表と裏と狭間の世界

雫流 漣。

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監視人集会

悪夢と痣

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十二月二十八日。
…もう師走しわすだな。

カイはベッドに横になりテレビ画面に映し出された街頭インタビューの様子を見ていた。

「年末年始はどのように過ごされますか?」

溌剌としたキャスターの声が、静まり返った殺風景な部屋の中で、無駄に明るく響く。

カイは上の空で、心ここにあらず。

怪しげな骨董品店、
事故現場に居合わせた目撃者。
それ以上、手がかりをどこに見いだせばいいのか。
解明の糸口もつかめぬまま、あと四日で新年を迎えようとしている。次にどんな行動を起こせばいいのか…

リックが意識を失ったあの日から。
灯りの消えた真っ暗な闇の中に放り出されたような心許なさと、片羽をもがれた鳥のような絶望感が、カイを苦しめていた。

…僕は次に何をやれば。

カイは無意識に左手の甲をさすった。
考えごとをするとき、何かに集中するとき、カイは決まってそこをさする癖がある。

赤紫に変色した直径四センチほどの痣。
カイから全てを奪った忌まわしい事故の、生々しい記録がそこにある。
見た目の醜さもさることながら、不幸な記憶を全てその一点に封じ込めたかのようなその傷跡は、まがまがしいを負の力を放っている気さえする。

幼い頃は頻繁に、事故にまつわる夢をよく見たものだった。
激しい衝突、頭に走る熱を帯びた鈍い痛み、顎を鮮血がしたたる生温い感触、麻痺した左手に感じる重み…

ひしゃげた車の残骸に圧迫された左手は、神経が断裂していなかったことと子供の回復力の素晴らしさが幸いし。
普通に使うことができている。
それでも、風邪をひいて寝込んだ晩などには、その傷跡から煤けた悪魔のような生き物や、気味の悪い虫がうじゃうじゃと這い出してくる夢を見てカイは困惑した。

最近になって、カイはまた度々、悪夢を見ることが多くなってきている。
夢の中身はだいたい同じで、決まって悲鳴を上げて目を覚ますことになるのだが。 

度重なる悪夢に眠りを妨げられ、カイの思考能力は目に見えて低下していた。
目の下が落ち窪んでクマが出来ていたし、仕事を休んでいるわりには体に力が入らない。日に日に頭痛もひどくなってきている。

机の引き出しから瓶を出し、アスピリンを2錠、水も含まずに口の中に放りこむ。
早く効き目が表れるようにと、がりがりと嫌な音をたてて薬を噛み砕き…
一気にゴクリと。

痺れる苦さを舌に感じながら、静かに目を閉じた。




場面は変わって。
ここは国外線の旅客機の中。
美しい女が優美な足取りで細い通路をやって来る。
にこやかさを崩さず、乗客への気配りにも余念がない。
ベテランのCAなのは明らかだ。

通り過ぎぎわ、通路側に座っていた乗客の一人が、女性のお尻を触ろうと手を伸ばした。
その瞬間。
ぱっと振り返り、男の手首をつかんでにっこりする美しい女。

「お客様、なにか必要なお品物はございますか?」
背中に目でもついているようだ。

「いや…特に…」
中年男はバツが悪そうに口ごもった。

「さようでございますか。御用ごようの際はなんなりとお申し付けください。良い旅を」

女はそのまま静かに機内のトイレに入り内側から鍵をかけた。
制服のポケットから円形の小さな化粧品を取り出す。
ぱちんとファンデーションを開いて食い入るように鏡を覗き込むなり、女は悪態をついた。

青白い顔。無精ひげ。

どこにでもあるありふれた化粧品についている鏡に、女の姿は映っていなかった。

変わりに…
女のアップが映るべきはずの場所に…

疲れきった表情をした男の姿が映っている。

「情けない男。しかもなに?貧乏ったらしいったらありゃしない」

上半身は裸、ジーンズ一枚のその男は、呆けた仕草で歯磨きしている。

「なかなかどうして色男なのに。覇気がなさすぎるわ…」
女は苦々しく唇を噛んだ。

そのとき気流に呑まれたのか、機体が大きくガクンと傾いた。
続いて一気に下降する。かなり高度を下げたようだ。
エアポケットに入ったのかもしれない。

女は鏡をしまうと大急ぎで仲間のCAの元へ戻って行った。




翌朝、カイの状態は昨夜よりも深刻な状態になっていた。

顔を洗いに洗面室に入ったカイは、思わずギョッとして、自分の姿をまじまじと見つめる。

…まるで吸血鬼に血を吸い取られた男みたいだ。

首筋に噛み傷がないか思わず確認した自分の滑稽さに、カイはふっ、と弱々しく微笑んだ。
生気が失せ、まるで別人。
悪夢が、カイから毎晩少しずつ魂を削ぎ落としているかのごとく、奇妙な錯覚におちいる。

「とにかく街に出よう。引きこもってちゃだめだ」
声に出してハッキリと言ってみる。

カイは蛇口を全開にし、とバシャバシャと水しぶきを上げて顔を洗った。
冬の冷たい水が肌を刺して痛い。
生きていることを確認するように、何度も何度も音を立てて顔を洗う。

恐ろしい悪夢なんか、こうやって。排水口に流してしまえ…

カイは、リックを、リックの生命力と精神の強さを信じてみようと改めて決意していた。

部屋に戻り、シャツの上から、リブ編みのざっくりしたセーターをかぶり鍵を手に取る。
最後に、例の小箱と、引き出しや本棚からひっかき集めて束にしたドル札をコートのポケットに無造作に突っ込んで、カイは見慣れたアパートを後にした。
これから行き着く未来がどんな場所かも知らずに。

ヒイラギ荘を出て五分もたたないうちに、カイは後悔し始めていた。
とにかく寒い。
ひょっとして今年最高の寒さかも…

冷気で凍りついた睫をパチパチさせて、カイは大きく息を吸い込んだ。
一気に温度の下がった肺にちくちくと痛みが走る。
動くたびに関節がギシギシと軋み、骨の芯まで響くような冬の風が心まで凍らせてしまうようだ…

駅前通りは閑散として、いつもの半分ほどしか人がいない。
バスターミナルの一角で客待ちしているのタクシーの鮮やかな黄色がやけに目立って見え、そのターミナルの向こうを数台の車が走り抜けて行った。

行き先も決めず気の向くままに、何本も何本も見知らぬ道を抜けていく。
方向感を失い、カイはいま自分のいる場所が駅の北なのか南なのかすら分からなくなっていた。
右に曲がり、左に曲がりしているうちに、やがてカイは狭い裏通りに行き当たった。
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