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 ――それは、本当に偶然だった。
 馬車が大きな石造りの建物の連なる通りの角に来た時、何気なく窓の外に目をやった彼女が見慣れた後ろ姿を見つけたのは。
 すらりと背筋を伸ばしてまっすぐに立つ姿に、蜂蜜色の髪の毛。その姿は間違いなくエリックなのに、カペラが確認のため二度見しなければならなかったのは、隣に寄り添うように立っていた女性のせいだ。
 艶やかな孔雀の羽をあしらった帽子に、ツヤツヤと光を反射させる濃い青色のドレスを纏い、親しげに彼に話しかける横顔は、ルセイヤン伯爵夫人だった。
 二人は今まさにそこへ入って行く直前で、馬車で通り過ぎたカペラに気づく様子は微塵もない。
 角を曲がったところでカペラは御者に命じて馬車を停めさせた。

「ねえ。あの、角にある建物はなに?」
「角、ですか?」
 若い御者は戸惑いを隠さずに問い直す。
 その戸惑いは、カペラに正直に話していいものかどうか逡巡した為に現れたものだったが、カペラにそんなことがわかるはずもない。
「そう。入り口に、女性の像が置いてある――」
「あれは……娼館です」
 興味深く馬車から身を乗り出している主の問いかけを誤魔化すことができないと観念した彼は、渋々口を開いた。
「娼館って、女性も入って行ったけど?」
 興奮して詰問口調となった彼女に、御者は半ば自棄気味に説明を付け加える。
「娼館にもよりますが、男娼がいるところもありますし、部屋だけを貸してくれるところもありますので」
 まあ、カペラ様にはあまり縁がないでしょうが……と続ける彼の声は、彼女の耳にはもう届いていなかった。

 (娼館――。……そんなところに、どうしてエリックとルセイヤン伯爵夫人が――?)

 疑問ばかりがぐるぐると巡る。
 これが、エリックではなく、グレン侯爵ならまだ分かるが――
 何かに嵌ると集中して突き進む傾向のあるエリックのことだから、気に入った娼婦でも見つけたのかもしれないが、それならば伯爵夫人と来る必要はないだろう。
 ならば――

『部屋だけを貸してくれるところもありますし』

 御者の台詞が耳に残っている。
 ルセイヤン伯爵夫人なら、こんなところで部屋を借りなくても良いような気もするが、エリックの身分や彼女の噂のことを考えると、二人で部屋だけを借りる可能性もないわけではない。
 そう思い始めたら、カペラはその考えを頭から話すことができなくなり、外へ出る気もなくなった。
 部屋にこもり、気を遣った執事が淹れてくれる異国のお茶を飲みながら、窓からの外を見ながらカペラは数日間を過ごした。

 その陰鬱な日々に悶着が起きたのは、薄暗い曇りの日の午後だった。
「カペラ様に、お客様がいらっしゃっておりますが――」
 執事が困ったように言葉を濁したのは、来客の予定など聞いていなかったからだろう。
 もちろん、カペラにも訪ねてくる人物に心当たりはない。
「どなた?」
「それが……」
 執事の口がさらに重くなったその時、彼の背後の扉が無遠慮に大きく開いた。同時に聞こえてきた「ごきげんよう」という、媚を含んだその声には、十分聞き覚えがある。
「ルセイヤン伯爵夫人! どうされました? ――あいにく、今は皆外出しておりますが」
 グレン侯爵とエリックのことを含ませてカペラは言う。少し意地悪そうな言い方になった気もしないでもないが、彼女にならこのくらいの牽制はどうということもないだろう。
 つかつかと部屋を横切り、景色を品定めでもするかのように窓の外を見おろした伯爵夫人は、クスッと笑って振り返る。
 その笑みにどことなく勝ち誇ったような意地悪さが含まれているような気がしたのは、先日のことがあったから、だろうか。
 
