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義兄
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――っ!!
携帯電話が鳴って、ディスプレイの表示を確認したとたん、私の心臓は跳ねた。
「綾菜、こんな時間に、誰?」
入浴後のリラックスタイムに、軽やかに鳴った着信音が、自分の携帯電話ではなかったことに苛つきを隠さず、母が柳眉を顰める。
誰かからの電話を待っているのだろう。
小さいながらも貴金属のセレクトショップを経営している母は、たいてい外泊なのに、今日ばかりは明日からの海外買付の準備を兼ねて早い時間に帰宅していた。
私は「うん、大学の友達」と誤魔化して、携帯電話を手に二階の自分の部屋へ駆け上がると、後ろ手に扉を閉めて、もう一度ディスプレイを確認する。
《高橋 悠哉》
心拍数が一気に上昇したのは、階段を駆け上がったからという理由だけではない。
大学在学中に雑誌の読者モデルとなった悠兄ちゃんは、大学卒業と同時に家を出て、今は一人暮らしをしながらそのままモデルとして活躍している。
血が繋がっていないし、離れて暮らし始めてもう五年になるので、なんとなく家族という意識は弱い。たまにこうやって電話が来るけれど、その時に浮かぶイメージは兄と言うよりも、憧れのモデル、"ユウヤ"の方だ。
私は、荒い息と逸る胸を抑えながら、通話ボタンを押した。
『悪い、取り込み中だった?』
電話の向こうの聞きなれた低めのテナーボイスに、私の中のイメージが『ユウヤ』から『悠兄ちゃん』に変わり、緊張がふっと緩む。
悠兄ちゃんから電話があるときは、いつもこう。その声を聞くまで――優しさを向けられるまでは、ドキドキが治らない。
「ううん。そうじゃないけど、……今日、たまたま、お母さんが早く帰ってきてたから」
電話の向こうの悠兄ちゃんは『そうか』と一言低く呟いた。その反応に、母親のことなんて、話さないほうがよかったかなとちょっと後悔する。
悠兄ちゃんと母は、あまり仲が良くない。母が後妻としてこの家に入ったのが、十三年前――ちょうど悠兄ちゃんは中学二年生で、思春期にあたる時期だったからかもしれないけど――実際のところはよくわからない。
『変わったこと、ない?』
「うん、いつも言ってるけど、大丈夫だってば。――それより、どうしたの?」
私は、努めて明るく振舞った。
悠兄ちゃんと母のことは、私が口を挟める問題ではないと知っている。けれど、二人の関係がうまくいっていないことで心を悩ませていると思われたくなかった。
『この間、ケーキ贈ってくれたから、そのお礼。ちょっとバタバタしてて、遅くなってごめん』
バレンタインデーにチョコレートケーキを焼いてプレゼントしたのは、二週間ほど前の話になる。妹の分際で兄の大事なイベントを壊すわけにはいかないと、直接渡したい気持ちを抑えて、クール宅急便で送った。
連絡がなかったから、迷惑だったのではないかと、思い始めていたところだ。
「あ、うん。……わざわざありがとう。迷惑だった?」
『迷惑? なんで?』
「だって――」
彼女とか――そう言いかけて、その言葉を呑み込んだ。
年明けに友達の千尋が教えてくれた、スポーツ新聞の見出しが頭を過ぎったから。正確には『タレントでモデルの平迫マリアに新恋人っ!?』という記事のクリスマスデートの相手として小さく名前が出ただけだけど。
スポーツ紙のゴシップ記事だからどこまで本当かわらかない。けれど、相手が平迫マリアではないとしても、二十七歳の悠兄ちゃんにそういう存在がいるという可能性は十分あって、それを考えただけで、胸の奥から黒いモヤモヤした感情が湧き上がってくる。
『ああ、彼女、とか?』
私があえて言わないでおいたその言葉を、悠兄ちゃんはいとも簡単に放った。
その言葉で、心の中でもやもやしていたものが針状の形を取って、ちくちくと私の心の内側を攻撃し始める。
「う、ん……。一日、ずらせば良かったかな」
『いや、別に、いいよ。毎年のことだし。妹からケーキ貰って嫉妬するような彼女は、いないから』
それは――彼女という存在自体がいないのか、あるいは、彼女はいるけれど嫉妬するような女ではないという意味なのか。
わざわざ問い質すのも、不自然な気がして、私は「そっか」とだけ答えた。
『でさ、――綾、今春休みだろ?』
「うん」
『来週の金曜の夜、出てこられない?』
まるで、デートの誘いのような文句に、やっと納まりかけた心拍数が再び急上昇した。
電話で内緒で話すことはあっても、こうやって外で会おうと誘われるのは初めてだ。
父親と喧嘩して家を出た手前、義父も母も私が悠兄ちゃんとこうして連絡を取ることを嫌がる。
私は、頭の中でお母さんとお義父さんの今週のスケジュールを繰った。
お母さんは、明日から二週間、海外に行く予定。お義父さんは、何もなければ滅多に家に帰ってくることはない。
「たぶん、……空いている、けど?」
というか、大学は春休みで、ほぼ毎日空いている。いや、悠兄ちゃんに誘われたら、予定が入っていてもキャンセルして、悠兄ちゃんを優先させる。
なんて考えてたら、またドキドキがとまらなくなった。
心臓の音が耳の奥まで響いてきて、送話口を通して、悠兄ちゃんに聞こえないか少し心配になる。
『新しい雑誌の創刊記念パーティがあるんだけど、来ないか? 平迫マリアも来るって』
平迫マリア――
今は耳にしたくないその名前に、頭の中でふわふわきらきらしていたものが、光を失い重力が加えられたようにざっと全部下に落ちた。
彼女は悠兄ちゃんが読者モデルを始めたころからの雑誌の専属モデルで、今ではトップモデルとして広く活躍している。年は、悠兄ちゃんより二つ上だったと思う。
モデルだけあって背が高くてすらりとしていて、クォーターのせいか少し日本人離れした整った顔立ちが華やかで――まさに、これぞモデルって感じの女性だ。その割には愛嬌があるので最近人気が上がってきていて、テレビのバラエティー番組でもときどきゲストとして顔を見るようになってきている。
『綾、好きだっただろ? 平迫マリア』
そう言われて、悠兄ちゃんが大学生のころ、撮影が重なるときにスタジオに連れて行ってほしいと頼んだことがあったな、と思い出した。
あの頃は、自分も中学生だったし、雑誌の表紙を飾る平迫マリアに純粋に憧れていたけど、今では会いたいほど好きというでもない。むしろ、交際しているという記事を見てからは、嫉妬さえ覚えている。
でも、悠兄ちゃんが五年以上も前の言葉を覚えていてくれたことが嬉しくて、私は「うん」と興味深げに返事した。
携帯電話が鳴って、ディスプレイの表示を確認したとたん、私の心臓は跳ねた。
「綾菜、こんな時間に、誰?」
入浴後のリラックスタイムに、軽やかに鳴った着信音が、自分の携帯電話ではなかったことに苛つきを隠さず、母が柳眉を顰める。
誰かからの電話を待っているのだろう。
小さいながらも貴金属のセレクトショップを経営している母は、たいてい外泊なのに、今日ばかりは明日からの海外買付の準備を兼ねて早い時間に帰宅していた。
私は「うん、大学の友達」と誤魔化して、携帯電話を手に二階の自分の部屋へ駆け上がると、後ろ手に扉を閉めて、もう一度ディスプレイを確認する。
《高橋 悠哉》
心拍数が一気に上昇したのは、階段を駆け上がったからという理由だけではない。
大学在学中に雑誌の読者モデルとなった悠兄ちゃんは、大学卒業と同時に家を出て、今は一人暮らしをしながらそのままモデルとして活躍している。
血が繋がっていないし、離れて暮らし始めてもう五年になるので、なんとなく家族という意識は弱い。たまにこうやって電話が来るけれど、その時に浮かぶイメージは兄と言うよりも、憧れのモデル、"ユウヤ"の方だ。
私は、荒い息と逸る胸を抑えながら、通話ボタンを押した。
『悪い、取り込み中だった?』
電話の向こうの聞きなれた低めのテナーボイスに、私の中のイメージが『ユウヤ』から『悠兄ちゃん』に変わり、緊張がふっと緩む。
悠兄ちゃんから電話があるときは、いつもこう。その声を聞くまで――優しさを向けられるまでは、ドキドキが治らない。
「ううん。そうじゃないけど、……今日、たまたま、お母さんが早く帰ってきてたから」
電話の向こうの悠兄ちゃんは『そうか』と一言低く呟いた。その反応に、母親のことなんて、話さないほうがよかったかなとちょっと後悔する。
悠兄ちゃんと母は、あまり仲が良くない。母が後妻としてこの家に入ったのが、十三年前――ちょうど悠兄ちゃんは中学二年生で、思春期にあたる時期だったからかもしれないけど――実際のところはよくわからない。
『変わったこと、ない?』
「うん、いつも言ってるけど、大丈夫だってば。――それより、どうしたの?」
