35 / 58
港 1
しおりを挟む空は抜けるように青かった。
あの高台で風を受けながら見下ろすのは、どんなに気持ちがいいだろうと想像してみる。隣にエリックがいるなら最高だ。
オレンジの木の下で葉っぱ越しに空を見上げるのも悪くはない。カペラにとっては、エリックさえいれば、その他に刺激など必要ない。それなのに、ルセイヤン伯爵夫人ときたら――
城門を出て街へ向かう坂道は、左右に今は荒れてしまっている小麦畑が広がっており、途中には視界を遮るものがほとんどないため、ぼんやりと馬を駆ってもさして危険はない。
坂をまっすぐ降りたところに街があり、その先はもう海だ。
農業が廃れてからこの街を支えてきたのは主に漁業だったが、港には小さいながらも桟橋があり、行商船が入港することもあった。その船が入港する前後だけは、街は息を吹き返したかのように賑やかになる。
その上、川の堤の工事が始まってから、行商船が入港する頻度が高くなり、平常時でも賑わいを見せるようになっていた。
それに合わせて、治安も悪くなっているというのは、グレン侯爵からの情報だ。
エリックが今日、港に行くというのは、人足を集めるのか、それとも品物を調達するのか、いずれにしろ彼は誰かと会い、何かを交渉をするつもりなのだろう。
果たして、ルセイヤン伯爵夫人は彼が仕事の間おとなしく馬車で待っているだろうか。
馬を馳せながらカペラは考えた。
あるいは、伯爵夫人を一人残し、エリックはいつも通り仕事を進めることができるのか。
もしもルセイヤン伯爵夫人が一人で迷子にでもなったら――という可能性もある。
陸に戻った海の男は危険だから十分注意するようにと、よく父に言われたことを思い出した。彼らに陸の常識は通じない。
かといって、あの伯爵夫人を連れていては、商談もままならないだろう。
一人だけ港に行って仕事をするというエリックの当初の予定は、そういうことも考慮されていたはずだ。
「ほんと、噂通りの厄災だわ」
まだ何も起こってはいなかったが、これまでのことで十分予想がつく。
何となく嫌な予感がして、カペラはなんとしてでも引きとめなかったことを少し後悔した。
街の少し手前の木に、馬をつないだカペラは街の入り口を示す木製の鳥居をくぐった。
ここから港までは途中市民の憩いの場となる噴水のある教会前の広場を通り一本道で、港までずっと緩やかな坂道が続いている。
数か月前、ここでグレン侯爵と婚約式を執り行ったのが、まるで遠い昔のようだ。
船が着くのは広場からまっすぐ伸びる道の正面だが、まだその姿はなかった。とはいえ、入船前の街はいつも以上に浮き足立っている。
途中覗き込んだ食事処の娘は、窓ガラスに映る自分の姿をやたらと気にしていた。
窓越しに目があうと、娘は店主に気づかれないようこちらに手を振った。
慌てて目を伏せ、キャップを深く被り直したカペラは、そそくさとその場から走り去る。
少し離れたところで、手を振られるような仲だったのかと考えてみたが、どう考えてもそのような知り合いに心当たりはなく、首をひねりながら歩いていて、ふと開店前の店の窓に映った自分の姿に合点がいった。
「ボク、見ない顔ね。ここは初めて? ねえ、ちょっと遊んでかない?」
不意にかけられた声が自分に向けられたものだと気がついたのは、胸を強調した赤と黒のドレスを着た妖艶な女性がこちらを向いて手招きしていたからだった。
多少背が低く線が細いものの、深くキャップを被っていれば、船員見習いくらいには見えるのだろうか。
カペラは、首を横に振ると急いで駆け出した。
その後は、派手な服を着た女性を避けながら、港へ入る。そこは、商人やら娼婦、漁師、子供達のグループなど、入船を待つ人々でごった返していた。
その中でも一番目立っていたのは、この場にはおよそ不似合いな、都会的な風合いを放つ、白いレースの日傘。
周りの者は明らかに迷惑そうな顔をしているが、傘をさしている本人だけは、文字通り涼しい顔をしている。
