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菜薬草園にて 1

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 カペラの顔に、ランタンの光が向けられた。その先の人物の顔はこちらからではわからない。
 この上何が起ころうというのか――生まれて初めての舞踏会は、すでに最悪なものとしてインプットされているので、何が起ころうとも腹は半分座っていたのだが。
 自然と眉根が寄った。

「――お嬢様……で、いらっしゃいますか?」
 カンテラが下がり、そこにエリックの心配そうな表情が浮かび上がった。
 聞き慣れた声とよく知った顔に、カペラは胸をなでおろす。
「エリック? どうしてここに?」
「……馬の疲労が激しいようですので、何か薬草をいただこう、と――どうか、なさいましたか?」
 持っていたカンテラをベンチ横の地面に下ろしたエリックは、ポケットから白い手巾を取出し、彼女に差し出した。
 意味が分からず呆然とそれを見つめるカペラの前に片膝をついたエリックはにっこりと微笑むと、彼女の目元を優しく拭う。
 そうされて初めて自分が涙を流していたことに彼女は気がついた。
 そして、気がついてしまったからか、思いがけなく安心できる存在に出会えたからか、涙に加えて嗚咽も漏れた。
 エリックは、動揺することなく、静かに彼女の隣に腰を下ろし、その背中を摩り始める。小さなころカペラが泣いてしまったときにはいつもこうしてなだめてくれた。
 包み込まれている安心感からか、ときおりしゃくりあげながらも彼女は、冷静になって考え始める。
 自分は、本当にあの男と結婚しなければならないのだろうか。
 条件はこれ以上にはなくいい。ただ――
 彼を婿養子として迎えることになるかもしれないと考えるだけで、胸の奥にモヤモヤした得体のしれない気持ち悪さが湧いてくる。
 貴族の内では、婚姻と恋愛は無関係であるとは常識だ。どちらかといえば家と家との契約が目的で、そこに恋愛感情などない。だから、カペラもそう割り切っていた。
 結婚後は、自由に恋愛を楽しむ者も多い――というか、そちらが普通だ。もちろん、結婚した相手に恋愛感情を持つのが一番健全なのかもしれないが、互いに愛人を持つことの寛容さが貴族のステイタスの一つという部分もある。
 婚姻後の恋愛における自由さがチャップマン男爵に通じるか――今夜の彼の言動からするに、それは絶望的に思えた。
 しかも、恋愛の相手が使用人となると――貴族でさえいい顔をしないのに――解雇程度ではすまないかもしれない。恋愛以前に、一旦疑いを抱えただけでも嫉妬――あるいは行き過ぎた独占欲から何をするかわからない。
 涙をぬぐったエリックの指がカペラを慰めるように、ゆっくりと頬を、耳を、髪をなでる。

 このまま時が止まってしまえばいいのに。

 そう願いつつカペラは、その穏やかな波のように優しい愛撫に胸を高鳴らせ、全身を委ね、静かに目を閉じる。
 刺激的だけれど、甘くて穏やかな時間が、カペラの心を癒し、強さをくれたような気がした。
 けれど。
 嗚咽がなくなったのを確認して、エリックがゆっくりと彼女の肩を引き離す。
 二人の間に冷たい空気が割り込んできた。
「すみません、お嬢様をお守りできなくて」
 冷淡な口調の彼には珍しく、しっかりと見つめられた瞳の奥にわずかな悔しさが混じっているように見えたのは、揺らめく炎の光の加減か。
 誤解してはいけないとカペラは自分に言い聞かせる。たとえ彼が本当に悔しい思いをしているとしてもそれは、彼の責任感から生まれた感情であろう。
 何れにせよ、エリックが謝ることではない。
 これは、自分で決めたことだ。
 彼がいてくれるから、彼のいる家も、この領地も大事にしたい――あの金色の畑を取り戻したい、守りたいと思ったのだ。裏を返せば、彼がいなければ、家も、領地も自分にはどうでもいいことだったかもしれない。
 どのみち、エリックと幸せに結ばれる方法など、駆け落ち以外にはないのだし、第一そんな――主人を裏切るようなことが彼にできるはずなどないと知っている。
 そして、自分の婚姻がその最良の方法であるというのなら、その役割をきちんと果たしたい。
 エリックをはじめとする領民の幸せを守れるのは、もう、自分しかいないのだから。
 チャップマン男爵が入り婿として家に入ってくれるとなれば、家や領土を立て直すこともでき、自分はエリックと離れ離れにならなくてすむ。
 だれにとってもこれが、一番望ましい結果であると、頭では理解している。
 ――わかっているのに。
「カペラ様!?」
 彼女は現実から逃げるように、エリックの首にしがみついていた。
 もしも、このまま、エリックが連れて逃げてくれたら、どんな未来が待っているのだろう。
 先ほど無理やり襲われかけたせいか、暗闇の中に二人きりという状況のせいか、そんな夢のようなことがふと頭をよぎる。
 考えただけで胸の奥が熱く、鼓動が早くなった。
 期待しているわけではない。たぶん、欲望だ。
 連れて逃げてくれないのなら、せめて――

