表と裏と狭間の世界

雫流 漣。

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不穏な影

旅支度

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小鳥がさえずり、ベビーカーを押した母親が散歩している昼ひなた、暗闇の中で黙々と作業をしている老人がいた。

狐火だ。

此処は日の当たらない、暗い地下室。
表の明るさとは裏腹に、明かりは赤々と燃える暖炉の火だけ。

煉瓦敷きの床に丸くなり、羽根ペンを片手にせっせと報告書を書き上げている最中だ。
文字を読み上げたり唸ったりしながら、苦労して空白部分を埋めている。

「ち、また間違えた」

ペン先をインク瓶に突っ込み、丸めた紙を暖炉に放り投げて舌打ち。

ゴーデルにああ言った手前、手抜きはできない。
残った項目を完成させるためには、今週中にもう一度プレアーに会って、最新の彼の近況を書き留めなければならないのだ。

時間がない、急がねば……


『ピ、ピ…ピーピー』

そのとき、台所のやかんが鳴り出した。
蒸気が激しく吹き出している。

無視する狐火。
次第に音が気違いじみてきた。

「いまいましい!」
杖を取り出して呪文を唱えるより早く、やかんの注ぎ口から甲高い悲鳴混じりの声が哀願した。

『ご主人様、なにをピーッ、
する気でっ、ピーッ、ございまピーッ!
そろそろお茶のお時間ピーッ、でピ、ございますピッ』

「黙れ、うるさいわ」
負けじと叫んだ声は無残に掻き消される。

『早くピーッ、吹きこぼれピッ、しまいまピッ、ピッ、ピ、ピピ、ピピピピ!!』

ピーピーの間隔が一気に短くなった。

「黙れケトル。分かった、
分かったわい」

火を消すとようやくケトルは
静かになった。

「ワシを殺す気か」
がんがんするこめかみをさすって憔悴の狐火。
仕方なく紅茶を煎れて、申し訳程度に一口すする。

しばらくして。
狐火は、のそのそと地下から一階、一階から二階へと続く階段を上がっていった。
疲れきって肩でぜえぜえ息をしながら、悪戦苦闘して重たい衣装ケースをいくつか引っ張り出す。

「おお、あったあった。
たぶんこれじゃろ」

ステッカーの埃を払って、嬉しそうに書かれた文字を読み上げた。

人間臭さを強く演出したい時用
お洒落着セット(男物一式)
定価 1750ゼオン

中には藍色でサスペンダー付きのいささか流行遅れのズボン、着古したワイシャツ、
ウールの上掛けと厚手のコート(人間の年寄りは寒がりなのだ)そのほか時計や帽子など細々したものが入っている。

杖で服の上を撫でると、
杖はすーっと手を離れて勝手に毛玉を吸い取り始めた。

(はてさて、あとはどうやってプレアーに会いにいくかじゃな)

鏡廊下は使わないほうが無難だろう。
鏡から出てくるところをプレアー本人に見られたらうまくない。
それに鏡移動をしたらせっかくの一張羅がしわくちゃの台無しになってしまう。

突然、毛玉を詰まらせて、ガーガー愚痴をこぼし始めた杖を しこたま蹴っ飛ばしながら、狐火はぶつぶつ独りごとを言った。

「時間はかかるが、ここはあれじゃな、あの列車とかいう機械に乗ってゆくしかなさそうじゃわい」

人間の乗り物に乗るのは何年ぶりだろう。
狐火は、残りわずかな髪を念入りにブラッシングしてから、いそいそと旅の準備を始めた。
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