目的の人物がすぐに見つけられたカペラにとっても、助けにはなったが。少なくとも周りの者に知り合いだとは知られたくはないと思いながら、カペラは少し離れたところから彼女の動向を伺いつつ、背後へゆっくりと移動した。
やはり、隣にはしっかりとエリックを従えている。
「それにしても、すごい人ですわね」
「申し訳ございません。少なくとも、伯爵夫人のような方がいらっしゃるところではありませんでしたね」
「あら、気になさらないで。こういう庶民的なガヤガヤした雰囲気も、あたくし嫌いではなくてよ。王都でもときおりこんな風にいろんなショーを見に沢山の人々が集まりますの」
見世物と同じような感覚でいるところがすごい。カペラは呆れて内心ため息をつく。
港のざわめきがまし、海の向こうに大きな船の姿が見えてきた。曳航船が港をでて、桟橋の上では荷下ろしのための準備が始められる。
「さて、そろそろ船が入ってまいります。お約束通り、馬車にお戻りくださいませ」
「あら、船が着くところも見てみたいわ。だって、それが今日のクライマックスでしょう?」
鼻にかかった声でルセイヤン伯爵夫人がエリックの腕に腕を絡めた。
「いけません。船が入る前に馬車に戻るとお約束いただいたはずです」
さすがのエリックも、このおねだりに関しては引くわけにはいかない。
船が着けば港は人と荷でごった返す。その中で目的の者や荷を素早く見つけて誰よりも早く交渉を始める必要があるのだが、横にルセイヤン伯爵夫人がいては、いろいろな意味で仕事にならないだろう。
ましてや、あの白いレースの日傘は悪目立ちする。
「仕方のないお方ですね」
カペラが飛び出て行こうと思ったその時、エリックがすっとしゃがんで骨折しているのとは反対側の肩に伯爵夫人を担ぎあげた。
「――失礼いたします。お約束はお約束です。大切なお客様だからこそ、お約束は守っていただかなくてはなりません」
まるで小さな子を嗜めるようにそう言って、エリックは彼女を担いだまま悠然と歩き始める。
日傘の貴婦人が骨折した男に担がれて運ばれていく様は、人々の注目を集めた。
カペラは少し距離をとって、そっと二人についていった。
0
お気に入りに追加
83
あなたにおすすめの小説
シテくれない私の彼氏
KUMANOMORI(くまのもり)
恋愛
高校生の村瀬りかは、大学生の彼氏・岸井信(きしい まこと)と何もないことが気になっている。
触れたいし、恋人っぽいことをしてほしいけれど、シテくれないからだ。
りかは年下の高校生・若槻一馬(わかつき かずま)からのアプローチを受けていることを岸井に告げるけれど、反応が薄い。
若槻のアプローチで奪われてしまう前に、岸井と経験したいりかは、作戦を考える。
岸井にはいくつかの秘密があり、彼と経験とするにはいろいろ面倒な手順があるようで……。
岸井を手放すつもりのないりかは、やや強引な手を取るのだけれど……。
岸井がシテくれる日はくるのか?
一皮剝いだらモンスターの二人の、恋愛凸凹バトル。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
貞操観念逆転世界におけるニートの日常
猫丸
恋愛
男女比1:100。
女性の価値が著しく低下した世界へやってきた【大鳥奏】という一人の少年。
夢のような世界で彼が望んだのは、ラブコメでも、ハーレムでもなく、男の希少性を利用した引き籠り生活だった。
ネトゲは楽しいし、一人は気楽だし、学校行かなくてもいいとか最高だし。
しかし、男女の比率が大きく偏った逆転世界は、そんな彼を放っておくはずもなく……
『カナデさんってもしかして男なんじゃ……?』
『ないでしょw』
『ないと思うけど……え、マジ?』
これは貞操観念逆転世界にやってきた大鳥奏という少年が世界との関わりを断ち自宅からほとんど出ない物語。
貞操観念逆転世界のハーレム主人公を拒んだ一人のネットゲーマーの引き籠り譚である。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる