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金色の夢

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 それから数カ月後。
 カペラはゆったりと湾曲して流れるサヌール川を高台から見下ろしていた。
 川はピンク色に縁どられ、その横の一角に、黄色に変わりかけた緑色の小さな草原が現れている。
 遠くから見れば、小麦畑に見えないこともない。
 全ての畑で栽培すれば、またあの金色が波打つ光景が見られるようになりそうだ。

「――種をエリックに渡した時は、まさか、本当にここまで育つとは思ってもいなかったのだが」
 カペラの左隣に立つグレン侯爵が感心している。
「レオンがいなければ、ここまで育てるのは難しかったと思います」
 侯爵の言葉に、エリックは港町のもっと先――水平線に目をやった。
 レオンはあの騒動の後、また次の街――ひょっとしたら異国――に行ってしまっていた。
「――オーウェン様は、ひょっとして、初めからご存じだったのではありませんか?」
 少し意地悪な気持をこめてカペラが聞いた。知っていて、わざと何も伝えずにエリックに種を渡したのではないのか。
 異国の珍しい品物を船で運んできて取引をすることを生業とし、頭の切れる――人をからかうのが好きなグレン侯爵なら、ありそうなことだ。
「知っていたというよりは、種を譲り受けた商人から、その栽培方法とその地で暮らす人々の話を聞いた時に、まさかと思っただけだ。実際に見たことがあるわけではないから、半信半疑ではあったが」
 やはり、ある程度のヒントは侯爵が持っていたのだ。
 意地悪だと思う反面、試行錯誤を繰り返したからこそ生まれる愛着――それを敢えてこの人は教えてくれたのではないかとも思う。
「どんな、ところなんですか?」
「雨が多く、一年を通して気温が高い。そこでは同じ畑で、三度収穫できるそうだ」
「きっと、豊かな国なのでしょうね」
 カペラが想像を膨らませていく。
 そんな彼女を横目に、エリックがぽつりと口を開いた。
「私の、……故郷なのでしょうか?」
「さあな。その地には、お前と同じ濃い茶色の瞳を持つ者が多いと聞いたが。――もしそうなら、戻りたいか?」
 試すような瞳で侯爵が聞く。
「いえ。もう、記憶もありませんし、……記憶を失ったのは、誠心誠意誰かにお仕えするためなのだと、自負しておりますから」
 胸の奥にかかえた大事なものを愛でるようにエリックは目を伏せた。
「誰かに、ね……」
 グレン侯爵は彼の言葉を繰り返し、少し嗤って、カペラに意味ありげな視線を送る。
「本当に、まるで小さな小麦畑ね。早く一面金色に染まるところが見てみたいわ」
 無邪気にカペラが侯爵とエリックに笑った。
「ありがとうございます。まだ研究の余地はあると思いますが――、とりあえずは、農民を集め栽培の指導をと思いますが、いかがでしょう?」
「そうだな……それは、あとでゆっくり相談しよう」
 グレン侯爵は眩しそうに目を細め、もう一度、金色の小さな四角形を見つめた。


 その、夜のことだった。
 カペラは侯爵の執務室に呼び出された。
 彼女が部屋に入った時には、すでにエリックがグレン侯爵の机の前に直立していた。
 二人で、昼間の話の続きをしていのだろうか。
「お二人で、何をお話になっていたのです?」
 アルダートンの輝かしい未来について語っていたにしては少し重い雰囲気に、カペラはあえて明るい声を投じる。
「エリックを、今日限りで解雇する」
「な……。どういうことですか。いきなり」
 自分が解雇されたわけではないのに、カペラが抗議の声を上げた。
 すでに話がついていたのか二人の会話を黙って聞いているエリックが寂しそうな笑顔を見せる。
 侯爵はカペラに歩み寄ると、今にも泣きだしそうな彼女の頭に手をおいて、彼女の瞳を覗き込んだ。
「――ついでに、俺たちの婚約も、解消だ、子ヤギちゃん」
 エリックの解雇宣言に続き、自分の婚約解消まで突きつけられたカペラは、頭の中が真っ白になる。

