32 / 58
寝不足の朝 2
しおりを挟む
***
エリックがルセイヤン伯爵夫人の部屋をようやく出られたのは、東の空が白み始めた頃だった。
あんなに強いとは思わなかったから、一晩彼女の部屋で過ごすことになったのだ。
少しずつ明るくなり始めた静かな廊下を、音を立てないように歩き、自室に戻るとエリックは、珍しく事切れたように眠り込んでしまった。
怪我ために飲んだ薬のせいか――侯爵が不在のため気が緩んだというのもあるのかもしれない。
数時間の睡眠をとったあと、朝食をどうしようかと悩んだが、カペラを一人にしておくのに気が引けて食堂へいくことにしたのだった。
昨日は想定外のことが多すぎて思わず自制を失ってしまったと、着替えながら彼は反省する。
身なりを整えて、扉を開けたところで、待ち構えていたように執事が恭しく頭を下げた。
いつもなら気にならないはずの、綺麗に整えられた、白いものが混じり始めた彼の頭頂に目が行ったのは、まだ仕事に集中できていない証拠だろうか。
しかし、その気の緩みも、彼の一言で一気に吹き飛んだ。
「カペラ様はもう食堂ですか?」
「はい、侯爵と朝食をお取りになっておられます」
「侯爵がお戻りに!?」
エリックはクラバットの結び目を直しながら、急いで食堂へ飛び込む。
正面の、いつもの席にグレン侯爵がにこやかに座り、カペラと二人で食事をとっているところを目にした時には、内心冷や汗をかいた。
「――災難だったな」
エリックの慌しい登場に、静かに目を上げた侯爵はにこやかに第一声を放った。
ええ、おかげさまで災難続きでございます――エリックは表情に出ないように気をつけながら、心の中で毒を吐きつつも、侯爵の機嫌が悪くないらしいことにほっとする。
侯爵がどこまで知っているのかわからないが、その視線がエリックの固定された腕に向けられているところから判断するに、ここは余計なことは言わない方が得策そうだ。
「大事な時期に、申し訳ありません」
「構わん。腕が治るまで少し休めばいい」
目で座るように促された彼は、椅子を引きながら侯爵の目元に疲労の色を認めた。
夜中に戻ってきていたというのに、この時間に朝食をしっかり摂っているところを考えると、おそらく状況はまだ予断を許さず、今日もまたすぐに出かけるつもりなのだろう。
「昨日の急使――、なにか仕事で問題があったのではありませんか? そしてまだ解決されていないのではないかと拝察いたしますが?」
「さすがに、鋭いな」と侯爵は力なく嗤う。「――その件で、俺はこのあと王都に向かう」
手にしていたカップを置いて、ナフキンを皿の上に投げるように立ち上がった侯爵に合わせて、エリックも「では、私も急いで支度を――」と腰を浮かしかけた。
「急がなくても構わん。お前には内緒で出かけるつもりだったが――食事が終わったら書斎で打ち合わせよう」
意味ありげな笑みを残し、侯爵はいつものようにゆっくりと部屋を出る。
残されたのは、カペラとエリックの二人。
いつもの彼女なら、一番に彼の怪我を心配して言葉をかけるだろうに――、この気まずい沈黙はどうしたものか。
迂闊にも昨夜、彼女の目の前で伯爵夫人に声をかけてしまったことを、彼は後悔した。
怒っているのか、落ち込んでいるのか。
カペラの性格からして、おそらく後者だろうとは思う。が、下手に気遣って声をかけるのは得策ではない。また、彼女にその気がないのに、明るく話しかけるのもわざとらしい。
それでも、カペラよりも先に席を立つのがなんとなく申し訳ないような気がして、エリックは小さくちぎったパンを紅茶で流し込み続けた。
