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人魚
しおりを挟む8×3メートルほどの小さなプランジプールだったけれど、深いところは私の背丈以上もある水深のおかげで結構楽しめた。
泳いだり潜ったりしているうちに、心が解されていく。
悠兄ちゃんに対する気持ちをしっかり押さえこめたと判断したところで、私は水から上がった。
プールサイドに設えてあるガゼボのリゾートチェアでくつろいでいた悠兄ちゃんが「綾は、水の中にいる方が生き生きしてる」と笑う。
「――まるで、人魚だな」
タオルを手渡され、そのまままっすぐに見つめられて、押さえたはずの想いが再び胸の奥で暴れ始めた。
変に期待してしまうから、そんな風に、優しく見つめないで欲しい。
「人魚姫が……好き、だから、かな」
視線を逸らして欲しくて、私は、悠兄ちゃんの隣に腰掛けながら、話題を人魚姫にすり変えた。
「――ねえ、悠兄ちゃんなら、人魚姫の結末は、どんなのがいい?」
話題は何でもよかったのだけど、たまたまずっと頭の中で引っかかっていた問題について、悠兄ちゃんの意見も聞いてみたいと思った。
「そうだな。……あのままじゃ、人魚姫が報われないな、とは思う」
「もし、人魚姫が声を出せたとしたら、王子は本当のことを聞きたかったと思う?」
それに対する答えは意外なものだった。
「知ってたんじゃないか」
「え?」
「ああ、言葉が足りなかったかな。――助けてくれたのは誰かってのは分かんなかったとしても、人魚姫の気持ちを、王子は、知ってたんじゃないかなってこと」
「そう、なのかな」
「何も言わなくても、ずっとそばにいたら、わかるだろ。ましてや、自分もそっちに気持ちがあるならさ」
男性視点から見ると、そんな風に感じるなんて、思いもしなかった。
「それなら、どうして王子様は他の人と結婚するの?」
たかが、童話の話なのに、悠兄ちゃんは、口元に手を当てて、じっくりと考えてくれている。
「まあ、色々あるんじゃないか。王子として生まれたからには、隣国の姫と婚姻関係を結んで、両国の関係を良好に保たなければいけないって役目もあるだろうし」
「それじゃ、もし、人魚姫が本当のことを告白してたら、王子様は、どうしていたと思う?」
「純粋に、嬉しいと思うよ。王子とういう立場さえなければ、迷わず人魚姫を選んだんじゃないかな。――まあ、それだとお伽話にはならないと思うけどさ」
王子という立場さえなければ――。じゃあ、王子ではない悠兄ちゃんは?
兄妹でなければ、あるいは、お義父さんのことがなければ、それを自然に聞けたかも知れない。
でも、私にはまだお義父さんのことを悠兄ちゃんに、冷静に話す勇気がない。
話したくないわけではない、のだとは思う。
助けてくれたらと思わないわけではない。
いや、話したら、悠兄ちゃんは、私を助けてくれる。
ただ、それが悠兄ちゃんの負担になりはしないか、と不安なのだ。
あの男のことを話したら、心に秘めていた気持ちも全部あふれ出てきそうで――そうなったら、悠兄ちゃんを縛り付けてしまいそうな気がして、それが怖かった。
これ以上悠兄ちゃんの前にいたら、口にしてはいけないその言葉が出てきそうな気がして、私は「そっか」と納得した素振りで、タオルを羽織って部屋に入った。
着替えるふりをして、悠兄ちゃんの視界に入らないところへいって心を落ち着けよう。
けれど、その目算は、簡単に破られた。
着替えを手にしようとしたところで、後から入ってきた悠兄ちゃんに腕をつかまれた。
その瞳は、それまでとは違って、まっすぐに私を見つめている。
「綾。……お前も、本当のこと話してよ」
いつになく声が、鋭い。
やだ。こんな展開、予想していなかった。
押さえなければならない筈の、不安と恐怖がさらに煽り立てられる。
「本当の、ことって?」
それだけを口にするのに、声が震えた。
まさか、悠兄ちゃんは、気がついていたのだろうか。
私の気持ちに? それとも、あの男とのことに?
「――あの、パーティの日、助けてくれたのはお前だろ?」
その話、か、とわずかに安心した。
誰が救助したのであっても、悠兄ちゃんが助かったことに変わりはない。マリアさんが、自分が助けたといったのであれば、それを否定する必要はないように思われた。
「ち――」
「違わない」
なのに、悠兄ちゃんは、それがとても大事なことであるように、強く否定した。
「だ……って、私だって、よく、覚えてないし――、助かったんだから、救助者が誰であっても――」
「俺にとっては、すごく大事なことだ。
……マリアは、あの時、俺を後ろから抱えて水面に上がったって言ったけど、でも、俺が覚えているのは、違うんだ。
俺は、前で――この手で、目の前の金色の人魚をしっかり抱きしめた。――人魚ってのは、妄想だろうけど」
あのときの情景を思い出しながら話しているのか、口調はたどたどしく、時折不安そうな表情が混じる。
私は水が怖いわけではないから分からないけれど、悠兄ちゃんにとって、水の中に沈んでいくその瞬間を思い出すのは、水面に水をつける前と同じくらい怖いのではないだろうか。
そんな思いをしてまで、今、悠兄ちゃんは、あのときのことに対峙している。
でも、実際に悠兄ちゃんを助けたのは、マリアさんだ。
私は一緒に水の中で意識を失っただけで。
「だから……それは、マリアさん、でしょ? 金色のマーメイドドレス着てたし――」
「最初は俺もそうだと思った」
そう言って、悠兄ちゃんは、私の腕をつかんだまま、おいてあった鞄の中から、一枚の写真を差し出した。
そこには、プールに飛び込むマリアさんが、高い位置から写されている。
先日見せられた私が飛び込んだ写真と同じ、建物の二階から撮ったような構図だから、キースさんが撮ったものだろう。
「――マリアは、ドレスを脱いでた」
指摘されて、もう一度よく見ると、確かに、マリアさんは下着姿だった。
水難救助の基本では、救助者は服を脱いだほうがいいのだから、資格をもっているという彼女もそれに従ったのだろう。
皆が見守る中、モデルの彼女が裸体を曝してまで悠兄ちゃんを助けに行ったのだ。
所長とマリアさんのことを知らなかったら、マリアさんはやっぱり悠兄ちゃんが好きだったんじゃないかと疑ってしまうところだ。
「それなら、肌色と金色を取り違えたんじゃないの?」
「いや、違う。水中のライトに照らされて、鱗がきらりと光ったように見えたんだ。……綾、あの時、着物だったよな」
「う……ん」
「あの着物、袖に、金色の刺繍がしてあっただろ?」
「そうだったかな?」
「ちゃんと証拠がある」
悠兄ちゃんに見せられたのは、キースさんに初めて会ったときにパチパチ撮られた写真だ。
「この、扇の形、人魚のしっぽの形に似てると思わないか?」
「気、のせいじゃない?」
そう言われてみると、確かに、何枚もの扇面が流れるように裾に向かって置かれている様は、人魚の下半身のようにも見えないこともないけれど。
「ロビーでお前が手に取った魚の布見たとき、確信した。俺があの時水中で見た人魚は、お前だ」
息が止まるかと思った。
無我夢中で、救助の基本も忘れて飛び込んだ私を引き合いに出され、隠そうとしていた自分の気持ちを暴かれたような気がして。
「ち、がうよ」
どう答えていいのか分からなくて、それだけ搾り出すのが精一杯。
そもそも、あの時のことを今更突き詰めても意味がないのではないだろうか。
けれども、悠兄ちゃんはそれがとても大事なことのように、否定しかけた私の言葉を奪って、熱い瞳で言葉を続ける。
「俺、あの時――、人魚に助けられた時、水の中にいるのに、怖くなかった」
私は悠兄ちゃんから目を逸らす。
悠兄ちゃんは私を掴んでいた手に一瞬だけ力を込め、それから、すぐに離した。
「ゆ、にいちゃん――!?」
おもむろに着ていたシャツとボトムスを大胆に脱ぐ悠兄ちゃんの行動に、私の胸が大きく跳ねる。
胸の上で、アンティークなクロスが揺れた。
私が目のやり場に困っていると、悠兄ちゃんがその大きな手で私の頬に触れた。
瞳がいつもより潤んで見えるのは気のせいか。
その、何かを決意した瞳に、私はごくりと喉を鳴らす。
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