私は、努めて明るく振舞った。
悠兄ちゃんと母のことは、私が口を挟める問題ではないと知っている。けれど、二人の関係がうまくいっていないことで心を悩ませていると思われたくなかった。
『この間、ケーキ贈ってくれたから、そのお礼。ちょっとバタバタしてて、遅くなってごめん』
バレンタインデーにチョコレートケーキを焼いてプレゼントしたのは、二週間ほど前の話になる。妹の分際で兄の大事なイベントを壊すわけにはいかないと、直接渡したい気持ちを抑えて、クール宅急便で送った。
連絡がなかったから、迷惑だったのではないかと、思い始めていたところだ。
「あ、うん。……わざわざありがとう。迷惑だった?」
『迷惑? なんで?』
「だって――」
彼女とか――そう言いかけて、その言葉を呑み込んだ。
年明けに友達の千尋が教えてくれた、スポーツ新聞の見出しが頭を過ぎったから。正確には『タレントでモデルの平迫マリアに新恋人っ!?』という記事のクリスマスデートの相手として小さく名前が出ただけだけど。
スポーツ紙のゴシップ記事だからどこまで本当かわらかない。けれど、相手が平迫マリアではないとしても、二十七歳の悠兄ちゃんにそういう存在がいるという可能性は十分あって、それを考えただけで、胸の奥から黒いモヤモヤした感情が湧き上がってくる。
『ああ、彼女、とか?』
私があえて言わないでおいたその言葉を、悠兄ちゃんはいとも簡単に放った。
その言葉で、心の中でもやもやしていたものが針状の形を取って、ちくちくと私の心の内側を攻撃し始める。
「う、ん……。一日、ずらせば良かったかな」
『いや、別に、いいよ。毎年のことだし。妹からケーキ貰って嫉妬するような彼女は、いないから』
それは――彼女という存在自体がいないのか、あるいは、彼女はいるけれど嫉妬するような女ではないという意味なのか。
わざわざ問い質すのも、不自然な気がして、私は「そっか」とだけ答えた。
『でさ、――綾、今春休みだろ?』
「うん」
『来週の金曜の夜、出てこられない?』
まるで、デートの誘いのような文句に、やっと納まりかけた心拍数が再び急上昇した。
電話で内緒で話すことはあっても、こうやって外で会おうと誘われるのは初めてだ。
父親と喧嘩して家を出た手前、義父も母も私が悠兄ちゃんとこうして連絡を取ることを嫌がる。
私は、頭の中でお母さんとお義父さんの今週のスケジュールを繰った。
お母さんは、明日から二週間、海外に行く予定。お義父さんは、何もなければ滅多に家に帰ってくることはない。
「たぶん、……空いている、けど?」
というか、大学は春休みで、ほぼ毎日空いている。いや、悠兄ちゃんに誘われたら、予定が入っていてもキャンセルして、悠兄ちゃんを優先させる。
なんて考えてたら、またドキドキがとまらなくなった。
心臓の音が耳の奥まで響いてきて、送話口を通して、悠兄ちゃんに聞こえないか少し心配になる。
『新しい雑誌の創刊記念パーティがあるんだけど、来ないか? 平迫マリアも来るって』
平迫マリア――
今は耳にしたくないその名前に、頭の中でふわふわきらきらしていたものが、光を失い重力が加えられたようにざっと全部下に落ちた。
彼女は悠兄ちゃんが読者モデルを始めたころからの雑誌の専属モデルで、今ではトップモデルとして広く活躍している。年は、悠兄ちゃんより二つ上だったと思う。
モデルだけあって背が高くてすらりとしていて、クォーターのせいか少し日本人離れした整った顔立ちが華やかで――まさに、これぞモデルって感じの女性だ。その割には愛嬌があるので最近人気が上がってきていて、テレビのバラエティー番組でもときどきゲストとして顔を見るようになってきている。
『綾、好きだっただろ? 平迫マリア』
そう言われて、悠兄ちゃんが大学生のころ、撮影が重なるときにスタジオに連れて行ってほしいと頼んだことがあったな、と思い出した。
あの頃は、自分も中学生だったし、雑誌の表紙を飾る平迫マリアに純粋に憧れていたけど、今では会いたいほど好きというでもない。むしろ、交際しているという記事を見てからは、嫉妬さえ覚えている。
でも、悠兄ちゃんが五年以上も前の言葉を覚えていてくれたことが嬉しくて、私は「うん」と興味深げに返事した。
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