睡眠をとったとはいえ、まだ昨夜のアルコールは抜けきっておらず、食欲もそれほどわいてはこないのだが、誤解があるなら、早く解いておいたほうがいい。彼は彼女がその気になるまで、居心地の悪さを我慢することにした。
そして、食後のお茶を飲み干したところで、とうとうカペラが空のカップを見つめたまま、口を開いた。
「……怪我は、どう? 昨日は……よく休んだ?」
この、遠回しな質問に、どう答えるべきだろうか。
彼女は、彼が伯爵夫人の部屋に行ったことを知っている。
そして、それをひどく気にしていることも、エリックにはよくわかっていた。
どうせ聞くなら、もっと直截的に に聞いてくれた方が助かるのだが、と頭の隅で考えながら、彼は、ここで下手を打ってはならないと頭脳をフル回転させる。
だが――
こんな聞き方をされると、伯爵夫人のことを持ち出すのは余計に不自然だ。
結局彼は、こう答えるしかなかった。
「昨夜は……一晩中、飲みすぎてしまいました」
それ以上何かを聞く勇気がカペラにはなく、彼女は力なく「そう」と言い残して席を立った。
その答えが、カペラに誤解を与えた可能性は高い。
もっと他に言い様があったのではないかとも思う。
だが、今や侯爵夫人となってしまった彼女に期待を持たせることの方が、罪なのだと、エリックは彼女が消えた扉を見つめながら自分に言い聞かせた。
エリックがルセイヤン伯爵夫人の部屋をようやく出られたのは、東の空が白み始めた頃だった。
あんなに強いとは思わなかったから、一晩彼女の部屋で過ごすことになったのだ。
少しずつ明るくなり始めた静かな廊下を、音を立てないように歩き、自室に戻るとエリックは、珍しく事切れたように眠り込んでしまった。
怪我ために飲んだ薬のせいか――侯爵が不在のため気が緩んだというのもあるのかもしれない。
数時間の睡眠をとったあと、朝食をどうしようかと悩んだが、カペラを一人にしておくのに気が引けて食堂へいくことにしたのだった。
昨日は想定外のことが多すぎて思わず自制を失ってしまったと、着替えながら彼は反省する。
身なりを整えて、扉を開けたところで、待ち構えていたように執事が恭しく頭を下げた。
いつもなら気にならないはずの、綺麗に整えられた、白いものが混じり始めた彼の頭頂に目が行ったのは、まだ仕事に集中できていない証拠だろうか。
しかし、その気の緩みも、彼の一言で一気に吹き飛んだ。
「カペラ様はもう食堂ですか?」
「はい、侯爵と朝食をお取りになっておられます」
「侯爵がお戻りに!?」
エリックはクラバットの結び目を直しながら、急いで食堂へ飛び込む。
正面の、いつもの席にグレン侯爵がにこやかに座り、カペラと二人で食事をとっているところを目にした時には、内心冷や汗をかいた。
「――災難だったな」
エリックの慌しい登場に、静かに目を上げた侯爵はにこやかに第一声を放った。
ええ、おかげさまで災難続きでございます――エリックは表情に出ないように気をつけながら、心の中で毒を吐きつつも、侯爵の機嫌が悪くないらしいことにほっとする。
侯爵がどこまで知っているのかわからないが、その視線がエリックの固定された腕に向けられているところから判断するに、ここは余計なことは言わない方が得策そうだ。
「大事な時期に、申し訳ありません」
「構わん。腕が治るまで少し休めばいい」
目で座るように促された彼は、椅子を引きながら侯爵の目元に疲労の色を認めた。
夜中に戻ってきていたというのに、この時間に朝食をしっかり摂っているところを考えると、おそらく状況はまだ予断を許さず、今日もまたすぐに出かけるつもりなのだろう。
