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今日は何をしましょうか
しおりを挟む侯爵が王都へ行ってから、エリックに声をかけられない日々が続いた。
食事の際に顔を合わせはするものの、彼女の向かいにはいつも伯爵夫人がいて、エリックに馴れ馴れしく話しかけるものだから、カペラには口を挟む隙がなかったというのも理由の一つだ。
伯爵婦人は、グレン侯爵がいなくなった後も終始ご機嫌で、まるで自分がこの城の主であるかのように振る舞い、グレン侯爵の代理としてエリックを独占していた。
それを黙って見ているのは気分が悪かったが、もしエリックが侯爵と一緒に王都へ行ってしまっていたら、彼女の接待は必然的にカペラに回ってくることになったのだろうし、自分にそれが務まるかと考えると、すれ違いや気まずさが二人の間にあっても、やはり彼を残してくれた侯爵の配慮に感謝せずにはいられなかった。
――建前は。
カペラは自嘲する。
全く……未練がましいと言うか――こんな状態になってまでも、エリックのことを考える自分は、あさましいというか。
あれからエリックがカペラの部屋を訪れることはなくなった。
侯爵の指示がないのだから仕方ない。姿を見せない分、伯爵婦人の部屋に通っているのではないかという疑念がカペラを苛む。
何度あの通路を通り、伯爵夫人の部屋へ、と考えたことか。
侯爵が教えてくれた覗き穴さえ恨めしく思えてくる。
そのたびに彼女は、強い酒を煽り、時には自分の指で体を慰め、火照る体と溢れそうになる思いを無理矢理鎮めるのだった。
こんなことなら、侯爵が誘ってくれたあのときに、王都へついて行くといえばよかったとの後悔の念も時々沸き起こる。
強い寝酒を煽るのにやってこない眠気を恨めしく思いながら、思考の定まらない状態で窓の外の冴え冴えとした月を見上げる夜がいくつも続いた。
侯爵が王都へ行ってから三週間。カペラは、できるだけエリックとルセイヤン伯爵夫人を二人にしないように気をつけた。
もはやそれだけが、自分がここに残った使命だと感じている、
それが、誰のためなのか、何度も考えたが、やはりよくわからない。それでも、とにかく彼女はできるだけルセイヤン伯爵夫人を外に連れ出した。
とはいえ、何もない田舎町に彼女を楽しませるものなど、それほどあるわけでもない。楽しみといえばせいぜい森の中でピクニックをする程度だが、ルセイヤン伯爵夫人は乗馬が苦手、エリックも片腕が不自由とあっては、森へ出るのも難しく、城内の片隅にブランケットを広げてお茶を濁すくらいしかカペラにはできない。
そんなある朝、伯爵夫人がたまらずこう口にした。
「あたくしには、刺激が必要ですのよ!」
「刺激、とおっしゃいますと?」
ティーカップを手にしたエリックが静かに聞く。
「刺激といえば、刺激よ。――もっとこう、胸がドキドキするような――」
「先日、庭でのピクニックの際、空から鳶が降りてきて、干し肉をさらっていったときには、ドキドキしたとおっしゃっておりましたが?」
「あたくしに、鳥相手のドキドキで満足しろと? それよりも――」
彼女の言いたいことはわかっていた。けれど、カペラ、その点において伯爵夫人の思い通りにさせるわけにはいかないと口を挟む。
「ここは田舎ですので、王都のように伯爵夫人を満足させられるものが揃っておらず、申し訳ありません」
「構いませんのよ。田舎には田舎の良さが、あるはずですわ。どうぞ、そのように卑下なさらずに」
暗に王都に帰るよう仄かしたのだが、王都には戻れないわけでもあるのだろうか、伯爵夫人はカペラの機嫌をとるように、ほほほとへつらうように笑ってみせた。
「ところで、今日の予定はどうなっていたかしら」
この状況で、まだしれっと本日のイベントを催促する彼女に、カペラは辟易する。
「本日は、船が着港するのでエリックは仕事で港に出かけるとのことです。ルセイヤン伯爵夫人は私と二人で果樹園に――」
「あら、それならあたくしも港までご一緒するわ」
カペラの言葉をまるで無視して、伯爵夫人はエリックに「いいでしょ?」とせがみ始めた。
「エリックは仕事で行くのですから私たち同伴では――」
「あら、エリックの仕事ですもの、そういうことはエリックが決めることですわ」
ね、と念を押されたエリックは苦く笑っている。
さすがに、客人にこう言われてはっきりと断れるはずがない。伯爵夫人はすっかりついて行く気でいる。
「では、私たちはエリックのお仕事中は邪魔にならないように馬車で待つことにいたしましょう」
ため息交じりにカペラはそう結論づけたが、これでも十分譲ったつもりだった。
彼の仕事が数分で終わるはずがないし、その間べったりと伯爵夫人がくっついているのでは仕事にならないと思ったからだ。
エリックは馬で行く予定になっていたが、馬車の用意が間に合わなければ二人で後から出かけてもいい。
カペラは、扉の脇に控えていた執事に馬車を用意するよう合図を送った。
「あら、お邪魔になってはならないとお思いなら、カペラ様はお留守番なさるのがよろしいかと存じますが? あまりにも大勢で行きますとご迷惑でしょう」
ルセイヤン伯爵夫人は痛快そうにカペラを見た。
朝食の後、支度を終えた二人は、仕事の早い厩舎係が用意した馬車に乗り出かけて行った。御者はエリックだ。
残されたカペラは朝食も喉を通らず、いても立ってもいられなくて、執事に強い酒を用意するよう申し付ける。
申し付けられた通り、城内で一番強いアルコールを用意した彼は、グラスにそれを注ぎながら、「恐れながらカペラ様――」と申し訳なさそうに口を開いた。
「――朝っぱらからお飲みになられては、お体に差し支えましょう。余計なお世話かと存じましたが、入口に馬を用意いたしました。どうでしょう、ここは気分転換に、乗馬などなされては?」
正直、馬に乗る気分ではなかったが、「私でよければ、ご一緒いたしますが?」とまで言われて断る理由はない。一人で悶々と過ごすよりは気が紛れるだろうという彼の心遣いはありがたかったし、なにより城で酒を煽るよりも健康的だ。
気が乗らないまま、「そうね」と生返事を返すと、執事は早速侍女を呼びつけた。
「それでは、こちらにお召替えください」と差し出されたのは、クリーム色のシャツに焦げ茶色の七部丈のズボン――まるで街の少年の服装だった。
「それから、髪をおあげになり、こちらをお被りになれば、まさか誰もカペラ様だとは思いますまい」と、帽子を手渡される。
「どういうこと?」
「はい。若いお嬢様にこのような格好をしていただくのは、私としましても心苦しいのですが、もしもカペラ様が一人で城に取り残され寂しい思いをされるようなことでもあれば――とグレン侯爵が予めお申し付けになって行かれたものでございます」
まさか、ここまで、お見通しとは。
カペラは彼の観察眼と気配りに舌を巻きつつも、ありがたく享受することにした。
「わかりました。今日は乗馬を楽しみます」
「かしこまりました。では、私も用意してまいります」
「一人で大丈夫です。せっかく用意していただいたのに、ごめんなさいね」
そう言うと、執事は僅かに驚いた表情をみせた。
「なにか?」
「いえ、侯爵様から、あらかじめ用意する馬は一頭で良いと仰せつかっておりましたので――」
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