「いいのよ。今日はあなたに会いにきたのだから」
 伯爵夫人はまるで自分の部屋のようにカペラの目の前の椅子に座ると、執事に熱いお茶を持ってくるよう指示を出した。
 困った執事がカペラに視線を送ったので、彼女は仕方なく小さく頷く。
 お茶の用意のため執事が下がると、ルセイヤン伯爵夫人はテーブルの上に両肘をついて、体を乗り出してきた。カペラ相手に胸の谷間を強調したところでなんのメリットもなさそうだが、ルセイヤン伯爵にとっては無意識の行動なのだろう。
「グレン侯爵も、エリックも、お忙しそうね」
「ええ、ほんとに。とはいえ、私には仕事のことはよくわからないので、なにもできませんが」
 残念そうな言葉尻を伯爵夫人がとらえた。
「あら、殿方の仕事に興味がおあり?」
「少なくとも彼らは私のために奔走してくれておりますし、仕事のことがわかれば何か手伝えるのではないかとは思います」
 "私のため"というところを強調し、精一杯の嫌味を込めたつもりだったが、伯爵夫人には効かないようで、彼女は待っていましたとばかりににやりと笑った。
「あら、それなら、あたくしが知っていることを教えてさしあげるわ」
「伯爵夫人が、ご存じのこと、ですか?」
 警戒して怪訝そうに聞き返したカペラに、伯爵夫人は待ってましたと言わんばかりに嬉々として答える。
「グレン侯爵は、グリブレイユ公爵邸へ日参、エリックは毎日娼館通い――この意味、おわかり?」
 伯爵夫人はグリブレイユ公爵に囲われている。そこへグレン侯爵が足を運んでいるということは、侯爵もルセイヤン伯爵夫人の手中に堕ちたということだろうか。
 侯爵が公爵邸にやってくるから、エリックとの逢引きの場所を移さねばならなかったと考えると、二人で娼館に入って行ったのも不思議ではない。
 そして、二人とも手に入れたから彼女は、こんなに意気揚々とここまで乗り込んできたというのだろうか。
 けれどカペラは、悔しさを顔に出すわけにはいかない。そうすると、伯爵夫人は勝ち誇るだろう。
 周りに振り回されないために王都へ来ることを決めたのだから、彼女のこんな一言で動じていてはいけない。
 カペラは大きく息を吐き、ゆっくりと瞬きを一度した。
 先日まで毎日訪れていた街の活気を思い返し、心の中で呪文のように唱える。
(――自分には、夢がある)
 ここで動揺を見せると負けだ。
「私には口を挟む権利はありませんので、なんとも申せません」
 カペラがきっぱりと言い切ると、伯爵夫人は「あらつまらない」と口を尖らせた。
 だが、伯爵夫人は少し考えた後、負けずに次のカードを切ってくる。
「では、この情報は?」
「情報?」
 勿体つけるように言われて、カペラの気持ちが少し揺らぐ。
「王宮の近くにいると、いろんな情報が集まるの。あたくしは、偶然耳にしたのだけど、これはまだ、侯爵もご存じないはずよ」
「……何が望みなんですか?」
「なんにも。あなたが、彼らの手伝いをしたいとおっしゃるから、親切心よ」
 信じても、いいのだろうか。
 そう考えているところへ、伯爵夫人は「信じるも信じないもあなたの自由よ」と言葉を足す。
 そう言われれば、確かにそうだ。話だけ聞いて、その信憑性は自分で判断すればいい。

「どんな情報なのですか?」
 伯爵夫人は、ここだけの話、と顔を突き出し、小さな声で話し始めた。
「侯爵の船を襲った海賊の裏に、ある貴族がいるらしいの」
「貴族?」
「交渉するなら海賊ではなくて、そちらのほうが話が早いのではないかしらと思いまして」
「どなたかご存じで?」
「いいえ。あたくしはそこまではわからないわ。――何かわかったら、また貴女だけに教えて差し上げる」
 ルセイヤン伯爵夫人は今までにカペラに見せたことのない特上の笑顔を見せた。

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