえに育ってきたのだから。
こうして「継がせたいのに継ぐ人がいない」という、過疎化の進んだ田舎の技術者のような状況になり、弓原陽が目をつけたのは、この王子だった。
なぜかはわからないが料理に執心している。
教えたいと言うまでもなく教えろと言う。
教えたことはすぐに身につける。
見た目はただの金髪イケメンだが、勤勉で努力家で何より学ぶ姿勢ができている。
以上の理由から、むしろ外す理由が見つからなかった。
――いや、一つだけあった。
果たして一国の王子に必要な技術なのか、だ。
だから先日、はっきり本人に聞いてみた。
「全てを学ぶ気があるか?」と。
そして、こうも言った。
「どうせ教えるんだから、できればたくさん作ってみてほしい」とも。
お互いにその言葉の裏にある意味を、ちゃんと理解している。
更に弓原陽は、暗黙の了解なんてことはせず、はっきりと意志を効きたかった。
だからついに言ってしまった。
「国を捨てて、どこかで料理人になったりしたくないですか?」
「おい!!」
ここまではっきり言ったことに驚くラインラックだが、それ以上に反応したのはヴァーサスだ。
まあ、それはそうだろう。従者としては聞き逃せないセリフだった。
というか、ラインラック周辺の貴族にとっては、誰にとっても無視できない発言だった。
「言っていいことと悪いことがあるぞ! 撤回しろ!!」
「……」
肩を掴まれ「こっちを向け」とばかりに強く引かれるが、弓原陽は驚いているラインラックから目を逸らさない。
「もうすぐ卒業です。国に帰れば、またいつ暗殺されるかわからない日々が始まるのでしょう? そうじゃなくても危険な、命に関わる仕事を押し付けられるかもしれない。政略結婚に使われるならまだ幸運で、一生軟禁されて何も成すこともできず死んで行くかもしれない」
ラインラックがこの国の学校に来たのは、国許で暗殺されそうになったからだ。有体に言うと逃げてきたのだ。
そして、未だラインラックを邪魔だと思う誰かは、排除を諦めていない。
先日の夏の帰郷で思い知らされたばかりだ。
「一度死んだ身だからこそ言いますけど、普通は一度死んだら終わりですからね」
と、弓原陽は重いのか重くないのかよくわからない言葉を吐き、今度はヴァーサスを見た。
「友人が、死ぬかもしれない場所に行くのを止めるのは、悪いことかしら?」
穏やかに発せられた「死ぬかもしれない場所」というフレーズに、ギクリと心が揺れる。
それはヴァーサスがずっと考え、悩んできたことだ。
己の立場、家の立場から、絶対に言いたくても言えなかったことである。何度も言いかけ、結局言えなかった。
「わたしは絶対に逃げるべきだと思っているわ。そんなところに帰るな、って、なんなら力ずくでも止めたいくらいよ」
簡単に言ってくれるこの女が憎い――それ以上にそれが言えない自分が恨めしい。
ヴァーサスは何も言えず、掴んでいた肩を離した。知らず力を入れていたようだが、弓原陽はまったく気にしない。
「あなたは殿下の何なの? 家臣? 部下? 従者? それとも友人? ……しっかりしなさいよ。これは本当ならあなたの言葉でしょ」
物心ついた頃からずっと一緒で、身分を越えた友人関係であると自負していただけに、ヴァーサスはだいぶ堪えた。
「まだ決心がつかない」
弓原陽は振り返った。
ラインラックは、まっすぐ弓原陽を見ていた。
「正直、逃げ出したいと思ったことは何度もあるが……そう簡単に捨てるわけにはいかない。現実問題、逃げるのも難しい」
何せ王族である。
それも王位継承に関わりそうな第二王子だ。絶対に追っ手が来るだろう。
今でこそ表立って仕掛けてくることはないが、それこそ身分を隠してしまえば、どこでだって殺されかねない立場である。
「それは一人でやろうとするからです。いろんな人の協力を得ればその限りではないでしょう」
「協力?」
「たとえばこの国の第一王子とか。その他の王族とか。殿下が本気なら悪いようにはしないと思いますよ」
「……」
それも確かに手ではある。
が、果たして王族であることを捨てるつもりの者に、力を貸すような王族がいるだろうか?
そもそも身分があるから叶う協力要請である。捨てようとしているものも、捨てたあとのことも、やはり簡単ではない。
「――わかりました」
何かきっかけが必要なのだ。
逃げるにしろ、逃げないにしろ。
メリットもデメリットも計り知れず、どちらも損得だけで判断がつかないのであれば、あとに残される道は少ない。
そのうちの一つを、弓原陽は提示した。
「――賭けをしましょうか?」
それは、運。
運命を傾ける、偶然という名の必然に頼るのも一興。
「――できるかできないか、逃げられる保障があるとかないとかで迷っているのでしょう? 人間その気になれば意外となんとかなるものです。それをわたしが証明しましょう」
偽アクロディリアは、言った。
冗談でもなんでもなく、どこまでも本気で。
「わたしは学園祭の闘技大会に出ます。
そして優勝します。
もしそれが叶えば、殿下はわたしの料理を全て継いでください。逃げる逃げないはそのあと決めればいい」
ラインラックも、ヴァーサスも、ついでに気配を殺して様子を伺うばかりだった本物アクロディリアも、何も言えなかった。
絶対に無理だ、と思っていたから。
現役の騎士さえしのぐような在校生もいるのだ。それに勝てるとは到底思えない。
しかしそんな三人の心境を知ってか知らずか、偽アクロディリアは勝ち気に笑うのだった。
「まあ、継いだらきっと逃げたくなると思いますけどね」
それ以前に絶対に優勝は無理だ――と思うのだが、しかし誰も言わなかった。
いろんな意味で予想外のことを沢山してきた「この別人」が言い出したのだ。
もしかしたら、と、思ってしまったから。
「……わかった。それでいい」
もう卒業までの時間は、そんなにない。
偽アクロディリアではないが、確かに、逃げるにしろ逃げないにしろ、方針は固めてもいい頃合いなのだろうと思う。
「もう一度言いますけど、わたしはあなたに死んで欲しくないのです。大事な友人だから」
「ありがとう。逃げろと言ってくれて」
見詰め合う二人は、確かに、心が通じ合っているように見えた。
そんな二人を、何年掛かっても想い人の心を開かせることができなかった本物のアクロディリアは、自分自身に嫉妬するというとても複雑な心境で見ていた。
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