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寝不足の朝 1
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いつもならグレン侯爵の隣に陣取るルセイヤン伯爵夫人は、朝食に姿を見せなかった。
そればかりか、エリックも。
伯爵夫人の宣言通り、朝が来るまで――
昨夜何度も繰り返された不埒な妄想がカペラの頭を過ぎる。
彼女の向かいの席に座りながら、侯爵は機嫌よく言葉をかけた。
「不機嫌そうだな」
「――少し寝不足なだけです」
「起きていたなら、じっくりと覗いていけばよかったのに――」
ぷいと顔をそむけた彼女に、にやりと笑って彼は「さすがの俺も一晩中は付き合いきれなかった」と大きな欠伸をする。
つられそうになったカペラは口元を手で押さえ、それを噛み殺した。
「私は、あなたと違ってそのような趣味はございません。ただ、少し心配になっただけで――」
「それほど心配だったのなら、あの後、二人がどうなったのかじっくりと教えてやろうか?」
「結構です! 私の心配は、工事の方ですからっ」
二人のことは、気にはなるが、グレン侯爵にからかわれながら聞きたい話ではない。
やれやれといった風情で肩を竦めたグレン侯爵は、執事が持ってきた温めたばかりのパンに手を伸ばした。
「では、話を変えよう。――昨日はゆっくり話せなかったが、視察してみてどうだった?」
大きめにちぎったパンを豪快に口に放り込みながら、侯爵はカペラに話をあわせてきた。彼女の気持ちをわかっていながらの話題転換は、彼女にはありがたい配慮だった。
このあたりの引き際は、さすが大人だなと感心する。
いつもからかわれ、はぐらかされてはいるが、時折ちらりと見える真面目な一面が、彼女に侯爵を憎みきれなくさせる。
「もっと、変わってしまうのかと、心配しておりましたので、――安心しました」
昨日目にしたサヌール川を思い出しながらカペラは息を吐く。
蛇行し、縦横無尽に――まるでその時の気分で流れる川は、強制具をつけられようとはしていたが、それでも流れが変わっていない分、それほど違和感を覚えることはなかった。
「川の流れをできるだけ残すように提案したのは、エリックだ」
「エリックが?」
「俺は、工期や費用の面でもっと直線的にするべきだと主張したが、あの男、それでは意味がない、と反論してきた。曲線があればその分そこに負荷がかかるということもわかっているはずなのに、だ」
「どうしでしょうて?」
スープをすすっていた侯爵は視線だけを上げてカペラを窺う。
「できるだけ現状維持で畑を再生させたい、ということなのだろう」
小さく息をのんだ彼女を尻目に、侯爵は言葉を継ぐ。
「まあ、はっきりと口にしたわけではないがな。おかげで、水車小屋の位置を決めるのに相当揉めたよ。俺が提案した場所に対して悉く『そこは弱い』だの『ダメ』だのいいやがって――」
彼女は、いつか夜遅くに盗み聞きした二人の台詞を思い出す。
そうやって二人で夜遅くまで書斎にこもって、サーシスの治水について論じあっていてくれたのだと、このとき初めてカペラは理解した。
「――で、結局、俺が折れた。――見かけによらず、強情だな、あの男は」
「そう、ですね。職務に忠実で、固い傾向は昔からです」
「それに、人を動かすのも上手い」
「何か、不躾なことを?」
「丸く収まるのは、俺らしくない――と。確かに、エリックの言う通り、あえて難題に挑戦するのは、やぶさかではない」
侯爵はその時の様子を思い出したのか、これまでに見たことのないあどけない笑顔で笑った。
なんとなく――
いつの間にか信頼関係を築いている二人の中に、すこし嫉妬している自分がいた。
カペラには、自分に対するエリックの気持ちも、侯爵の考えも、分からない。
けれど、侯爵の話を聞いて、エリックもサーシスの景観が大きく変わってしまわないことを願っているのだということだけはわかった。
それは、彼もカペラの原風景を大切に思ってくれているからに違いない。それだけでも、彼女にとっては嬉しいことだ。
それに、なんだかんだ言いつつも、カペラやエリックの意志を尊重しながら工事を進めてくれているグレン侯爵にも、感謝の念が湧いてくる。
「工事の件、本当にありがとうございました」
