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港 1

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 空は抜けるように青かった。
 あの高台で風を受けながら見下ろすのは、どんなに気持ちがいいだろうと想像してみる。隣にエリックがいるなら最高だ。
 オレンジの木の下で葉っぱ越しに空を見上げるのも悪くはない。カペラにとっては、エリックさえいれば、その他に刺激など必要ない。それなのに、ルセイヤン伯爵夫人ときたら――

 城門を出て街へ向かう坂道は、左右に今は荒れてしまっている小麦畑が広がっており、途中には視界を遮るものがほとんどないため、ぼんやりと馬を駆ってもさして危険はない。
 坂をまっすぐ降りたところに街があり、その先はもう海だ。
 農業が廃れてからこの街を支えてきたのは主に漁業だったが、港には小さいながらも桟橋があり、行商船が入港することもあった。その船が入港する前後だけは、街は息を吹き返したかのように賑やかになる。
 その上、川の堤の工事が始まってから、行商船が入港する頻度が高くなり、平常時でも賑わいを見せるようになっていた。
 それに合わせて、治安も悪くなっているというのは、グレン侯爵からの情報だ。

 エリックが今日、港に行くというのは、人足を集めるのか、それとも品物を調達するのか、いずれにしろ彼は誰かと会い、何かを交渉をするつもりなのだろう。
 果たして、ルセイヤン伯爵夫人は彼が仕事の間おとなしく馬車で待っているだろうか。
 馬を馳せながらカペラは考えた。
 あるいは、伯爵夫人を一人残し、エリックはいつも通り仕事を進めることができるのか。
 もしもルセイヤン伯爵夫人が一人で迷子にでもなったら――という可能性もある。
 陸に戻った海の男は危険だから十分注意するようにと、よく父に言われたことを思い出した。彼らに陸の常識は通じない。
 かといって、あの伯爵夫人を連れていては、商談もままならないだろう。
 一人だけ港に行って仕事をするというエリックの当初の予定は、そういうことも考慮されていたはずだ。
「ほんと、噂通りの厄災だわ」
 まだ何も起こってはいなかったが、これまでのことで十分予想がつく。
 何となく嫌な予感がして、カペラはなんとしてでも引きとめなかったことを少し後悔した。


 街の少し手前の木に、馬をつないだカペラは街の入り口を示す木製の鳥居をくぐった。
 ここから港までは途中市民の憩いの場となる噴水のある教会前の広場を通り一本道で、港までずっと緩やかな坂道が続いている。
 数か月前、ここでグレン侯爵と婚約式を執り行ったのが、まるで遠い昔のようだ。
 船が着くのは広場からまっすぐ伸びる道の正面だが、まだその姿はなかった。とはいえ、入船前の街はいつも以上に浮き足立っている。
 途中覗き込んだ食事処の娘は、窓ガラスに映る自分の姿をやたらと気にしていた。
 窓越しに目があうと、娘は店主に気づかれないようこちらに手を振った。
 慌てて目を伏せ、キャップを深く被り直したカペラは、そそくさとその場から走り去る。
 少し離れたところで、手を振られるような仲だったのかと考えてみたが、どう考えてもそのような知り合いに心当たりはなく、首をひねりながら歩いていて、ふと開店前の店の窓に映った自分の姿に合点がいった。
「ボク、見ない顔ね。ここは初めて? ねえ、ちょっと遊んでかない?」
 不意にかけられた声が自分に向けられたものだと気がついたのは、胸を強調した赤と黒のドレスを着た妖艶な女性がこちらを向いて手招きしていたからだった。
 多少背が低く線が細いものの、深くキャップを被っていれば、船員見習いくらいには見えるのだろうか。
 カペラは、首を横に振ると急いで駆け出した。
 その後は、派手な服を着た女性を避けながら、港へ入る。そこは、商人やら娼婦、漁師、子供達のグループなど、入船を待つ人々でごった返していた。
 その中でも一番目立っていたのは、この場にはおよそ不似合いな、都会的な風合いを放つ、白いレースの日傘。
 周りの者は明らかに迷惑そうな顔をしているが、傘をさしている本人だけは、文字通り涼しい顔をしている。
 目的の人物がすぐに見つけられたカペラにとっても、助けにはなったが。少なくとも周りの者に知り合いだとは知られたくはないと思いながら、カペラは少し離れたところから彼女の動向を伺いつつ、背後へゆっくりと移動した。
 やはり、隣にはしっかりとエリックを従えている。

「それにしても、すごい人ですわね」
「申し訳ございません。少なくとも、伯爵夫人のような方がいらっしゃるところではありませんでしたね」
「あら、気になさらないで。こういう庶民的なガヤガヤした雰囲気も、あたくし嫌いではなくてよ。王都でもときおりこんな風にいろんなショーを見に沢山の人々が集まりますの」

 見世物と同じような感覚でいるところがすごい。カペラは呆れて内心ため息をつく。

 港のざわめきがまし、海の向こうに大きな船の姿が見えてきた。曳航船が港をでて、桟橋の上では荷下ろしのための準備が始められる。
「さて、そろそろ船が入ってまいります。お約束通り、馬車にお戻りくださいませ」
「あら、船が着くところも見てみたいわ。だって、それが今日のクライマックスでしょう?」
 鼻にかかった声でルセイヤン伯爵夫人がエリックの腕に腕を絡めた。
「いけません。船が入る前に馬車に戻るとお約束いただいたはずです」
 さすがのエリックも、このおねだりに関しては引くわけにはいかない。
 船が着けば港は人と荷でごった返す。その中で目的の者や荷を素早く見つけて誰よりも早く交渉を始める必要があるのだが、横にルセイヤン伯爵夫人がいては、いろいろな意味で仕事にならないだろう。
 ましてや、あの白いレースの日傘は悪目立ちする。
「仕方のないお方ですね」
 カペラが飛び出て行こうと思ったその時、エリックがすっとしゃがんで骨折しているのとは反対側の肩に伯爵夫人を担ぎあげた。
「――失礼いたします。お約束はお約束です。大切なお客様だからこそ、お約束は守っていただかなくてはなりません」
 まるで小さな子を嗜めるようにそう言って、エリックは彼女を担いだまま悠然と歩き始める。
 日傘の貴婦人が骨折した男に担がれて運ばれていく様は、人々の注目を集めた。
 カペラは少し距離をとって、そっと二人についていった。
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