「――どうして、ですか?」
 その言葉を絞り出すまでに、少し時間が必要だった。
「ん?」
 重大な宣告をした割に、侯爵は意外にのんきに構えている。
 それが、カペラの怒りに火をつけた。
「解消するなら、どうしてあんな真似までして婚約をしたんですかっ!?」
 いつもの侯爵なら、嗤って適当な返事で流しただろう。
 しかし、今夜の彼は違っていた。
 椅子に全身を預けて座っている彼は、いつも以上に落ち着いていて、冷静に見える。
 少し考えてからグレン侯爵は口を開いた。
「できそうにないことを、やってみたいと、言っただろう?」
 まるで返事にはなっていないが、彼の表情を見るに真面目に考えた結果の回答なのだとカペラは理解した。
 返答の中身については、まったく理解が及ばないが。
「治水、工事のことですか?」
 もともとは自分の領地でもない、不作続きの領土に、それほどの思い入れがあったとは思えない。多くの資金をつぎ込んではみたが、トラブル続きで工事は遅れ、畑の再生まではまだまだ時間がかかるとみて、割に合わないと切り捨てるのも無理はないだろう。
 それでも、カペラはどうせなら最後まで見届けてほしかった。
「お金のことなら――、何とか考えます。だからあきらめないでもう少し――」
「いや、そうではない。が……」
 珍しく侯爵が言葉を濁す。
「それ以外に、何が?」
 カペラが詰め寄ると、彼の視線が逃げた。
「他に、理由が? できそうにないことって、他に何があるんです? 私にできることなら、何でもします」
 まっすぐに見つめられて、彼女が理由を聞き出すまでは目をそらしはしないと観念したところでグレン侯爵は渋々口を開いた。

「……伯爵令嬢と執事の身分違いの恋愛、を、成就させてみたかった……とか」
 それが自分とエリックのことだと理解するのに、少し時間が必要だった。
 そして、自分の気持ちが傍からみて分かりやすかったのだろうかと思うと、逆に恥ずかしくなる。
「……いつから、ご存じだったのですか?」
「初めから――俺とお前が城で出会った時から……と言ったら、お前は怒るだろうか」
「舞踏会の夜?」
「庭で、お前たちを見かけた」
 舞踏会の夜の、庭――カペラの脳裏に、あのエリックとの菜薬草園ハーブガーデンでの出来事が蘇る。
 あの時、影から覗き見されていると感じたのは、気のせいでも、野うさぎでもなく……
 カペラは、自分の頬が熱くなってくるのを感じた。
 侯爵は、そんな彼女の反応に、満足そうだ。
「――あとは、周囲がうるさくなってきたってのもある」
 カペラが不思議そうな顔をしたので、侯爵は言葉を足した。
「これまで理由があって結婚を断ってきたが、さすがにこの年になって独り身だと、いろいろ、な。なら、婚約をすれば、いいのだと気が付いたが、利害の一致する相手がいなかった」
「結婚しない理由?」
 その点について、侯爵はふっと嗤っただけで、あえて説明をしなかった。
 エリックは、黙って二人の会話を聞いている。
「そこで、お前たちに会った。お前となら、カモフラージュとして婚約できる」
「カモフラージュでって……ひどくありません?」
「少なくとも俺は、だれも傷つかない相手を選んだつもりだが?」
 理由を知った今なら、理解できないこともない、が――
「こんなことをして、誰も傷つかないはずないでしょ?」
「なら、あのチャップマンと結婚していた方が良かったとでも?」
「それは……」
 それはそうだが、婚約期間中、カペラは大いに悩んだ。
「だったら、最初にそうおっしゃってくださればよかったのに」
「最初に明かしていたら、お前は俺と婚約をつづけながら、素直にエリックのものになったのか?」
 カペラは黙り込んだ。もし、最初にすべてを知っていたら――、彼が結婚したくない理由を聞いて納得できるまでは首を縦に振らなかったかもしれない。
「でも、婚約を解消したら、また――」
 情勢が変わったからな、と侯爵は嗤った。その笑みに自分に対する嘲りが見て取れたのは気のせいだろうか。
「――まあ、この後しばらくは国を出ることになったから、回りもそううるさく言わなくなるだろう」
「国を、出られる?」
 侯爵が立ち上がる。
「海軍将校として海にでることになった。実質は、海賊どもの見張り役と言ったところだが」
「海賊と一緒って、――大丈夫なのですか?」
「気取った貴族を演じるよりは、俺の性に合っていると思わないか?」
 振り返った侯爵の顔にはいつもの嗤いが戻っている。
「期間はどのくらいなのです?」
「さあ。海賊どもは、気まぐれだからな。何か月か、……何年か。――だが、いつか金色に染まったこのあたりを、目にしてみたい」
 カペラの心配を読み取った侯爵が、彼女を安心させるように言葉を足した。
 それから静かにワゴンに歩みよると、三つのグラスにワインを注ぐ。
 それぞれの門出に乾杯でもするつもりなのだろうか。

