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不穏な影
図鑑にない生きもの
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ちょうどその頃。
広い応接間の革張りのソファーに座って、カイは暇を持て余していた。
十五分の間に、壁に飾られた絵画のオレンジの数を何回数えたろう。
昨夜、半月ほどの長期休暇を取れるようオーナーを説得してくれたのは料理長だった。
普段あれほど厳しい、仕事一辺倒な料理長のことだ…真っ先に反対すると思っていたのに。
カイは感謝した。
おかげで本格的に行動を起こすことができる。
ここは、事故の第一発見者
でありリックの命の恩人、
パーカス・ガルネの勤務先。
驚いたことにガルネは、かの有名な『すみれ銀行』の支店長だった。
ボロボロのコートに薄汚れたスニーカーの自分がよくこの応接室に通されたものだ…と思いながら、壁掛け時計を見ると、約束の時間まであと一分を切っている。
カイは姿勢を正した。
正午のチャイムが鳴ったのとぴったり同時に、男が飛び込んできた。
見たところ、四十代半ば。
やけに神経質そうな顔つきのその男は、立ち上がって挨拶しようとするカイを手で制し、
せかせかと真向かいの席についた。
ネクタイの中心がシャツの真ん中と一ミリとたがわずぴったりと合わさっているのを見て、カイは舌を捲いた。
ガルネはカイのジーンズに開いた穴を見て、差し出しかけた名刺をさっと引っ込め…
「ご用件は?」
事務的な口調だ。
「十二月十六日、ガルネさんが第一発見者になった事故のことで、お話を伺いたくて来ま…」
カイは言葉を切った。
「あの…どうかしましたか?」
ガルネの顔が見る見る真っ赤になったのだ。
頬の筋肉がぷるぷる震え、こめかみに青筋が浮き出している。
「帰ってくれ。その件はもう終わりだ」
睨みつけながらガルネがわめき散らす。
「あの……」
「よく覚えておけ。貴様をここに通したのは本意じゃない。
薄汚いなりの怪しい男が行内をうろつくと他のお客様に迷惑だからだ」
なるほどね……
カイは苦笑いした。
「なにを笑っている。知ってるぞ、おまえも私をからかいにきた口だな?いい加減にしてくれ。
頭のいかれた男と太鼓判を押されるのにはうんざりしている。
分かったらさっさと出ていけ!
まったく!クリスマスイブだというのに不愉快だ」
カイはオーウェンの言葉を思い出した。
ほかの警官がみな、彼のように礼儀正しいとは限らない。
あからさまに馬鹿にした人間がいたのかもしれない。
カイは笑ったことを後悔した。
「万が一こんなことが世間に知れてみろ、私は…私はもう…おしまいだ」
ガルネが急に涙声になった。
さっきまで赤かった顔が今度は真っ青になっている。
「あの、ちょっと話を聞いてください」
ガルネはなにも聞く気はないようだった。
「銀行は信用第一だ。頭がおかしいと判断した人間をいつまでも置いておくものか。
私には…養わなくてはならない妻と四人の娘が…」
……変な展開になってきたぞ。
「今まで家族のために必死で頑張ってきたんだ。
なのに…ここまできて路頭に迷ってしまうなんて。
そうなったら家族はバラバラだ。いったい私はどうすればいいんだ」
今やガルネは、テーブルに突っ伏して頭を掻きむしっている。
大の大人が取り乱すのを目の当たりにして、カイはガルネが気の毒になってきた。
「落ちついてください。
路頭に迷うと決まったわけじゃ。それに僕は誰にも話す気はありませんから」
ガルネは顔を上げた。
「では、なにをしに?」
呆けた表情。
「リックは僕の友人なんです」
「リック……川に落ちた若者のことかね?」
うって変わった小さな声。
「はい」
カイは思い切って賭けに出た。
「ガルネさん。リックの事故は…人間の力の及ばない…なにか不思議な、常識では考えられないような現象が絡んでいるんじゃないかと僕は考えています」
「君は…本当に、その……そう思って……?」
(…ガルネが狂人なら)
ガルネの目を真っ向から見据えて頷く。
(…僕だって同じだ)
先に目を背けたのは、ガルネだった。
「怒鳴ってすまなかった」
「君を信じていいものか…
さっき言ったとおり私には守らなければならない家族が…」
蚊の鳴くような声だ。
「僕は真実が知りたいだけなんです」
たっぷり五分も迷ったあげく、ガルネも最後にはやっと折れて、とつとつと話し始めた。
「私はあの日、古くからの友人と一杯飲み屋で酒を飲んだんだ。
十一時を過ぎたので店を出た。
友人と別れ…川沿いに歩いて…橋を渡った。
渡りきって道を曲がろうとしたとき、後ろで音がした」
「どんな音ですか?」
「獣じみた唸り声だ。そして悲鳴が聞こえた。
私は急いで声のしたほうへ走ったよ。
誰かが野犬に襲われたと…そう思って」
(走った?べろんべろんに酔っていたんじゃなかったのか?)