「昨日の急使――、なにか仕事で問題があったのではありませんか? そしてまだ解決されていないのではないかと拝察いたしますが?」
「さすがに、鋭いな」と侯爵は力なく嗤う。「――その件で、俺はこのあと王都に向かう」
手にしていたカップを置いて、ナフキンを皿の上に投げるように立ち上がった侯爵に合わせて、エリックも「では、私も急いで支度を――」と腰を浮かしかけた。
「急がなくても構わん。お前には内緒で出かけるつもりだったが――食事が終わったら書斎で打ち合わせよう」
意味ありげな笑みを残し、侯爵はいつものようにゆっくりと部屋を出る。
残されたのは、カペラとエリックの二人。
いつもの彼女なら、一番に彼の怪我を心配して言葉をかけるだろうに――、この気まずい沈黙はどうしたものか。
迂闊にも昨夜、彼女の目の前で伯爵夫人に声をかけてしまったことを、彼は後悔した。
怒っているのか、落ち込んでいるのか。
カペラの性格からして、おそらく後者だろうとは思う。が、下手に気遣って声をかけるのは得策ではない。また、彼女にその気がないのに、明るく話しかけるのもわざとらしい。
それでも、カペラよりも先に席を立つのがなんとなく申し訳ないような気がして、エリックは小さくちぎったパンを紅茶で流し込み続けた。
睡眠をとったとはいえ、まだ昨夜のアルコールは抜けきっておらず、食欲もそれほどわいてはこないのだが、誤解があるなら、早く解いておいたほうがいい。彼は彼女がその気になるまで、居心地の悪さを我慢することにした。
そして、食後のお茶を飲み干したところで、とうとうカペラが空のカップを見つめたまま、口を開いた。
「……怪我は、どう? 昨日は……よく休んだ?」
この、遠回しな質問に、どう答えるべきだろうか。
彼女は、彼が伯爵夫人の部屋に行ったことを知っている。
そして、それをひどく気にしていることも、エリックにはよくわかっていた。
どうせ聞くなら、もっと直截的に に聞いてくれた方が助かるのだが、と頭の隅で考えながら、彼は、ここで下手を打ってはならないと頭脳をフル回転させる。
だが――
こんな聞き方をされると、伯爵夫人のことを持ち出すのは余計に不自然だ。
結局彼は、こう答えるしかなかった。
「昨夜は……一晩中、飲みすぎてしまいました」
それ以上何かを聞く勇気がカペラにはなく、彼女は力なく「そう」と言い残して席を立った。
その答えが、カペラに誤解を与えた可能性は高い。
もっと他に言い様があったのではないかとも思う。
だが、今や侯爵夫人となってしまった彼女に期待を持たせることの方が、罪なのだと、エリックは彼女が消えた扉を見つめながら自分に言い聞かせた。
0
お気に入りに追加
83
あなたにおすすめの小説
下品な男に下品に調教される清楚だった図書委員の話
神谷 愛
恋愛
クラスで目立つこともない彼女。半ば押し付けれられる形でなった図書委員の仕事のなかで出会った体育教師に堕とされる話。
つまらない学校、つまらない日常の中の唯一のスパイスである体育教師に身も心も墜ちていくハートフルストーリー。ある時は図書室で、ある時は職員室で、様々な場所で繰り広げられる終わりのない蜜月の軌跡。
歪んだ愛と実らぬ恋の衝突
ノクターンノベルズにもある
☆とブックマークをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
【R18】幼馴染な陛下は、わたくしのおっぱいお好きですか?💕
月極まろん
恋愛
幼なじみの陛下に告白したら、両思いだと分かったので、甘々な毎日になりました。
でも陛下、本当にわたくしに御不満はございませんか?
