人魚と水宝玉 【石物語 3月号】 (R-18)(悠哉×綾菜1)

るりあん

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病室

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 ガチャリと扉の開く音がして、尊大な靴音が響いた。

「――なぜこんなことになったか、説明してもらおうか」

 その声に、私は身体を竦ませた。かなり抑えた声だけど、明らかに苛立っている。
 この人を怒らせたら、あの夜の続きが、また、始まる。
 体が無意識にそう覚えている。だから、私は動けない。
 すると、私の左側で誰かがすっと立ち上がる気配があった。
 ああ、二人きりじゃなかった――と安堵した一方で、不穏な雰囲気を感じ取った私は、目を閉じたままで、嵐が通り過ぎるのを待つことに決めた。

「すみません」

 私の左側で、悠兄ちゃんのすまなさそうな声が上がる。

「なぜ、お前がここにいる?」
「……すみません。綾菜が水に落ちたとき、僕もその場にいました」

 もう一度謝る悠兄ちゃん。

「距離を置けば、忘れるだろうと思ったのは、誤算だったようだな。……内緒で、会っていたのか?」

 何も答えない悠兄ちゃんに、お義父さんは大きく息を吐いた。

「――こんなことなら、お前が家を出たときに、家の敷居を跨ぐのを禁止するだけでなく、綾菜との密会も禁じておくべきだった」
「家を出たとはいえ……綾菜は、僕にとっては、――家族です」

 涙がこぼれそうになったのは、自分の意志とは関係なく妹となった私を家族として受け入れてくれていると知ったからなのか、それとも、家族という越えられない枠にはめられたからか。

「私は、お前が誰を選ぼうが、祝福するつもりでいる。……だが、綾菜だけは許さん」
「あなたに、そんなことを言う権利はないでしょう。それに――」

 お義父さんは忌々しそうに、悠兄ちゃんの言葉を遮った。

「世の中には、体裁というものがある」

 体裁――
 確かにそう。お義父さんにとっては、世間にどう思われるかってことが一番大事なことで。だから、お母さんの浮気に腹を立てるのだろうし、その怒りを、直接お母さんにではなく、私に向けるのだ。
 けれど、愛人のところに通っているお義父さんだって、それが世間に知られれば体裁が悪いということになりはしないか。

「まあ、綾菜にも、私からよく言い聞かせておくがな」

 その声に、私は背筋に冷たいものを感じた。
 悠兄ちゃんが、お義父さんの思い通りにならないからだろうか。
 お義父さんは、怒っている。お母さんの浮気を確信したあの時と同じように、――怒っている。

「――とにかく、今後一切綾菜に会うことは許さん」

 悠兄ちゃんと会えなくなるのは、とても寂しいけれど、それ以上に憤怒するお義父さんの方が、怖かった。――大人しくいうことを聞かないと、また、あの悪夢が繰り返される。

「社長……そろそろ――」

 ドアの外で待っていたのだろう、軽いノックの後で扉を少し開け、控えていた秘書が切りのいいタイミングで口を挟んだ。
 どうやら仕事の合間にここへ顔を出したらしい。顔を出したという事実を作るのが目的で、はじめから長居するつもりなどなかったのだろう。
 どこまでも、体裁を気にする人だ。

「わかったら、お前も早くここから立ち去れ」

 靴音が遠ざかり、ドアの開閉の音の後、部屋の中に静けさが戻った。



 ふわりと、頬が暖かくなった気がして、私は目を開けた。
 見上げた天井は、パンチングが施され真四角に区切られて無機質な印象を放っている。
 左側で何かが動いたような気がして、頭ごとそちらに顔を向けると、そこに、切なさと喜びがぐちゃぐちゃになった表情をした悠兄ちゃんがいた。
 とても、モデルにはみえない――情けない顔だ。
 私はにっこり笑って、悠兄ちゃんの手に頬を擦り付けた。

「気がついた?」
「悠兄ちゃん――?」

 何から訊けばいいのかわからない。そもそも、訊いていいのかも。
 だから、何も訊けない。

「すこし前、親父が来てた。……お母さんは、仕事で帰ってこられないって」
「……そっか」

 うん。お義父さんが来てたの、知ってる。お母さんも、今はまだヨーロッパに出張中だもんね。
 でも、聞きたいのはそんなことじゃない。

「検査して、何ともなかったら、明日退院できるって」
「そっか」

 椅子に座りなおした悠兄ちゃんの胸元でシルバーのクロスがチャリっと揺れた。
 私は、悠兄ちゃんから、ペンダントヘッドへ視線を移し、左手を伸ばしてそっと触れる。

「……お守り、効かなかったね」
「そんなことないよ。――俺は、助かった」

 悠兄ちゃんの瞳の奥が切なく揺れた。
 その瞳が、私にごめんと謝っているような気がした。

「……悠兄ちゃんが無事で良かった」
「助けようと思ったのに、二人で落ちてりゃ世話がないけどな」

 クロス部分に触れていた私の手を外し、布団の中に入れて襟元を整えてから、悠兄ちゃんは、恥ずかしそうに笑う。

「――二人で"落ちた"?」
「俺は、プールに落ちてパニくってたからよく覚えてないけど、結局俺の努力は虚しく、お前も落ちたって聞いたけど?」

 どういう流れでそうなったのか、わからないけど、あの場ではそう見えたということだろうか。

「――それで、マリアが助けてくれたって」

 え?

「あいつ、レスキューの資格持ってるとかで、俺たちが落ちるのを目にしたら、すぐにドレスを脱ぎ棄てて、プールに飛び込んだって――」

 えええ??

「しかも、俺の痴態を、酔ったせいだと誤魔化してくれたみたいでさ。……なんか、頭が上がらない」

 私は、何が何だか分からなかった。
 私がプールに落ちかけたのは事実だ。それを、悠兄ちゃんが助けてくれたのも覚えている。そのあと、私は自分の意志でプールに飛び込んだような気がするけど――
 そこが間違っているのだろうか。
 水の中で泡になる夢を見たような気はする。でも実は、悠兄ちゃんに向かって夢中で泳いだところから、夢だったのかもしれない。実際は、私も一緒に落ちて、悠兄ちゃんを助けようとしていたのは、私の願望が見せた夢だったのかも。

「せっかく誘ったのに、逆にこんなことになって、ごめん」

 悠兄ちゃんは、本当に申し訳なさそうに、頭を下げた。
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