「礼はまだ早い。その件で、しばらく王都に詰めることになりそうだ」
そのための準備もあって昨夜は戻ってきたのだと、侯爵は彼女に説明した。
ただ、馬車の修理が間に合わなかったので、朝まで足止めを食わされたということだ。
「食事を終えたら、すぐにでも発ちたい」
「エリックは同伴されますか?」
グレン侯爵がカペラを窺う。しばらく、彼女の内側を探るようにじっと見つめ、それからふっと表情を緩めた。
「俺はそれほど非道に見えるか?――怪我人を連れていくわけにはいかんだろう。せっかくの機会だ、腕が治るまで静養すればいい。客人もいることだし――」
ルセイヤン伯爵夫人をエリック一人に任せようという時点で、非道ともいえそうだが。
それとも、昨夜で、それが非道とは言えないほど二人の関係が大きく変わってしまったとでも言いたいのだろうか。
たかが使用人の恋愛について詳しく聞くに聞けず、カペラは黙り込んでしまった。
「お前は、どうしたい? 俺と一緒に来るか、それとも、ここに残るか」
「私は――」
グレン侯爵が城を離れるとなると、ルセイヤン伯爵夫人は誰の目を憚ることなくエリックに言い寄ることだろう。
それを見せつけられるのは、正直不愉快だ。
けれど、だからといって、自分も王都へ行ってしまったら、伯爵夫人の思うつぼである。
「私は、残ります。エリックの怪我も心配ですし、それに、私があなたについて王都に行ったところでお役に立てそうもありませんから」
それでもカペラは、エリックがたった一晩体を許したくらいでルセイヤン伯爵夫人に夢中になるほど短絡的だとは思えなかった。
未練がましい、と自分でも思う。
そんなカペラを見ながら「心配なのは怪我だけではあるまい」と、くくっと彼は嗤った。
「わかった。――まあ、俺のいない間に、エリックと仲直りするんだな、子ヤギちゃん。――気が向いたら、王都にも来るといい」
「こ、子ヤギちゃん――?」
バカにするにもほどがある。しかも、子猫とかならわかるけど――なんで、ヤギ!?
そのとき、静かにではあるが、いつもの倍の速度で扉が開いた。
「グレン侯爵――っ! 戻られていたなら一声かけてくだされば良かったのに――」
「夜遅かったから、遠慮した」とニヤリと嗤ったグレン侯爵はエリックの固定された腕に視線を向けた。
「――災難だったな」
そればかりか、エリックも。
伯爵夫人の宣言通り、朝が来るまで――
昨夜何度も繰り返された不埒な妄想がカペラの頭を過ぎる。
彼女の向かいの席に座りながら、侯爵は機嫌よく言葉をかけた。
「不機嫌そうだな」
「――少し寝不足なだけです」
「起きていたなら、じっくりと覗いていけばよかったのに――」
ぷいと顔をそむけた彼女に、にやりと笑って彼は「さすがの俺も一晩中は付き合いきれなかった」と大きな欠伸をする。
つられそうになったカペラは口元を手で押さえ、それを噛み殺した。
「私は、あなたと違ってそのような趣味はございません。ただ、少し心配になっただけで――」
「それほど心配だったのなら、あの後、二人がどうなったのかじっくりと教えてやろうか?」
「結構です! 私の心配は、工事の方ですからっ」
二人のことは、気にはなるが、グレン侯爵にからかわれながら聞きたい話ではない。
やれやれといった風情で肩を竦めたグレン侯爵は、執事が持ってきた温めたばかりのパンに手を伸ばした。
「では、話を変えよう。――昨日はゆっくり話せなかったが、視察してみてどうだった?」
大きめにちぎったパンを豪快に口に放り込みながら、侯爵はカペラに話をあわせてきた。彼女の気持ちをわかっていながらの話題転換は、彼女にはありがたい配慮だった。
このあたりの引き際は、さすが大人だなと感心する。
いつもからかわれ、はぐらかされてはいるが、時折ちらりと見える真面目な一面が、彼女に侯爵を憎みきれなくさせる。
「もっと、変わってしまうのかと、心配しておりましたので、――安心しました」
昨日目にしたサヌール川を思い出しながらカペラは息を吐く。
蛇行し、縦横無尽に――まるでその時の気分で流れる川は、強制具をつけられようとはしていたが、それでも流れが変わっていない分、それほど違和感を覚えることはなかった。
「川の流れをできるだけ残すように提案したのは、エリックだ」
「エリックが?」
