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おおかみさん
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指定されたのは、ブルーのライトが印象的なジャズの流れるおしゃれなバーだった。
私が扉を開けると同時に、カウンターに座っていた大上さんが席を立ち、奥の薄暗いボックス席へと誘う。
ジーンズに洗いざらしの白いシャツの上から無造作にひっかけたジャケットという格好の彼が素敵に見えたのは、バーという場所と雰囲気のせいだろうか。
「あの、ごめんなさい。突然、電話して――」
彼は、何も言わずに、ポケットから出した煙草に火をつけた。
その様子がいかにも、「ほんとに来たか」という様子で、いささか面倒そうで――私は、申し訳ない気分になったけれど、でも、ここで遠慮している場合ではない。
なにしろ、職がかかっているのだ。
それでも、何から話していいのかわからなくて、彼の煙草が短くなるまでお互いに口を開かずに座っていた。
バーテンがビールのピルスナーを二つ持って現れると、少しグラスを持ち上げて、目で「乾杯」という合図を送ってから、大上さんは三口でそれを飲み干し、ようやく、大きな溜息とともに「――で?」と、私に視線を向けた。
そうして促されては、口を開かないわけにはいかない。
「――彼とは、別れました。というか、あの日から、帰ってこなくなりまして」
あの日――雨の中、ラブホテルの前でばったりエイジに会ったときに私は、ホテルの前でカメラを持って張り込んでいた大上さんに出会った。奇しくも、彼に慰められるような形になったのだから、その後どうなったか、報告ぐらいしておいた方が、本題に入りやすいような気もする。
「そうか」
「そのあと、何日かして、彼の居所を教えろって、ヤクザみたいな人たちが来ました」
彼は興味なさそうに私の話を聞きながら、二本目の煙草に火を点けた。
「その、ヤクザが問題?」
吐き出した煙を視線で追いながら、男は興味なさげに言葉を放つ。
共通の話題から切り出した方が、話しやすいかと思ったけれど、私との会話など彼にはもともと興味がなかったのかもしれない。
「いえ……ヤクザが来たのは、その頃だけで――」
「ヤツは、もう出て行った」
くだらない話を切り上げるように、大上さんは、私の言葉を奪った。
「ええ」
「ヤクザも来なくなった」
「そうなんですけど……それとは、別に、困ったことが起きまして――」
こんな風に急かされて、私は、本題に入らざるを得なくなった。
イケメンで仕事のできる草壁君のこと、仕事よりおしゃれに興味のある絵梨花ちゃんのこと、仕事を辞めるわけにはいかないのに退職の危機にさらされている私のこと。
それから――それらを円満に解決するために、力を貸してほしいこと。
「……すみません。ご迷惑をおかけしているというのは、分かってます。――でも、生活がかかってるし、他にこんなこと頼める人がいないし……。一日だけでもいいんです。草壁君の前で、恋人のふりをしてもらえないかと――」
立て続けに言ったあと「これは、ほんの気持ちです」と、私は鞄の中から青いリボンに濃い茶色の箱を取り出した。
雨の日の別れ際に、大上さんがくれた高級ショコラティエ《レミー・ダゲール》のチョコレート。もしも、私のことを忘れているようであれば、あの時もらったのと同じこのチョコレートを見せれば思い出してもらえるかもしれないと用意してきたものだった。
その箱を目にした瞬間、ふっと、彼の雰囲気が和らいだような気がした。
「まあ、電話してこいって言ったのは、こっちだしな。――で、いくらで?」
こんなお願いの普通の相場なんてわからないし、こんな言い方をすると、吹っかけられるかもしれないが、貯金がすべてなくなったとしても、会社を辞めるよりは、数段マシだ。親に仕送りはしているけれど、お金をかけるような趣味はないので、そこそこの貯金はある。
「……あなたの、おっしゃるだけ」
それでも貯金で払えるだけの金額で満足してくれればいいと心の中で願う。
少し考えた後、大上さんは私を試すようにニヤリと嗤った。
「なら、体で払う?」
想定外のその提案に、怒ってもいいはずの私は、すぐに返答できない。
頭の中で、あの雨の日の数時間が、鮮明にリプレイされたからだ。
雨の中でのキス。
「チョコは好きだ」と耳元で囁いた低い声。
「溶けてなくなってしまいたい」といった私の視界と動きを封じて、文字通り、蕩けさせてくれた魔法のような時間。
エイジに不感症とまで言われた私が、あんな風に、自分を忘れるほど感じて声を出したことなんてなくて――もう一度試してみたい気がなかったと言えば嘘になる。
いや、でも、彼が好きかというのは別の問題で――って、体だけってのも、それはそれで問題かもしれないけど。
結局、彼に対して自分がどう思っているのかというところで引っかかり、言葉に詰まった私の答えを、彼は肯定に受け取ったのだろうか。