「橋の中ほどに男がいた。
ちょうど街灯の真下だったのでよく見えたよ。
…彼は…手すりに身を乗り出して川を見ていた」
「リックですね?」
ガルネがゆっくりと頷く。
「私は彼が見ているものを見ようと手すりに近寄った。
私と彼との距離は十メートル足らずだったと思う」
ガルネは推し量るようにカイを観察している。
思いあぐねているのだ。
「ガルネさん、大事なことなんです。川の中になにを見たんですか?」
これ以上は言えないというようにガルネが頭を振った。
「教えてください」
「川の中から現れて君の友人を引きずりこんだアレは…要するに、決して図鑑に載るはずがない、そういう類の生き物のはずだ。
私の言う意味が…君、分かるかね?」
カイはごくりと唾を呑んだ。
カチ…コチ…カチ…コチ…
見つめ合ったまま、沈黙。
繊細な顔だちを曇らせて
カイは思いを巡らせていた。
「最後に一つだけ教えてください。その晩、どのくらいお酒を召し上がりましたか?」
「…警官にも聞かれたよ。
正直に言ったが信じて貰えなかった。あいつらは私が樽いっぱいの酒を飲んだと思っているらしいから」
ガルネはとても悲し気だった。
「私が見たもののことを考えたら無理もないがね」
「実際には?」
カイが質問した。
「ビールをグラスにきっかり二杯だ」
「それが事実なら、酔って前後不覚になるなんて考えられませんね」
カイの言葉にガルネの表情が強ばった。
(…僕の直感が正しければ…)
「あなたは、まともな人だ」
カイはきっぱり言った。
ガルネの顔に赤みがさした。
「君は信じてくれるのかね。
本人すら疑いかけた、この、私の頭を」
「もちろんです。それに話していただいて感謝しています」
丁寧にお礼を言い、立ち上がって部屋の出入り口に向かう。
ノブに手をかけ、思い出したようにカイが振り返る。
「あの、ガルネさん。奥さんと四人の娘さんによろしくお伝えください」
ガルネは涙を拭って弱々しく会釈した。
人一倍、真面目な男だ…
とカイは思った。
責任感も強い。
それに。
第一印象に比べてずっとガルネが好きになっていた。
広い応接間の革張りのソファーに座って、カイは暇を持て余していた。
十五分の間に、壁に飾られた絵画のオレンジの数を何回数えたろう。
昨夜、半月ほどの長期休暇を取れるようオーナーを説得してくれたのは料理長だった。
普段あれほど厳しい、仕事一辺倒な料理長のことだ…真っ先に反対すると思っていたのに。
カイは感謝した。
おかげで本格的に行動を起こすことができる。
ここは、事故の第一発見者
でありリックの命の恩人、
パーカス・ガルネの勤務先。
驚いたことにガルネは、かの有名な『すみれ銀行』の支店長だった。
ボロボロのコートに薄汚れたスニーカーの自分がよくこの応接室に通されたものだ…と思いながら、壁掛け時計を見ると、約束の時間まであと一分を切っている。
カイは姿勢を正した。
正午のチャイムが鳴ったのとぴったり同時に、男が飛び込んできた。
見たところ、四十代半ば。
やけに神経質そうな顔つきのその男は、立ち上がって挨拶しようとするカイを手で制し、
せかせかと真向かいの席についた。
ネクタイの中心がシャツの真ん中と一ミリとたがわずぴったりと合わさっているのを見て、カイは舌を捲いた。
ガルネはカイのジーンズに開いた穴を見て、差し出しかけた名刺をさっと引っ込め…
「ご用件は?」
事務的な口調だ。
「十二月十六日、ガルネさんが第一発見者になった事故のことで、お話を伺いたくて来ま…」
カイは言葉を切った。
「あの…どうかしましたか?」
ガルネの顔が見る見る真っ赤になったのだ。
頬の筋肉がぷるぷる震え、こめかみに青筋が浮き出している。
「帰ってくれ。その件はもう終わりだ」
睨みつけながらガルネがわめき散らす。
「あの……」
「よく覚えておけ。貴様をここに通したのは本意じゃない。
薄汚いなりの怪しい男が行内をうろつくと他のお客様に迷惑だからだ」
なるほどね……
カイは苦笑いした。
「なにを笑っている。知ってるぞ、おまえも私をからかいにきた口だな?いい加減にしてくれ。
頭のいかれた男と太鼓判を押されるのにはうんざりしている。
分かったらさっさと出ていけ!
