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182.嫁は長居する気はさらさらなかった

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 ――よし。
 ――これで、見える範囲は全て繋いだ。
 ――あとは、慎重に、腕と腕を接触させて、たるんだ糸を引き締めれば……

「……はあ」

 終わった。
 疲れた。

 見てくれは悪い。
 異物を無理やりくっつけたようにしか見えないが、本来これはここにあるべきものだ。右腕の肘から下だけ痩せ細っているが、ちゃんと治ればいずれ元通りになるだろう。

 ……もしダメなら、また切り離さないといけないが。

 だが、とにかく、今できることはやり切った。
 あとはちゃんと治っていることを祈るばかりだ。

 黒糸をふんだんに使っているのですぐに継ぎ目は一体化すると思うが、念のために傷薬を塗って包帯代わりの葉を巻いておく。
 あまり黒糸は見られたくないし、できるだけ早く治ってほしいというのもある。

「……ああ、腰が」

 痛い。
 時々伸ばしていたが、基本ずっと中腰だったから、非常に痛い。

 本当に疲れた。
 目を使いすぎたせいか、目の奥が痛い。前もこんな感じになったな。「鷹の目」の後遺症だろうか。
 ……過ぎた力だから、単純に肉体が耐えられないのかもな。

 血に濡れた手を洗い、後片付けをして、歩き出す。
 やるべきことはやったので、今私とオーカがやるべきことは、ゆっくり休むことだ。

 心身ともに疲れ切った私は、今なら死んだように眠れると思う。

 ここは洞窟のような場所なので、どれくらい時間が経ったのかさっぱりわからない。

 この疲労と空腹具体は、半日くらい経っている気がする。
 昼頃から始めたから、今は夜中だろうか。

 ……おや。見覚えのある背中が。

「――終わったか?」

 まるで神事シラの間の門番であるかのように、月明かりが当たる出入り口で背中を向けて地面に座っていたのは、アーレだった。

 酒壷を脇に抱えて、ここで呑んでいたようだ。

 何をしているか、なんて聞く気はない。

 私を待っていたに決まっているから。

「なんとかね。治るかどうかはわからないが、やるべきことはやった」

「そうか。――まあ座れ」

 ……一刻も早く帰って寝たいんだが、まあ、いいか。せっかくの嫁の誘いだ。

 膝から崩れるようにしてアーレの隣に座る。
 神経なら酷使した自覚があるが、思ったより身体も疲れているようだ。再び立ち上がるのに力が要りそうだな……やれやれ。

「ほれ」

 酒の入った盃を渡された。

「呑んだらすぐ寝そうなんだけど」

「寝ればいい。我が運んでやる」

 そう。
 じゃあ遠慮なく。

「月が近いな」

「そうだね。実際に近いんじゃないか?」

 何せここは高い山の中腹で、頂上は雲が掛かるほどの標高だ。
 白蛇エ・ラジャ族の集落から見る三日月より、大きくて明るい気がする。

 嫁と並んで座り、酒を呑み、月を見る。
 初めてのことである。

「今度は一緒に満月が見たいな」

「満月か。それもいいな」

 特に話すことはない。
 でも、それでいい。

 少なくとも、今の私はこれだけで満たされ、疲労が癒えていくのがわかる。
 アーレは私に執着しているかもしれないが、私だってアーレを頼りにしているのだ。彼女が傍にいるだけで安心するし、とても心強い。

 何より、好きだから。

 かなりイレギュラーな流れだとは思うが、王族に生まれて恋愛結婚できたことは、とても幸運だったと思う。
 こちら・・・での生活に不便や不満がないとは言わないが、好きな女性と一緒にいられるなら、その程度は安い物だ。

「レイン。おまえが人を治している姿、我は今日までちゃんと見たことがなかった」

 ん?
 どこかのタイミングで見に来たのか……全然気づかなかったが。

「怖いくらい真剣な顔だった。声を掛けられないほどに」

 と、アーレは私の肩に寄り掛かってきた。

「――初めて見た顔だった。格好良かった」

 …………

「惚れ直した?」

「惚れ直すも何も。我は毎日おまえに惚れ直しているぞ」

 ……そう。

「私は、アーレが無事に帰ってくるとほっとするよ。毎日変わらずに」

「そうか。でも好きと言え」

「好きだよ。とても。愛している」

「愛……?――ん」

 こちらを向いた拍子に、唇を寄せた。口移しで酒を呑ませてやった。

「早く集落に帰ろうな」

「……うん。もう攫われるなよ。今度攫われたら、我は心配で気がおかしくなるぞ」

 それは攫う方に言ってほしいが。

 三日月の優しい光に照らされたアーレの横顔は、とても美しかった。
 一杯だけゆっくりと酒を呑み、手を繋いで歩いて帰った。




 翌日。

 昨日の内に交渉は済んでいたようで、夫婦と小さな子供二人という四人組一家が、私たちを送りがてら移住することが決定していた。

 これに、怪我を癒して族長を次に譲ったオーカとミフィの新婚夫婦を含めた六名が、白蛇エ・ラジャ族の人質となる。

 どうやらアーレは、長居する気はさらさらなかったようだ。
 まあ、私もこれ以上居る理由はないしな。

 オーカの怪我はもう大丈夫だろう。
 あとは失った血と衰えた身体だけだ。骨折箇所も順調に回復しているし。

 個人的には、右腕の様子と経過は観察したいが……たぶんアーレは待たないだろう。引きずってでも連れて帰ると思う。

「――世話になったな。本当に世話になった」

 最後の挨拶に神事シラの間にやってきた。
 オーカはミフィの手を借りて上半身を起こすと、私とアーレに頭を下げた。

「先に行く」

 アーレは私にそれだけ言い、神事シラの間を出て行った。……まあ、改めて別れの挨拶をするには、アーレはオーカとの付き合いが短いしな。

 私とオーカに気を遣ったのだろう。
 気を遣われても、大した話はしないのだが。

「腕の調子はどうだ?」

「すごいぜ。脈打ってる。正直俺の腕じゃないみたいだが、確実に俺の血が通ってる」

 そう言われると成功っぽいな。

「まあ、動かせないけどな」

「動かせないのか?」

「ああ。力が入らないんだ。だが指先の感覚はあるから、いずれ動くようになるかもしれん」

 ……そうか。経過を見守る必要がありそうだな……治るといいんだが。

「私はもう集落に帰るが、もし何かあれば、今度はあなたが来てくれ。誰かに運んでもらってもいいし」

「そうする。今度はアーレも容赦しないだろうからな」

 うん。本当にな。笑いながら言っているけど笑いごとじゃないからな。本当だからな。きっと今度は私が止める間もなく皆殺しだからな。

「次は白蛇エ・ラジャ族の集落で会おう。またな、オーカ」

「ああ。またな、レイン」

 こうして、私はようやく白蛇エ・ラジャ族の集落に……私がいるべき場所へと帰るのだった。




 白蛇エ・ラジャ族の族長アーレが、一人で乗り込んできて錆鷹サク・トコン族の戦士たちを倒し、集落を制圧した。

 錆鷹サク・トコン族の戦士たちが敵わなかった大物の魔獣をたった一人で狩った。

 そして、アーレの婿がこの世の誰よりもいい男だった。

 ――そんな伝説が南の地に広まるのは、もう少し先の話である。



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