チョコレートを目にしてから、すっかり打ち解けた雰囲気になった彼は、煙草の煙を大きく吐き出して、くくっと喉の奥で笑った。
「う、そ。……悪いけど、俺、仕事で同じ女は抱かない主義だから」
「仕事じゃなければ、いいんですか?」
それまで私が思案していたこと自体を否定されたような気がした。そして、そんなことで図らずも考え込んでしまった自分に苛立って、それを帳消しにしたくて、取って返すように聞いた私に、たまらなくなった様子で大上さんが噴き出した。
「そんな言い方すると、まるで俺に抱かれたいみたいに聞こえるけど?」
とたんに、頬から耳にかけて熱くなる。
そんな私の様子に、大上さんは、再びにやりと口の端を上げ、耳元に唇を寄せた。
「――相変わらず、面白いな、君は。……そんな、半年以上も前のことを持ち出してくるほど、俺のことが忘れられなかった?」
かーっと、体の中の液体が、全部頭へ向かったような気がした。
忘れられなかったのは、事実だ。でも、それが恋愛によるものかどうかは、自分でもよくわからない。
でも、少なくとも、私がこれまで好きになったようなタイプの人ではないし、大上さんにとっても、私に対してそれほど興味を持っているようでもない。
きっと、この人は、無駄に官能的なんだ。
だから、好きでもないのに、体が、反応するんだ。あの時、感じたのも、この人の特質によるもので――
「……君の気持ちは、よく分かった。――この後のこと、全部俺に任せてくれるって約束するなら、君を一生幸せにしてやる」
私が自分の気持ちに何とか折り合いをつけようとしているところへ、彼は追い打ちをかけるように、さらなる混乱の種をまいた。
『一生幸せにしてやる』
それは、どういう意味だろう。
そもそも、一生なんて言葉、片手で数えるほどしか会ったことのない女に、吐く台詞ではない。
からかわれているのかと、じっと彼を見つめたが、彼の薄い笑いからは、それが本気かどうかはわからない。
「好きでもない女に、よくそんなことが言えますね」
でも、「チョコ、もらったからな」と不敵に嗤う彼を見たら、怒る気も失せた。
何とも、つかみどころのない人だ。
いずれにしても、この人が彼のふりをしてくれれば、草壁君は私を諦めるだろうし、上手くいけば絵梨花ちゃんとくっつくかもしれない。そうなったら、私は仕事を辞める必要はなくなるのだし、それは、つまり、一生不幸にはならない生き方で――そうなればそれは、ある意味、大上さんの言葉通りではあるけど。
私は無理やり自分を納得させ、彼の瞳を見つめたまま、小さく頷いた。
「おっけ。交渉成立な。――準備が整ったら、こちらから連絡する」
私が扉を開けると同時に、カウンターに座っていた大上さんが席を立ち、奥の薄暗いボックス席へと誘う。
ジーンズに洗いざらしの白いシャツの上から無造作にひっかけたジャケットという格好の彼が素敵に見えたのは、バーという場所と雰囲気のせいだろうか。
「あの、ごめんなさい。突然、電話して――」
彼は、何も言わずに、ポケットから出した煙草に火をつけた。
その様子がいかにも、「ほんとに来たか」という様子で、いささか面倒そうで――私は、申し訳ない気分になったけれど、でも、ここで遠慮している場合ではない。
なにしろ、職がかかっているのだ。
それでも、何から話していいのかわからなくて、彼の煙草が短くなるまでお互いに口を開かずに座っていた。
バーテンがビールのピルスナーを二つ持って現れると、少しグラスを持ち上げて、目で「乾杯」という合図を送ってから、大上さんは三口でそれを飲み干し、ようやく、大きな溜息とともに「――で?」と、私に視線を向けた。
そうして促されては、口を開かないわけにはいかない。
「――彼とは、別れました。というか、あの日から、帰ってこなくなりまして」
あの日――雨の中、ラブホテルの前でばったりエイジに会ったときに私は、ホテルの前でカメラを持って張り込んでいた大上さんに出会った。奇しくも、彼に慰められるような形になったのだから、その後どうなったか、報告ぐらいしておいた方が、本題に入りやすいような気もする。
「そうか」
「そのあと、何日かして、彼の居所を教えろって、ヤクザみたいな人たちが来ました」
彼は興味なさそうに私の話を聞きながら、二本目の煙草に火を点けた。
「その、ヤクザが問題?」
吐き出した煙を視線で追いながら、男は興味なさげに言葉を放つ。
共通の話題から切り出した方が、話しやすいかと思ったけれど、私との会話など彼にはもともと興味がなかったのかもしれない。
「いえ……ヤクザが来たのは、その頃だけで――」
「ヤツは、もう出て行った」
くだらない話を切り上げるように、大上さんは、私の言葉を奪った。
「ええ」
「ヤクザも来なくなった」
「そうなんですけど……それとは、別に、困ったことが起きまして――」
こんな風に急かされて、私は、本題に入らざるを得なくなった。
イケメンで仕事のできる草壁君のこと、仕事よりおしゃれに興味のある絵梨花ちゃんのこと、仕事を辞めるわけにはいかないのに退職の危機にさらされている私のこと。
