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パーティ
しおりを挟む二人だけの秘密の小旅行――と言えば甘く聞こえるけれど、プールに顔をつける特訓のための合宿の思い出は、私の小さく縮んだ心を少しずつ温めてくれた。
夢といえばあの悪夢しかなかった私にとって、それは初めて見た甘い夢だった。
その夢のような時間を、何度も引っ張り出して心を温めているうちに、約束の金曜日がやってきた。
悠兄ちゃんが教えてくれた会場の前でタクシーを降りる。シンプルだけどセンスのいいコンクリートの建物だ。
中に入ると、打ちっぱなしのがらんとしたホールの端に受付があるだけで、本当にここでいいのだろうかと不安になる。
受付らしきカウンターに声をかけると、感じのいい上品なスタッフが道行コートを預かってくれた。それから、案内された通り、コンクリートで挟まれた近代的なプロムナードを進んでいくと、突き当りに一枚の大きなガラス戸があって、その向こうに、葉を落としたバラの枝が絡まるアーチが見える。
透明の扉を開けると、賑やかなロック調の音楽と、ざわついた雰囲気が一気になだれこんできた。
夕闇の中に小さなライトがところどころ飾り付けられた、小ぢんまりとしたおしゃれなガーデンが拓けていて、その奥には、まるでアメリカのホームドラマに出てくるような白い壁の二階建ての家が構えていた。
あのコンクリートの無機質な建物の奥に、こんな場所があるなんて、想像もつかない――まさに、隠れ家だ。
建物の中はもちろん、オープンエアの庭のそこここで、着飾った人たちがグラスやお皿を持って談笑している。
「綾、こっち」
アーチをくぐった私を、悠兄ちゃんが見つけてすぐに声をかけてくれた。
「着物で来るなら、言ってくれたら、迎えに行ったのに。――タクシー?」
「何着ていこうかすごく迷って。今朝になって、決めたから」
雑誌のパーティだ。ドレスで着飾って、モデルさんたちと張り合うことになるのが嫌というのを理由に選んだのは、桜色の裾濃暈(すそこいぼか)し地に、肩から袖にかけてと裾の部分に金糸で扇面が刺繍されている訪問着だった。華やかに見えるように、白い刺繍入りの半襟、金色の帯、白い帯締めに、薄紅梅の帯上げでアクセントをつけた。
かくいう悠兄ちゃんは、黒のジャケットの下にグレイのサテンのジレとチーフ。時折りシルバーにも見えるそれらが華やかさを添えている。その下に裾を出して着た白いシャツは、胸元が見えるほどまで開いていて、妙に色っぽい。
思いがけなく鼓動が速くなった。
いつも雑誌で見ているとはいえ、こんな風に着飾った悠兄ちゃんを直接見ることなんてほとんどなかったから――なんというか、見惚れてしまいそうで、目のやり場に困る。
私は、足もとに視線を落とす以外に対抗策が浮かばなくて、裾に刺繍されている扇面の針運びを目で追った。
「いいね、その色。良く似合ってる」
「ありがとう。でも、こんなに洋風の建物なら、ドレスとかワンピースの方が良かったかも」
「いや、外国人もいるし、喜ぶよ」
「よかった。……あ、これ――」
本当は早く渡したくてたまらなかったのに、私は、まるで今思い出したようにバッグから小さな箱を取り出した。
「――お祝」
開けていいか聞きながら、返事も待たずに悠兄ちゃんは、早速包みを開け始めている。
そして、器用に箱から取り出した黒ずんだ銀色のアンティークなクロスを、目の高さでチャリと揺らした。
「こういうとき、何がいいのかわからなくて――」
真ん中にアクアマリンが嵌め込まれたアンティーク調のシルバーのクロスは、悠兄ちゃんが胸にかけると、大きく開いたシャツの下に、ちょうど良く収まった。
「いいね。ありがとう」
「アクアマリンは、水難除けにいいんだって」
「それ、若干、イヤミのようにも聞こえるけど――」
「そうじゃないけど――」
たぶん、お酒が入っているから、いつもよりは上機嫌なんだろう。慣れた仕草で耳元に唇を寄せられて「嘘だよ」なんて言われて。飲んでない私の頭もくらりとくる。
「ずいぶん、笑顔が自然になったな」
「え?」
柔らかく目を細めて私をみる悠兄ちゃんの視線に、心拍数が急激に上がった。
そんな風に、不意に優しく見つめられたら、期待してしまいそうになる。
「いや。これ、かっこいい。気にいったよ。――じゃ、改めてエスコートさせていただきます」
自然に私に差し出された肘に、私は戸惑った。
そんなこと初めてで。それを、手にとっていいのかどうか。
恥ずかしさに、じっと出された肘を見つめていたら、悠兄ちゃんの手が胸の前にあった私の手首をぐいと掴んで自分の肘に添えさせた。
「おいで」
「――!」
胸の奥がキュッとなった。
どうして、もっと違う出会い方ができなかったんだろう。
切なさがこみ上げる反面、家族として出会わなかったら、こんな風に大切に扱ってもらえなかったって分かってもいる。
これで十分なはずなのに。
甘い夢を見る資格さえ失った私に、それを見せてもらえただけでも、満足しなくてはいけないのに。
悠兄ちゃんのさりげない優しさや笑顔に、生で触れるたびに、これだけでは満足できなくて、私はどんどん欲張りになっていく。
悠兄ちゃんに手を引っ張られるまま、手にグラスやお皿を持って、沢山の人が談笑している人々の中を歩いていった。みんな華やかで、今まさに、ファッション雑誌から飛び出して来たような人たちばかりだ。
悠兄ちゃんに最初に紹介されたのは、所属事務所の所長さんだった。
多分、身につけているのは黒のタキシードだろう。「だろう」と推測したのは、着こなしが、普通のタキシードとは違っていたからだ。
タイはもとよりなくて、だらしなく裾を出したシャツのボタンも半分以上が外されている。しかも、無精髭。先の曲がった煙草を口の端に加えて、ポケットに手を突っ込んでいるのに、汚さは全くなく、むしろ着崩したスタイルの方が似合う、少し悪めの四十代といった感じ。
(奥さんは、女優の松ちぐさ)
(えええええっ!?)
こっそりと耳打ちされたそっちの内容に、私は驚いた。
松ちぐさと言えば、四十代なのに芸歴は四十年、実力派と呼ばれている女優だ。いろいろと恋の噂も絶えなくて、ついこの間も、ワイドショーを賑わせていた。テレビでは独身と言われていたけれど、その彼女が、実は結婚していて、その相手が、今私の目の前にいるなんて。
もしも、所長さんが奥様を同伴されているなら、生で松ちぐさにお目にかかれるかも知れないと、私はさりげなく周囲を見回してみたけれど、残念ながら、近くにそれらしい人物は見当たらなかった。
「へえ、ユウヤの妹?」
所長さんが、私を下から上へ睨め付ける。
その視線から逃れるように目を泳がせた私に気がついた悠兄ちゃんが、所長さんと仕事の話を初めて気を反らしてくれたので、助かった。
その間私は、あからさまにそっぽをむくこともできず、見るともなしに、所長さんの肩越しにあった小さなプライベートプールを観察していた。
小さな飛び込み台が付いているからある程度の深さがあるのだろう。夏なら十分楽しめそうだ。さすがにこの時期にプールで遊ぶ者はいないけれど、水中ライトで暖色系に彩られたプールは、寒々しさなど一切なく、むしろ、パーティに華やかさと温かみを添えている。
悠兄ちゃんとの話が一段落ついたところで、私に見つめられていると思ったのか所長さんが、私の肩に手を置いた。
「……興味があるなら、今度、事務所に遊びにおいでよ」
煙草の香りの混じったアルコールの匂いが、私の脳裏にあの悪夢をよみがえらせた。お義父さんとはぜんぜん違う。けれど、私の周りにはこの年代の男の人はお義父さん(それにしてもお義父さんの方が十歳は上だろうけど)以外にあまりないせいか、中年男性は、ちょっと苦手だ。
無意識にその腕を払いのけようとした私の肩を、悠兄ちゃんがそっと庇うように引き寄せてくれた。
温かい感触に心が緩む。
「すみません、所長。こいつ、シャイなんで――」
「いいよ、いいよ。初心な女の子なんて、イマドキ、新鮮じゃん? 」
所長さんは気にするなとでも言うようにひらひらと手を振ってみせた。
悪い人では、ないのかもしれない。
所長さんは悠兄ちゃんの雇い主でもあるのだから、この場で、反射的に腕を振り払わないで良かったと後で気がついた。
「ユウヤ!」
そのとき、軽やかに鈴が鳴るような声がした。そちらの方へ視線を向けると、大きく肩の出た鮮やかなゴールドのマーメイドドレスに身を包んだ平迫マリアが立っている。
彼女は私に気がつくと、下から舐めるように視線を上げ、それが顔まで来たときに、「ふん」と小さく鼻で笑った。
今をときめくトップモデルに、頭二つ分ほど上から見下ろされて、それだけで私は自分が場違いなところにきたとのだと、嫌というほど思い知らされる。
一方で、声を掛けられた悠兄ちゃんはなんとなく鼻の下を伸ばしているようにも見えた。そして、マリアさんが悠兄ちゃんの肩にしなだれかかっているのが、何となく鼻につく。
「――ま、その気になったら、ウチにおいで。君なら、自信を持って売り込んであげるよ」
所長さんは、二人に気を遣ってか、小さく手を上げてその場から離れて行った。
やっぱり、週刊誌に書かれていた噂は、本当なんだろうか。
「へえ、二十歳の、妹」
それまで挑戦的だったマリアさんの笑みが、その一言で勝利を確信した笑顔に変わったような気がした。
「綾は、昔からマリアのファンでさ。――良かったら、仲良くしてやって」
「ええ。私も、妹ができたみたいで、嬉しいわ。よろしくね、綾菜さん」
マリアさんが、勝ち誇った笑顔で私に手を差し出した。
「マリアとは、今度創刊される雑誌のコーナーを一緒にやることになってるんだ」
「ユウヤと一緒の仕事、とても楽しみだわ」
「それは、こっちの台詞だよ。平迫マリアの人気で読者が集まるんだから」
「そんなことないわ。ユウヤだって――」
マリアさんが、悠兄ちゃんのモデルとしての素質や将来性を熱く語った後、私に「今度、ぜひ、撮影に見学にいらして」と締めくくった。それから、いかにも業界風の軽そうな男性に上機嫌で「マリアちゃーん」と声をかけられて、「やだぁ、社長~」と甘い声で応えたマリアさんは、悠兄ちゃんに熱い視線を残した後、次の花へと飛んでいく蝶のように離れていった。
つきあってるの?
噂は本当なの?
マリアさんのこと、どう思ってるの?
悠兄ちゃんに聞きたいことがたくさん溢れてくる。
けれど私は、声を奪われた人魚姫のように、そのどれ一つも言葉にすることはできなかった。
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