まったく!クリスマスイブだというのに不愉快だ」
カイはオーウェンの言葉を思い出した。
ほかの警官がみな、彼のように礼儀正しいとは限らない。
あからさまに馬鹿にした人間がいたのかもしれない。
カイは笑ったことを後悔した。
「万が一こんなことが世間に知れてみろ、私は…私はもう…おしまいだ」
ガルネが急に涙声になった。
さっきまで赤かった顔が今度は真っ青になっている。
「あの、ちょっと話を聞いてください」
ガルネはなにも聞く気はないようだった。
「銀行は信用第一だ。頭がおかしいと判断した人間をいつまでも置いておくものか。
私には…養わなくてはならない妻と四人の娘が…」
……変な展開になってきたぞ。
「今まで家族のために必死で頑張ってきたんだ。
なのに…ここまできて路頭に迷ってしまうなんて。
そうなったら家族はバラバラだ。いったい私はどうすればいいんだ」
今やガルネは、テーブルに突っ伏して頭を掻きむしっている。
大の大人が取り乱すのを目の当たりにして、カイはガルネが気の毒になってきた。
「落ちついてください。
路頭に迷うと決まったわけじゃ。それに僕は誰にも話す気はありませんから」
ガルネは顔を上げた。
「では、なにをしに?」
呆けた表情。
「リックは僕の友人なんです」
「リック……川に落ちた若者のことかね?」
うって変わった小さな声。
「はい」
カイは思い切って賭けに出た。
「ガルネさん。リックの事故は…人間の力の及ばない…なにか不思議な、常識では考えられないような現象が絡んでいるんじゃないかと僕は考えています」
「君は…本当に、その……そう思って……?」
(…ガルネが狂人なら)
ガルネの目を真っ向から見据えて頷く。
(…僕だって同じだ)
先に目を背けたのは、ガルネだった。
「怒鳴ってすまなかった」
「君を信じていいものか…
さっき言ったとおり私には守らなければならない家族が…」
蚊の鳴くような声だ。
「僕は真実が知りたいだけなんです」
たっぷり五分も迷ったあげく、ガルネも最後にはやっと折れて、とつとつと話し始めた。
「私はあの日、古くからの友人と一杯飲み屋で酒を飲んだんだ。
十一時を過ぎたので店を出た。
友人と別れ…川沿いに歩いて…橋を渡った。
渡りきって道を曲がろうとしたとき、後ろで音がした」
「どんな音ですか?」
「獣じみた唸り声だ。そして悲鳴が聞こえた。
私は急いで声のしたほうへ走ったよ。
誰かが野犬に襲われたと…そう思って」
(走った?べろんべろんに酔っていたんじゃなかったのか?)
「橋の中ほどに男がいた。
ちょうど街灯の真下だったのでよく見えたよ。
…彼は…手すりに身を乗り出して川を見ていた」
「リックですね?」
ガルネがゆっくりと頷く。
「私は彼が見ているものを見ようと手すりに近寄った。
私と彼との距離は十メートル足らずだったと思う」
ガルネは推し量るようにカイを観察している。
思いあぐねているのだ。
「ガルネさん、大事なことなんです。川の中になにを見たんですか?」
これ以上は言えないというようにガルネが頭を振った。
「教えてください」
「川の中から現れて君の友人を引きずりこんだアレは…要するに、決して図鑑に載るはずがない、そういう類の生き物のはずだ。
私の言う意味が…君、分かるかね?」
カイはごくりと唾を呑んだ。
カチ…コチ…カチ…コチ…
見つめ合ったまま、沈黙。
繊細な顔だちを曇らせて
カイは思いを巡らせていた。
「最後に一つだけ教えてください。その晩、どのくらいお酒を召し上がりましたか?」
「…警官にも聞かれたよ。
正直に言ったが信じて貰えなかった。あいつらは私が樽いっぱいの酒を飲んだと思っているらしいから」
ガルネはとても悲し気だった。
「私が見たもののことを考えたら無理もないがね」
「実際には?」
カイが質問した。
「ビールをグラスにきっかり二杯だ」
「それが事実なら、酔って前後不覚になるなんて考えられませんね」
カイの言葉にガルネの表情が強ばった。
(…僕の直感が正しければ…)
「あなたは、まともな人だ」
カイはきっぱり言った。
ガルネの顔に赤みがさした。
「君は信じてくれるのかね。
本人すら疑いかけた、この、私の頭を」
「もちろんです。それに話していただいて感謝しています」
丁寧にお礼を言い、立ち上がって部屋の出入り口に向かう。
ノブに手をかけ、思い出したようにカイが振り返る。
「あの、ガルネさん。奥さんと四人の娘さんによろしくお伝えください」
ガルネは涙を拭って弱々しく会釈した。
人一倍、真面目な男だ…
とカイは思った。
責任感も強い。
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