それから――それらを円満に解決するために、力を貸してほしいこと。
「……すみません。ご迷惑をおかけしているというのは、分かってます。――でも、生活がかかってるし、他にこんなこと頼める人がいないし……。一日だけでもいいんです。草壁君の前で、恋人のふりをしてもらえないかと――」
立て続けに言ったあと「これは、ほんの気持ちです」と、私は鞄の中から青いリボンに濃い茶色の箱を取り出した。
雨の日の別れ際に、大上さんがくれた高級ショコラティエ《レミー・ダゲール》のチョコレート。もしも、私のことを忘れているようであれば、あの時もらったのと同じこのチョコレートを見せれば思い出してもらえるかもしれないと用意してきたものだった。
その箱を目にした瞬間、ふっと、彼の雰囲気が和らいだような気がした。
「まあ、電話してこいって言ったのは、こっちだしな。――で、いくらで?」
こんなお願いの普通の相場なんてわからないし、こんな言い方をすると、吹っかけられるかもしれないが、貯金がすべてなくなったとしても、会社を辞めるよりは、数段マシだ。親に仕送りはしているけれど、お金をかけるような趣味はないので、そこそこの貯金はある。
「……あなたの、おっしゃるだけ」
それでも貯金で払えるだけの金額で満足してくれればいいと心の中で願う。
少し考えた後、大上さんは私を試すようにニヤリと嗤った。
「なら、体で払う?」
想定外のその提案に、怒ってもいいはずの私は、すぐに返答できない。
頭の中で、あの雨の日の数時間が、鮮明にリプレイされたからだ。
雨の中でのキス。
「チョコは好きだ」と耳元で囁いた低い声。
「溶けてなくなってしまいたい」といった私の視界と動きを封じて、文字通り、蕩けさせてくれた魔法のような時間。
エイジに不感症とまで言われた私が、あんな風に、自分を忘れるほど感じて声を出したことなんてなくて――もう一度試してみたい気がなかったと言えば嘘になる。
いや、でも、彼が好きかというのは別の問題で――って、体だけってのも、それはそれで問題かもしれないけど。
結局、彼に対して自分がどう思っているのかというところで引っかかり、言葉に詰まった私の答えを、彼は肯定に受け取ったのだろうか。
チョコレートを目にしてから、すっかり打ち解けた雰囲気になった彼は、煙草の煙を大きく吐き出して、くくっと喉の奥で笑った。
「う、そ。……悪いけど、俺、仕事で同じ女は抱かない主義だから」
「仕事じゃなければ、いいんですか?」
それまで私が思案していたこと自体を否定されたような気がした。そして、そんなことで図らずも考え込んでしまった自分に苛立って、それを帳消しにしたくて、取って返すように聞いた私に、たまらなくなった様子で大上さんが噴き出した。
「そんな言い方すると、まるで俺に抱かれたいみたいに聞こえるけど?」
とたんに、頬から耳にかけて熱くなる。
そんな私の様子に、大上さんは、再びにやりと口の端を上げ、耳元に唇を寄せた。
「――相変わらず、面白いな、君は。……そんな、半年以上も前のことを持ち出してくるほど、俺のことが忘れられなかった?」
かーっと、体の中の液体が、全部頭へ向かったような気がした。
忘れられなかったのは、事実だ。でも、それが恋愛によるものかどうかは、自分でもよくわからない。
でも、少なくとも、私がこれまで好きになったようなタイプの人ではないし、大上さんにとっても、私に対してそれほど興味を持っているようでもない。
きっと、この人は、無駄に官能的なんだ。
だから、好きでもないのに、体が、反応するんだ。あの時、感じたのも、この人の特質によるもので――
「……君の気持ちは、よく分かった。――この後のこと、全部俺に任せてくれるって約束するなら、君を一生幸せにしてやる」
私が自分の気持ちに何とか折り合いをつけようとしているところへ、彼は追い打ちをかけるように、さらなる混乱の種をまいた。
『一生幸せにしてやる』
それは、どういう意味だろう。
そもそも、一生なんて言葉、片手で数えるほどしか会ったことのない女に、吐く台詞ではない。
からかわれているのかと、じっと彼を見つめたが、彼の薄い笑いからは、それが本気かどうかはわからない。
「好きでもない女に、よくそんなことが言えますね」
でも、「チョコ、もらったからな」と不敵に嗤う彼を見たら、怒る気も失せた。
何とも、つかみどころのない人だ。
いずれにしても、この人が彼のふりをしてくれれば、草壁君は私を諦めるだろうし、上手くいけば絵梨花ちゃんとくっつくかもしれない。そうなったら、私は仕事を辞める必要はなくなるのだし、それは、つまり、一生不幸にはならない生き方で――そうなればそれは、ある意味、大上さんの言葉通りではあるけど。
私は無理やり自分を納得させ、彼の瞳を見つめたまま、小さく頷いた。
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