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私のお気に入り
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「おはようございます、智世子さん。あのあと、草壁さんとうまくいったんですかぁ?」
月曜の朝、職場に姿を現した絵梨花ちゃんは、異様なほどハイテンションだった。
怒ったり嫉妬したりしている様子は微塵もない。それを隠すことなんて器用なまねが彼女にできるわけもなく、とすれば、本当に絵梨花ちゃんは上機嫌なのだ。
「なにか、良いことあったの?」
そう聞かれて絵梨花ちゃんは、待ってましたといわんばかりに、「うふふ~」と笑い、しっかり巻かれている髪を指でくるくるさせた。
「運命の、出会いって、やつですぅ」
髪の毛だけではなく、その場で絵梨花ちゃんはくるりと一回転した。「上」どころではなく、機嫌は「特上」だ。
私は、机の上に鞄を下ろし、ふんふんと鼻歌交じりにパソコンの電源を入れる絵梨花ちゃんを見た。
「智世子さん、これからバリッバリしごいて下さい。あたし、仕事のできる女になります!」
挙句の果てに、昨日まで『辞めさせてやる』と息巻いていたことなど、すっかり忘れて、いきなり「仕事のできる女」発言ときた。
この変わりようは、一対どうしたのだろうと、気分を害さないように気を遣いながら聞いてみる。
だが、そんな心配は無用だったようで、尋ねた途端、彼女はよくぞ聞いてくれましたとばかりに甘い声を上げた。
「だってぇ、彼が、仕事のできる女が好きだっていうからぁ」
「彼――?」
私が不思議な顔をすると、絵梨花ちゃんが私の肩を軽く叩いた。
「やだぁ、智世子さんだって、分かってるくせにぃ。――あ、そうだ。これ彼から、会社のみなさんに差し入れですって」
顔の横にぶら下げて見せた小さな紙袋は、濃い茶色にブルーのリボンが印刷された、駅前のチョコレート屋のものだ。
私には、見覚えがあり過ぎる。
そういえば、大上さんに相談に行った時、絵梨花ちゃんがもっと仕事に打ち込んでくれたらって、泣き言を言ったような気がする。
野鳥観察園で分かれたときは、ここまでではなかったから、何かあったとすると、その後だろう。
棚ぼたなのかもしれない。おそらく、このあいだの小芝居のおまけなのだろうと思う。――そう、思いたかった。というより、大上さんがそこまで考えていたのだと認めるのが、悔しかった。
「あ、それと伝言なんですけど、『上手い具合に溶けてるといいな』ですって。よくわかんないけど、チョコレートの話なら、溶けたらダメですよね?」
私は、絵梨花ちゃんが配り始めた茶色の箱を見つめた。
社長と専務と、草壁君の机の上に、お供えのように二つずつチョコレートを置き終えた彼女は、私の机の上にも、銀緑色のアルミシートにくるまれたのと、小さなカップの真ん中に菫の砂糖漬けが乗ったチョコレートを置いた。
「智世子さん?」
呆然として彼女の手元を見ていた私を絵梨花ちゃんが怪訝な顔で窺う。
「あ、ごめん。――じゃあ、とりあえず、ミナト商会の見積もりから作ろうか――」
私は、仕事に意識を向けた。
とにかく、絵梨花ちゃんのやる気のあるうちに――私がここにいられるうちに、できるだけのことを教えておきたい。
その日、草壁君が差し入れてくれたのも、《レミー=ダゲール》のオレンジピールチョコレートだった。茶色の箱と青いリボンの包装を見るたびに、大上さんのにやけた笑顔が浮かぶ。
『一生幸せにしてやる』
悔しいけど、彼の言う通り。
私は、昨日草壁君に買ってもらったばかりの左手の薬指に光る小さな石のついた指輪に視線を落とす。「幸せになる自信がある」と草壁君は言っていたけれど、これを選んでいる時の彼は、私が恥ずかしくなるくらい本当に幸せそうだった。それを見ていた私も、心の中がほっこりと暖かくなったりして。
草壁君の言うことも、間違ってなかった。
「私、お茶を淹れてくるわ」
「わーい。絵梨花、智世子さんの煎れるお茶、大好きー。じゃあ、あたしは、皆さんにお分けしておきますね――」
「あ、花沢さんにも、忘れずにね」
「はーい」
パタパタと絵梨花ちゃんが内階段を下りて行く音を聞きながら、私は草壁君に視線を移した。
こうして、じゃれてるときは、かわいいんだけどね――との思いをこめて、ほんの少し肩をすくめてみせると、彼は小さく「大丈夫だったでしょ」と言わんばかりに笑った。
小さいけれど居心地のいいアサヒナ商事、
職場にあふれる笑顔と差し入れのお菓子、
適温に淹れられたおいしいお茶、
ほとんど外出している朝比奈社長と出勤さえしない副社長の奥様、
反対に就業時間中はほとんど机に座ってのんびりしている営業担当のはずの朝比奈専務、
恋も仕事も頑張るかわいい後輩、絵梨花ちゃん、
いつも応援してくれる頼もしいパート社員、花沢さん、
イケメンで営業が天職のような――彼、草壁君。
そろそろ春になろうかという温かさを僅かに含んだ空気の中で、私は、目の前にある「|お気に入りたち(マイ・フェイバリット・シングス)」をまぶしい目で見つめる。
うん――