大事な姫様の性教育のために、姫様の御前で殿方と実演することになってしまいました。
水鏡あかり
恋愛
姫様に「あの人との初夜で粗相をしてしまうのが不安だから、貴女のを見せて」とお願いされた、姫様至上主義の侍女・真砂《まさご》。自分の拙い閨の経験では参考にならないと思いつつ、大事な姫様に懇願されて、引き受けることに。
真砂には気になる相手・檜佐木《ひさぎ》がいたものの、過去に一度、檜佐木の誘いを断ってしまっていたため、いまさら言えず、姫様の提案で、相手役は姫の夫である若様に選んでいただくことになる。
しかし、実演の当夜に閨に現れたのは、檜佐木で。どうも怒っているようなのだがーー。
主君至上主義な従者同士の恋愛が大好きなので書いてみました! ちょっと言葉責めもあるかも。
【R18】軍人彼氏の秘密〜可愛い大型犬だと思っていた恋人は、獰猛な獣でした〜
レイラ
恋愛
王城で事務員として働くユフェは、軍部の精鋭、フレッドに大変懐かれている。今日も今日とて寝癖を直してやったり、ほつれた制服を修繕してやったり。こんなにも尻尾を振って追いかけてくるなんて、絶対私の事好きだよね?絆されるようにして付き合って知る、彼の本性とは…
◆ムーンライトノベルズにも投稿しています。
【R18】幼馴染な陛下と、甘々な毎日になりました💕
月極まろん
恋愛
幼なじみの陛下に、気持ちだけでも伝えたくて。いい思い出にしたくて告白したのに、執務室のソファに座らせられて、なぜかこんなえっちな日々になりました。
【完結】【R18】男色疑惑のある公爵様の契約妻となりましたが、気がついたら愛されているんですけれど!?
夏琳トウ(明石唯加)
恋愛
「俺と結婚してくれたら、衣食住完全補償。なんだったら、キミの実家に支援させてもらうよ」
「え、じゃあ結婚します!」
メラーズ王国に住まう子爵令嬢マーガレットは悩んでいた。
というのも、元々借金まみれだった家の財政状況がさらに悪化し、ついには没落か夜逃げかという二択を迫られていたのだ。
そんな中、父に「頼むからいい男を捕まえてこい!」と送り出された舞踏会にて、マーガレットは王国の二大公爵家の一つオルブルヒ家の当主クローヴィスと出逢う。
彼はマーガレットの話を聞くと、何を思ったのか「俺と契約結婚しない?」と言ってくる。
しかし、マーガレットはためらう。何故ならば……彼には男色家だといううわさがあったのだ。つまり、形だけの結婚になるのは目に見えている。
そう思ったものの、彼が提示してきた条件にマーガレットは飛びついた。
そして、マーガレットはクローヴィスの(契約)妻となった。
男色家疑惑のある自由気ままな公爵様×貧乏性で現金な子爵令嬢。
二人がなんやかんやありながらも両想いになる勘違い話。
◆hotランキング 10位ありがとうございます……!
――
◆掲載先→アルファポリス、ムーンライトノベルズ、エブリスタ
私のお腹の子は~兄の子を身籠りました~
妄想いちこ
恋愛
本編は完結済み。
番外編で兄視点をアップします。
数話で終わる予定です。
不定期投稿。
私は香川由紀。私は昔からお兄ちゃん大好きっ子だった。年を重ねるごとに兄は格好良くなり、いつも優しい兄。いつも私達を誰よりも優先してくれる。ある日学校から帰ると、兄の靴と見知らぬ靴があった。
自分の部屋に行く途中に兄部屋から声が...イケないと思いつつ覗いてしまった。部屋の中では知らない女の子とセックスをしていた。
私はそれを見てショックを受ける。
...そろそろお兄ちゃん離れをしてお兄ちゃんを自由にしてあげないと...
私の態度に疑問を持つ兄に...
※近親相姦のお話です。苦手な方はご注意下さい。
少し強姦シーンも出ます。
誤字脱字が多いです。有りましたらご指摘をお願いいたします。
シリアス系よりラブコメの方が好きですが挑戦してみました。
こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。
大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました
扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!?
*こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。
――
ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。
そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。
その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。
結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。
が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。
彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。
しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。
どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。
そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。
――もしかして、これは嫌がらせ?
メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。
「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」
どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……?
*WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる