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告白
しおりを挟む「……」
何か言いかけてやめた悠兄ちゃんは、ついっと私から離れると、プールの方へ力強く歩き出した。
プールサイドに腰かけ、足をつけてじっと水面を見つめる。
「悠兄ちゃん……?」
聞こえなかったのか、あるいは聞こえていたけれど返事をしなかったのか、悠兄ちゃんは、しばらくじっと水面を凝視した後、大きく息を吐いて、私に視線を向けた。
「二十秒潜れたら、ご褒美に、キスして?」
「ええっ!?」
それから、悠兄ちゃんは、あの時みたいにふっと笑うと、私から視線を外さずに、水の中へ静かに入っていった。
――十九、二十。
私の心の中のカウントと、同時に悠兄ちゃんが水面に顔を出す。
相変わらず、すごい勢いで両手で顔を拭っている様子に、思わず笑みが漏れた。
その間に、プールから上がった悠兄ちゃんは、私のそばへ来て「綾、ご褒美」と唇を寄せた。
それは、ほんの一瞬のことだった。
しっとりと濡れた悠兄ちゃんの唇が、ただ触れただけの――遠慮がちな、中学生同士がするようなキスだった。
それでも、これまでに私が経験したキスの中で、一番私の胸の奥を熱くした。
「ほ、ほかに、なかったの?」
恥ずかしさに、顔が火照る。
それを、見抜かれたくなくて、言い方がつっけんどんになった。
「なにが?」
悠兄ちゃんが余裕で笑っていて、ドキドキしているのが自分だけなのが、また、すこし悔しい。
「悠兄ちゃんが、ご褒美だって思えるの」
なんで、いきなりキスなんだろう。
なんで、私の心を乱す言動ばかりするかな。
「……すごく我慢して、キスなんだけど?」
「ゆ、悠兄ちゃんってさ、気が付いてないかもしれないけど、時々、そうやって、官能的なことを言うよね」
ずるい。
ずるい。
ずるい。
なんで、そんな風に、言うわけ?
心の中で悠兄ちゃんを責める声がだんだん大きくなってくる。
そうやって、悠兄ちゃんを悪者にしないと、私の気持ちが大きく悠兄ちゃんへと傾きそうで、バランスをとるために、そうするしかなかった。
「気づいてるよ」
それでも悠兄ちゃんは、私の責めるような口調を咎めることもせず、反対に、表情を和らげる。
「わざと、言ってるの、気づかなかった?」
「からかうの……、やめてよ」
「からかって、ないよ。言っただろ、自分も相手に気持ちがあるなら、そばにいればわかるって」
ふわりと、悠兄ちゃんの腕が私に巻きついた。
細身のわりにはがっしりとした肩が私のおでこに触れ、悠兄ちゃんの腕は私の肩から背中にかけてしっかりと交差されている。
しっかりと抱きしめられて――身動きできないのに心臓だけはこれまでにないくらいばくばくしていて――
「俺の勘違いなら、この腕を振りほどいて。――そうしたら、俺、理性を総動員する」
腕の中で、私は首を横に振るだけしかできなかった。
今声を出したら、嗚咽も一緒に漏れてしまいそうだ。
私は、唇をしっかりと噛んで、声と涙を我慢した。
もう、その気持ちだけで十分。
それだけで、わたしは、報われた。
「兄貴はもう卒業していい?」
抱きしめた腕をわずかに緩め、悠兄ちゃんが私の頬に手をかけた。
ロビーでネックレスつけてやるとき、後ろから抱きつきそうになるの、必死に抑えたんだぞ。
息だけでそういいながら、唇が唇の表面を撫でる。
乾いた唇を、悠兄ちゃんの舌が潤し、そのまま唇を割って私の口腔へ入ってきた。
様子を窺うように、私の舌先を舌で突く。
私を気遣ってくれる優しいキスに体のこわばりが解けたところへ、ぐいっと奥まで侵入された。貪るように、舌の根を吸い、上顎の裏や歯列を蹂躙する。
下顎の奥のほうがじんじんと痺れてきた。
唇の横から唾液が零れ、首を伝って胸の上まで垂れていくのが分かる。
「ん……」と声が漏れた。喉の奥で生まれた痺れが、ゆっくりと脳を冒していく。
体の力が抜けて、肩にかけていたタオルが床に落ちた。
「綾の、全部が、欲しい――」
頬を支えていた手に水着の肩紐をずらされそうになって、私は反射的に悠兄ちゃんを押しのけていた。
――でも、私は、あなたとは一緒に行けない。
「綾――?」
後悔と驚きの混じった目で、悠兄ちゃんが私を見る。
「ごめん、なさい――」
「なにが?」
「……とにかく、ごめん」
「俺のこと、嫌い?」
ううん。
私は首を横に振った。
嫌いなわけない。大好き。
大好きだからこそ、ごめんなさい。
「怖い?」
それは、正しく、そして、間違いでもあった。悠兄ちゃんと体を重ねるのが怖いわけではない。怖いのは、そのあと、だ。
「そうじゃなくて……悠兄ちゃん、きっと私のこと、軽蔑する」
「綾が、初めてじゃなくても、軽蔑なんかしないよ。――病院で、胸元についてるキスマーク見て、もしかしたらって思った。……恋人?」
恋人――
そう呼べる人であったら、どれだけ気が楽だろうか。
それ以上何もいえなくなって、言葉の代わりに、涙が一気に瞼を越えた。
「言いたくなかったら、言わなくていいけど――」
あの男に無理やりされたときにだって、見せなかったのに。
落ちていたタオルを拾い上げた悠兄ちゃんは、涙を拭うと、私を腕の中に守るように、今度は先ほどよりもふわりと優しく抱きいれた。
「そいつのこと考えただけで涙が出るんじゃ、忘れちゃえよ」
忘れられたら、どんなにいいだろう。
私は、駄々っ子のように首を横に振ることしかできない。
「俺じゃ、だめかな?」
「なんっ……で――?」
「こんな状況で言うの、ずるいと思うけど、俺、ずっと、お前のこと好きだった」
「……う、に……ちゃ……」
「俺じゃ、その男との思い出を、上書きできないかな?」
上書き――できるものなら、して欲しい。
でも、あの男は、悠兄ちゃんとの思い出をさらに上書きしてくるだろう。
悠兄ちゃんとの思い出が、あの男の嫉妬に上書きされて――穢されるのは、とてもいやだ。
「……でも。やっ……ぱ、……ごめ――」
悠兄ちゃんは、私を宥めるように、タオルの上から頭や肩や背中をなでてくれた。
「俺のほうこそ、先を急いで、ごめん。でも……辛いんだったら吐き出して、いいよ。俺、黙って聞くしかできないけど」
悠兄ちゃんは私をソファに座らせた。それから、宥めるように肩に腕を回し、頭をなでながら、黙り込む。
私が口を開く気になるまで、そうしてくれるつもりなのだろうか。
「そんな風にされたら、私、誤解しちゃうよ」
「綾が誤解したければすればいいよ。――てか、好きだって言っただろ。お前が、妹のままがいいって言うなら、それでもいい。でも、この関係にどんな名前がついていようと、俺がお前を大事に思う気持ちは変わらないから」
大事な人を守るためだったら、自分がどうなろうとも、構わない――そういう人だと知っている。
だから。
やっぱり、悠兄ちゃんには、言えない。
「悠兄ちゃんに、迷惑かけることになるし――」
「好きな女に迷惑かけられるなんて、男冥利に尽きるけどね。――ていうか、そんなに俺、頼りない?」
「そういう意味じゃないけど……」
「じゃあ、話せよ」
いきなりの命令口調に、悠兄ちゃんの機嫌を損ねたような気がして、怖くなった。
ううん。悠兄ちゃんはそういう人ではないと知っている。だけど、誰かを怒らせるということ自体が、私には恐怖だった。
「……お、義父さん、なの」
悠兄ちゃんは、私の髪を優しくなでる手を一瞬止めたが、またすぐに、先ほどまでよりは少し強く、肩や頭を撫ではじめた。
一言目を発すると、後は、自然に言葉が出てくる。そうして私はそのとき初めて、私を縛りつけている悪夢について、誰か別の人に話したのだった。
話が終わると、悠兄ちゃんは、私をぎゅっと抱きしめた。
「ごめん」
その腕が、わずかに震えているように感じるのは気のせいだろうか。
「どうして、悠兄ちゃんが謝るの?」
「たぶん、俺の、せいだ。……気づいてあげられなくて、ごめん」
「悠兄ちゃんは、悪くないよ。だって、最初は悠兄ちゃんが家を出た後だったし――」
「いや。――あのとき、俺は出ていくべきではなかったんだと思う」
床に視線を落として悠兄ちゃんはしばらく口を閉ざした。
まるで、ばらばらに散らばった何かを拾い集めるように、あちこちに視線を泳がせた後、「――俺のお袋の話、聞いたことがある?」と、床の一点に視線を落したまま口を開いた。
「……二十五年前に亡くなったって、聞いたけど」
「自殺だった」
私は、悠兄ちゃんを窺った。
うつむき、眼を伏せて話す悠兄ちゃんの口元が強く引き結ばれている。
そんなこと、誰にも話したくないだろうに。
それから「俺も、何年もたってから法事で親戚がこそこそ話してたのを聞いただけだけど――」とぽつりぽつりと言葉を選んで話し始めた。
名家に育った悠兄ちゃんの母親は、病弱だったこともあって、大事に育てられた。そのせいか、外界に触れることもあまりなく、心が細かったようだ。そして、お義父さんとお見合いで結婚して、大きく変わった環境に気を患い、悠兄ちゃんが二歳の時、まだ赤ん坊だった彼を抱えたまま入水。
「俺はたまたま水面に浮いて、近くの漁師に助けられたけど――」
そこで悠兄ちゃんはもう一度悔しそうに唇を噛んだ。
私は、冷たくて暗い海の底から、自分を呼ぶ声が聞こえるような気がするという、悠兄ちゃんの言葉を思い出す。
それは、悠兄ちゃんの母親の声なのだろうか。それとも、運よく自分だけ助かってしまった悠兄ちゃんの良心か。
「――たぶん、親父はあの時、俺とお袋に、自分は置いていかれたって思ったんだろう。もともとプライドは高い人だったけど、そのことがあってから特に、自分だけ蚊帳の外とか、置いていかれるってのに敏感になった気がする」
悠兄ちゃんはそこでいったん言葉を切って、それから、しばらくして、ぽそっと付け加えた。
「だから、俺が家を出て一人暮らしするって言ったとき、だったら縁を切るって極端なところまで話が行ったんだ。……病んでんだと思うよ、あの人も」
悠兄ちゃんが出て行って、お母さんも他の男の人と不倫していることを知った時に、どうしても私だけは自分の手元に残しておきたくなったんだろう。
私はまだ子供だったし、うまく丸めこめば自分のペットみたいにできると考えたのかもしれない。
そう話しながらも、悠兄ちゃんの大きくて柔らかい手は、私の頭をずっと撫でていた。
「だけど……まさか、あんな手段で、綾を縛りつけて、……傷つけてたなんて――。……一人にして、本当に、ごめん」
悠兄ちゃんが僅かに、啜りあげたような気がした。
私はそんな悠兄ちゃんの頭に手を伸ばして、悠兄ちゃんがしてくれたように、ゆっくりとその髪を撫でる。
そんな風に思っていてくれたなんて。
私こそ、自分の体を守れなくて、ごめん。
「悠兄ちゃんの、せいじゃない。……私のほうこそ、もっと、大事にできたら良かったのに、ごめんね」
「謝るなよ。綾が悪いんじゃない。悪いのは俺だ」
「でも――」
また謝りかけたところで、至近距離で目が合って、二人同時にクスッと笑みが漏れた。
「――綾」
悠兄ちゃんが、あの笑顔で私に手を伸ばす。
それを、私が受けとってもいいのだろうか。と躊躇っていたら、悠兄ちゃんの方から距離を詰めてきた。
やさしく抱き込まれて、悠兄ちゃんの香りに包まれる。
「綾が、嫌でなければ、だけど」と前置きして悠兄ちゃんは、私の髪に口づけた。
「――その体の中に、親父とのことが消えるくらい、俺を刻みつけたい」
耳のそばで囁かれただけなのに、唇から伝わってきた熱で、全身がビクンと震えた。
――一度だけ、甘い夢に溺れても、いいですか。
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