「俺は、工期や費用の面でもっと直線的にするべきだと主張したが、あの男、それでは意味がない、と反論してきた。曲線があればその分そこに負荷がかかるということもわかっているはずなのに、だ」
「どうしでしょうて?」
スープをすすっていた侯爵は視線だけを上げてカペラを窺う。
「できるだけ現状維持で畑を再生させたい、ということなのだろう」
小さく息をのんだ彼女を尻目に、侯爵は言葉を継ぐ。
「まあ、はっきりと口にしたわけではないがな。おかげで、水車小屋の位置を決めるのに相当揉めたよ。俺が提案した場所に対して悉く『そこは弱い』だの『ダメ』だのいいやがって――」
彼女は、いつか夜遅くに盗み聞きした二人の台詞を思い出す。
そうやって二人で夜遅くまで書斎にこもって、サーシスの治水について論じあっていてくれたのだと、このとき初めてカペラは理解した。
「――で、結局、俺が折れた。――見かけによらず、強情だな、あの男は」
「そう、ですね。職務に忠実で、固い傾向は昔からです」
「それに、人を動かすのも上手い」
「何か、不躾なことを?」
「丸く収まるのは、俺らしくない――と。確かに、エリックの言う通り、あえて難題に挑戦するのは、やぶさかではない」
侯爵はその時の様子を思い出したのか、これまでに見たことのないあどけない笑顔で笑った。
なんとなく――
いつの間にか信頼関係を築いている二人の中に、すこし嫉妬している自分がいた。
カペラには、自分に対するエリックの気持ちも、侯爵の考えも、分からない。
けれど、侯爵の話を聞いて、エリックもサーシスの景観が大きく変わってしまわないことを願っているのだということだけはわかった。
それは、彼もカペラの原風景を大切に思ってくれているからに違いない。それだけでも、彼女にとっては嬉しいことだ。
それに、なんだかんだ言いつつも、カペラやエリックの意志を尊重しながら工事を進めてくれているグレン侯爵にも、感謝の念が湧いてくる。
「工事の件、本当にありがとうございました」
「礼はまだ早い。その件で、しばらく王都に詰めることになりそうだ」
そのための準備もあって昨夜は戻ってきたのだと、侯爵は彼女に説明した。
ただ、馬車の修理が間に合わなかったので、朝まで足止めを食わされたということだ。
「食事を終えたら、すぐにでも発ちたい」
「エリックは同伴されますか?」
グレン侯爵がカペラを窺う。しばらく、彼女の内側を探るようにじっと見つめ、それからふっと表情を緩めた。
「俺はそれほど非道に見えるか?――怪我人を連れていくわけにはいかんだろう。せっかくの機会だ、腕が治るまで静養すればいい。客人もいることだし――」
ルセイヤン伯爵夫人をエリック一人に任せようという時点で、非道ともいえそうだが。
それとも、昨夜で、それが非道とは言えないほど二人の関係が大きく変わってしまったとでも言いたいのだろうか。
たかが使用人の恋愛について詳しく聞くに聞けず、カペラは黙り込んでしまった。
「お前は、どうしたい? 俺と一緒に来るか、それとも、ここに残るか」
「私は――」
グレン侯爵が城を離れるとなると、ルセイヤン伯爵夫人は誰の目を憚ることなくエリックに言い寄ることだろう。
それを見せつけられるのは、正直不愉快だ。
けれど、だからといって、自分も王都へ行ってしまったら、伯爵夫人の思うつぼである。
「私は、残ります。エリックの怪我も心配ですし、それに、私があなたについて王都に行ったところでお役に立てそうもありませんから」
それでもカペラは、エリックがたった一晩体を許したくらいでルセイヤン伯爵夫人に夢中になるほど短絡的だとは思えなかった。
未練がましい、と自分でも思う。
そんなカペラを見ながら「心配なのは怪我だけではあるまい」と、くくっと彼は嗤った。
「わかった。――まあ、俺のいない間に、エリックと仲直りするんだな、子ヤギちゃん。――気が向いたら、王都にも来るといい」
「こ、子ヤギちゃん――?」
バカにするにもほどがある。しかも、子猫とかならわかるけど――なんで、ヤギ!?
そのとき、静かにではあるが、いつもの倍の速度で扉が開いた。
「グレン侯爵――っ! 戻られていたなら一声かけてくだされば良かったのに――」
「夜遅かったから、遠慮した」とニヤリと嗤ったグレン侯爵はエリックの固定された腕に視線を向けた。
「――災難だったな」
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