「一つ、伺ってもいいですか?」
 グラスを渡されたカペラは、ここがただ酒を酌み交わす場となる前に聞いておきたかった。
「一つと言わずいくらでも」
「その、子ヤギちゃんって――先日も、仰いましたが、どういう意味ですか。……私が、無鉄砲だとでも?」
「なんだ、その解釈は」
 むっとして抗議したのに、グレン侯爵からの返事があまりにも気の抜けたものだったので出鼻をくじかれたような気がした。
「違うのですか?」
「いや、それも当てはまらないことはないな」と彼は嗤い「――カペラってのは異国の言葉でメスの子山羊の意味だ。山羊はその国の宗教では生贄の象徴だった」と続けた。
 博学の彼らしい解釈だ。
 それでも、カペラは納得がいかない。
「生贄? 私が?」
「サーシスのために犠牲になったのだろう?」
「私は、犠牲としてここへ来たわけではありません」
「チャップマンと結婚していても、そう言い切れたか?」
「……どちらも、私の意志ではないという点では、そうかもしれませんが」
 ククッと彼は吹き出した。
「素直だな」
 確かに初めはどうなることかと不安だった。グレン侯爵はからかいはするが、それほど悪い人ではないと――むしろ、憎まれ口を叩きながらもカペラやエリックだけでなく周囲のことをよく考えてくれる人だと、ようやくわかってきたところだったのに。……この人となら、結婚してその先の未来を考えることもできるかもしれないと思い始めたところだったのに。
「もっと早くにあなたがどういう人か、知ればよかったと、反省しているだけです」
「わかろうとしなくてもいい。お前が分かり合うべき人物はほかにいる」

 こうやって彼女が歩み寄ろうとすると、彼は必ず、遠くを見つめるようにわずかに目を細める。それさえも、――彼の得意な揶揄と同じで――胸の内を見せまいとする彼の壁なのだと、今ならわかる。おそらく、誤解されやすい人なのだ。本人がわざとそう見せているところもあるだろうが。

 いつか――
 この人が瞳を見つめて笑い合える人に巡り会えるといいなと、カペラは密かに願う。
 エリックからもカペラからもそれ以上の言葉がないのを確認すると、グレン侯爵は抽斗から一枚の紙を取り出し、エリックに突き出した。
「これは、お前に、だ」
 上部には葉っぱの意匠、下部には国民なら誰もが一度は目にしたことがあるなじみのある名前の署名が入っている。
「これ、は?」
「男爵位を与える、という書状だ。――といっても一代貴族だがな」
「それは、つまり――」
「それはつまり、今日こそは、俺の前でぐでんぐでんに酔ってもらうぞということだ」
 そういってグレン侯爵は持っていたグラスを二人に掲げた。


***


 その後、大したトラブルもなく二年のうちに、堰は予定通り完成した。
 エリックが始めた水耕栽培も、サヌール川流域に広がり、今では、小麦より粘りのあるその穀物は、サーシスの名産となりつつある。
 一方で、グレン侯爵の手腕により、私掠船は本格的に海軍化され規模を拡大していき、彼自身は将軍として艦隊を率いている。
 貴族院の議員となったエリックの存在も小さくはない。
 エリックを通じて議会や近隣諸国の動向を把握した侯爵は、いち早く部隊を動かし、ミエラ王国の王立軍に合流。暴動から始まった内乱を制圧したという――グレン侯爵の武勇は、サーシスにまで伝わってきている。



「グレン侯爵の船は、今日アルダートンに寄港するんでしょ?」
「ええ、その予定です」
「ここまで足を運んでもらえるかしら?」
「馬車の手配はすでに済ませております。侯爵様は、楽しみにしておられるご様子でしたよ」
 あの高台で、カペラは、ようやくここまでになった金色に波打つ畑に視線を向けた。
 全く同じとまではいかないが、あんなに荒れていた土地が、今は見違えるように美しい色彩を帯びている。

 金色の畑。
 金色の、波。
 すぐ横に視線を向けると、そこに甘い蜂蜜色の髪が風になびいている。
 そして、カペラの腕の中の小さな命の髪も、同じ色。

「全部、あなたと侯爵の計画通りって感じね」

 カペラが笑うと、エリックもにっこりと笑う。
 一瞬――
 風になびく彼の髪が、エリック肩越しに見える金色の波と同化したように見えた。
 魅惑的な濃い茶色ダークブラウンの瞳が、カペラを真っすぐ捕らえる。

「いいえ。すべて、あなたの描いた夢の通り、ですよ」
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