「……いて……?」
「えっ?」
「抱いて、ここで」
「ですが――」
「わがままだってわかってる。でも、どうしても我慢ができないの。……初めての相手があんな人だなんて――」
 できることなら、先ほど襲われかけた記憶を消してしまいたかった。
 あんなに嫉妬深く自己中心的な人物と結婚しなければならないというのは、夢だと思いたかった。
「僭越ながら、なにがあったのか、お聞きしてもよろしいですか?」
 エリックに真剣に瞳を覗き込まれて、言うべきか否か、心が揺れる。

「男爵を、紹介されたわ。でも、その振る舞いは貴族というより強欲な商人という感じで……。嫌だと言ったのに……その、強引に、薬を飲ませて――」

 それ以上思い出したくないとでもいうように、カペラは頭を激しく横に振る。
「貞操を、奪われた、と?」
 一言ずつ区切られたその言葉の裏には、大きな感情を押さえ込んだ跡がみられた。
 それが何なのか考えるのが怖くて、カペラは慌てて言葉を足す。
「違うの。……その……なんとか、逃げて来たのだけど、それで良かったのかどうか……」
 逃げ方の詳細については、彼女は言葉を濁した。その代わり、逃げ出した結果サーシスの状況がさらに悪化するのではないかと、不安を打ち明ける。
「……申し訳ございません」
 エリックは僅かに目を細めた後、静かに謝り、慰めるように再び彼女の髪を撫でた。
「どうして、エリックが謝るの?」
 エリックは唇をわずかに噛んだ。
「……この舞踏会の話を聞きつけ、婿養子を取ることができればとサーシス伯爵に提言したのは私です。しかし、まさか、お相手がそんな方だったとは……」
 彼のせいではない。
 すべては、マイヤーズ家の衰退が原因だ。
 彼は執事という立場から最善を提案しただけにすぎない。
「でも、こちらにしてはいい条件だわ」
 彼をかばいながらも、彼女は自分にそう言い聞かせる。
 一方で、この結婚が彼の提案だったというところに、カペラはショックを受けた。
 所詮、彼にとって自分は、自分の仕える伯爵の娘でしか、ないのだ。
 それならば――
「……ねえ」とカペラは哀しみをおさえつけ、請うようにエリックを見つめた。「――体が熱いの。少しでもいいから、この熱を鎮めて」

 熱く迫るカペラに対し、エリックは冷静なまま、顎に手を当てて真面目に考え込む。
「飲まされた薬のせいでしょうか。どんな薬だったか、話せますか?」
「シロップで……、甘いような苦いような味がしたわ」
 ここにある薬草で解毒できれば良いのですが、と極めて真面目に受け答えするエリックに、つられてカペラは真面目に返す。
 けれども、思い出したせいか、薬が完全に効きはじめたのか、あるいは、目の前にエリックがいるせいか、カペラの体はさらに熱くなり始めた。
「……たしか、気持ち良くなって、痛みも感じなくなるとか、言ってたような――ねえ、もう、体が熱くて、胸が苦しくて……」
 体中を摩ってほしい――あなたに、抱かれたい。
 羞恥心がその言葉を喉の奥に飲み込ませた。
 だが、飲み込まれた言葉が、さらに体の内側が熱くし、誰かに撫でられるのを待っているかのように皮膚の表面を粟立てる。
「それだけでは、何の薬なのか、断定はできませんが……、状況を考えると媚薬のようにも思えますね。とすると、興奮を抑える作用を持つ薬草が効くかもしれません」
 薬が何であろうと、カペラにはもう関係なかった。
 心臓が早くなり、体中が彼からの激しい愛撫を求めている。
「ねえ、エリック――」
 我慢できなくてカペラは戸惑うエリックの口に強引に唇を重ねた。
 昼間と同様に、エリックは拒まない。
 むしろ、あの時よりも積極的に、侵入してきたカペラの甘い舌を彼は優しく吸って応えた。
 粟立っていた皮膚が一斉にざわめき、体の先までぞわぞわと走り抜ける。
 閉じていた扉が開き、その僅かな隙間から光が漏れ入って来るような期待に、カペラの胸は踊り始める。
 エリックの頭を押さえつける手に、力が入る。
 これまで想像さえいたことのない激しいキスに、息苦しくなって唇を離した時には、エリックの整えられていた髪は、ひどく乱れていた。
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