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濡れた子犬

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 辞めさせてやるという絵梨花ちゃんの宣言は、小さな社内で大きくなっていった。
 さすがに、副社長の姪という立場を使われたら、社長もむげにはできないようで、私は暗に自主退職を勧められた。

 私がいなくなれば、デスクワークに差し障りが出るかもしれないという思い上がりは、ただ別の社員を雇えば解決する問題だ。一生懸命働いてきたが、私の代わりなど、いくらでもいるのだと思うと、今までやってきたことはなんだったのだろうと、むなしくなる。

 誰か――というか、社内には草壁君以外にはいないのだけれど――に相談したくとも、さすがにあの件以来、(たぶん社長に頼まれたのだろう。かなり不服そうに)私の仕事が終わるまで専務が事務所に残るようになっていて、事務所で草壁君と二人っきりで話す機会はなくなった。
 それでも、全然構わないと、私は自分に言い聞かせる。
 話をするようになる前に、戻っただけのことだ。ただ、それを知る前と後では、後の方が喪失感が大きいってだけで。

 ある日のお茶の時間に私がそう話すと、花沢さんは、自分のことのように残念がってくれた。
「もともと、縁がなかったんですよ」
 頼んだわけではないが、絵梨花ちゃんよりも私を応援すると言ってくれた花沢さんに、なんだか申し訳ない。
「智世子ちゃんは、それでいいの?」
「ここを辞めるわけにはいきませんし」
 花沢さんは、私の表情を見てため息をついた。
「ちょっと前までは、いい顔してたから、うまくいってると思ってたのに――」
「うまくなんて――。少し仲良くなっただけですよ。それが、元に戻っただけですから」
 私は花沢さんに笑って見せたけれど、彼女は私の仮面の奥を透視するかのようにじっと見つめる。
「そんな顔で言われても、説得力ないね。縁なんてさ、お互いの気持ちが作り出すもんなのよ。――ちょっと待ってて」
 花沢さんは思い出したように、メモを見ながら電話を手に取った。
 忙しいところ、休憩に来て悪かったかなと思ったところで、「はい」と受話器を渡される。

「え?」
「ほら、早く。智世子ちゃんと話がしたいって」
 促されるまま、不審に思いながら「もしもし?」というと、受話器の向こうから『智世子さんですか?』と太陽のように明るい声が返ってきた。
「草壁君?」
『良かった。事務所では、味方になってあげられなくてすみません。僕が出ると、浅川の気持ちを逆なですることになりそうで――』
 そういう気遣いのできる人だってことは、ちゃんと知っている。
 それよりも、私のことで、彼が少しでも責任を感じているのであれば、そっちの方が問題だ。
 それは、私があの日残業しなければ起きなかったことだし、あるいは、あの場で気を許さなければ、発生しなかったものだ。
「いいのよ。その通りだから。草壁君が気にする必要ないわ。私のほうこそ、変に気を遣わせてしまって、ごめんなさい。でも、ほんとに、私は大丈夫だから」
『なんか寂しいですね、その言い方』
 草壁君の力ない笑いが、受話器越しに伝わってきた。
 また、あの時みたいに、濡れた犬みたいな困った顔をさせてしまっただろうか。
『――二人きりで、ゆっくり話ができませんか? 今晩、駅前の《チュンパカ》ってお店で待ってますから。じゃ』
「あ――っ」
 それだけ言うと、草壁君は、返事も聞かずに電話を切った。
 いつも思うけど、こういう誘い方、ずるいと思うのよね。

「草壁君、なんだって?」
「今晩の約束を勝手に決められました」
 顛末を話し、「ずるいと思いません?」と聞くと、花沢さんは気持ちがいいように声をあげて笑った。
「あはは、草壁君、よく分かってるじゃない。真面目な智世子ちゃんは、相手に待ちぼうけをくらわすことなんて、できないってのを見透かされてるのね」
 ……ほんと、ずるい。
 あとになってじわじわと、ずるいって思いが大きくなってきた。
 そうやって、草壁君はいつも不意打ちで、私の気持ちを揺さぶる。

「ま、良かったじゃない。二人でゆっくり話しておいで。前にも言ったけど、あたしは智世子ちゃんの味方だからね」
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