こんな風に素敵なものたちに囲まれていれば、きっと、これから先も、怖くないよね。
「おはようございます、智世子さん。あのあと、草壁さんとうまくいったんですかぁ?」
月曜の朝、職場に姿を現した絵梨花ちゃんは、異様なほどハイテンションだった。
怒ったり嫉妬したりしている様子は微塵もない。それを隠すことなんて器用なまねが彼女にできるわけもなく、とすれば、本当に絵梨花ちゃんは上機嫌なのだ。
「なにか、良いことあったの?」
そう聞かれて絵梨花ちゃんは、待ってましたといわんばかりに、「うふふ~」と笑い、しっかり巻かれている髪を指でくるくるさせた。
「運命の、出会いって、やつですぅ」
髪の毛だけではなく、その場で絵梨花ちゃんはくるりと一回転した。「上」どころではなく、機嫌は「特上」だ。
私は、机の上に鞄を下ろし、ふんふんと鼻歌交じりにパソコンの電源を入れる絵梨花ちゃんを見た。
「智世子さん、これからバリッバリしごいて下さい。あたし、仕事のできる女になります!」
挙句の果てに、昨日まで『辞めさせてやる』と息巻いていたことなど、すっかり忘れて、いきなり「仕事のできる女」発言ときた。
この変わりようは、一対どうしたのだろうと、気分を害さないように気を遣いながら聞いてみる。
だが、そんな心配は無用だったようで、尋ねた途端、彼女はよくぞ聞いてくれましたとばかりに甘い声を上げた。
「だってぇ、彼が、仕事のできる女が好きだっていうからぁ」
「彼――?」
私が不思議な顔をすると、絵梨花ちゃんが私の肩を軽く叩いた。
「やだぁ、智世子さんだって、分かってるくせにぃ。――あ、そうだ。これ彼から、会社のみなさんに差し入れですって」
顔の横にぶら下げて見せた小さな紙袋は、濃い茶色にブルーのリボンが印刷された、駅前のチョコレート屋のものだ。
私には、見覚えがあり過ぎる。
そういえば、大上さんに相談に行った時、絵梨花ちゃんがもっと仕事に打ち込んでくれたらって、泣き言を言ったような気がする。
野鳥観察園で分かれたときは、ここまでではなかったから、何かあったとすると、その後だろう。
棚ぼたなのかもしれない。おそらく、このあいだの小芝居のおまけなのだろうと思う。――そう、思いたかった。というより、大上さんがそこまで考えていたのだと認めるのが、悔しかった。
「あ、それと伝言なんですけど、『上手い具合に溶けてるといいな』ですって。よくわかんないけど、チョコレートの話なら、溶けたらダメですよね?」
私は、絵梨花ちゃんが配り始めた茶色の箱を見つめた。
社長と専務と、草壁君の机の上に、お供えのように二つずつチョコレートを置き終えた彼女は、私の机の上にも、銀緑色のアルミシートにくるまれたのと、小さなカップの真ん中に菫の砂糖漬けが乗ったチョコレートを置いた。
「智世子さん?」
呆然として彼女の手元を見ていた私を絵梨花ちゃんが怪訝な顔で窺う。
「あ、ごめん。――じゃあ、とりあえず、ミナト商会の見積もりから作ろうか――」
私は、仕事に意識を向けた。
とにかく、絵梨花ちゃんのやる気のあるうちに――私がここにいられるうちに、できるだけのことを教えておきたい。
その日、草壁君が差し入れてくれたのも、《レミー=ダゲール》のオレンジピールチョコレートだった。茶色の箱と青いリボンの包装を見るたびに、大上さんのにやけた笑顔が浮かぶ。
『一生幸せにしてやる』
悔しいけど、彼の言う通り。
私は、昨日草壁君に買ってもらったばかりの左手の薬指に光る小さな石のついた指輪に視線を落とす。「幸せになる自信がある」と草壁君は言っていたけれど、これを選んでいる時の彼は、私が恥ずかしくなるくらい本当に幸せそうだった。それを見ていた私も、心の中がほっこりと暖かくなったりして。
草壁君の言うことも、間違ってなかった。
「私、お茶を淹れてくるわ」
「わーい。絵梨花、智世子さんの煎れるお茶、大好きー。じゃあ、あたしは、皆さんにお分けしておきますね――」
「あ、花沢さんにも、忘れずにね」
「はーい」
パタパタと絵梨花ちゃんが内階段を下りて行く音を聞きながら、私は草壁君に視線を移した。
こうして、じゃれてるときは、かわいいんだけどね――との思いをこめて、ほんの少し肩をすくめてみせると、彼は小さく「大丈夫だったでしょ」と言わんばかりに笑った。
小さいけれど居心地のいいアサヒナ商事、
職場にあふれる笑顔と差し入れのお菓子、
適温に淹れられたおいしいお茶、
ほとんど外出している朝比奈社長と出勤さえしない副社長の奥様、
反対に就業時間中はほとんど机に座ってのんびりしている営業担当のはずの朝比奈専務、
恋も仕事も頑張るかわいい後輩、絵梨花ちゃん、
いつも応援してくれる頼もしいパート社員、花沢さん、
イケメンで営業が天職のような――彼、草壁君。
そろそろ春になろうかという温かさを僅かに含んだ空気の中で、私は、目の前にある「|お気に入りたち(マイ・フェイバリット・シングス)」をまぶしい目で見つめる。
うん――
こんな風に素敵なものたちに囲まれていれば、きっと、これから先も、怖くないよね。
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