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不穏な影
午前三時の訪問者
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「巡回に行ってきます」
仲間の看護婦に声をかけて、ナースステーションを出る。
手に、点滴用の薬液をいくつもぶらさげて。
(あーあ。嫌になっちゃうわ。
クリスマスイブだっていうのになんだって夜勤なんか…)
ため息をつきながらナンシーは最初の病室に向かった。
(この巡回を終えれば、早番と交代して仕事を上がれるわ)
ナンシーはむくんだ足にはっぱをかけて自分を励ますと、次々と雑務をこなして行く。
ぴちゃーん………
……ぴちゃーん
ナンシーは耳をすました。
水の滴る音?
左手の部屋から聞こえているようだ。
表札を見る。
『リック・ガードナー』
(まったくもう…)
扉を開けて病室に入り、室内に完備された洗面室に向かう。
案の定、蛇口が弛んでいたようだ。
ナンシーがきゅっと栓を締めると、雨漏りのような音はぴたりと止んだ。
洗面室を出たナンシーは、ベッドに近寄り、患者に異変がないか確かめ、ポケットから取り出した紙に丸印をつけてから病室を出て行った。
次第にナンシーの足音が遠くなってゆく…
『やっと見つけたぞ』
たった今ナンシーが蛇口を締めたばかりの、誰もいない洗面室から声がした。
と、前ぶれもなく、鏡の表面がぐにゃりと曲がる。
暗闇の中で、芋虫のように右へ左へ身悶えながら、鏡は止まることなく動いている。
ナンシーが見ていたら失神していたことだろう。
鏡に自分のものではない、恐ろしい顔が映っているのだから。
鏡の表面に浮かび上がった顔は、鏡と同じに歪んでいた。
苦悶に喘ぎ、真っ赤な瞳は憎悪に満ちている。
鏡の脈動が激しくなり、ぼやけていた彩度が鮮明になっていく。
そして……
鏡の中から尖った鼻の先端が現れた。
鉤鼻がすっかり表に出ると、狭い額、貧弱な顎と続き、
やがて顔全体が現れてぎょろぎょろと周囲を見渡す。
青白い顔が突然ぱっと引っ込み、鏡は静かに闇を映すだけになった。
次の瞬間、骨ばった細い腕が二本にゅっと突き出し、鏡の縁をひっつかんだかと思うと、薄っぺらい男が頭からぬるりと這い出してきた。
「三面鏡ならもっとすんなり通れたものを」
男は氷のような声でそう言うと、足を引きずって洗面室を出た。
そしてゆっくりとリックの眠っているベッドに近づいて行く…
風もないのに、仕切りのカーテンがさっと開いた。
針金と見間違えそうな細い萎びた指をローブに突っ込み、小ぶりの杖を取り出す男。
その先端をリックの心臓の真上に乗せる。
男が何かつぶやく。
すると、リックの胸に置かれた棒の先から、マッチをこすったときのような、しゅっという音がして、すぐに紫色のもやが現れた。
握り 拳ほどの小さなもやが、渦を巻いている。
台風のように成長し続けているようだった。
やがて。
もやはリックの上半身を覆う大きさまで膨れ上がった。
男がリックの体から杖を離して、杖の先で二、三回掻きまぜると、しゅるしゅると乾いた音がして、もやは紫から鮮やかなスカイブルーに変色した。
「ライファーンは、
主を助けなかったようだな」
男はローブの胸元に杖をしまいリックに顔を寄せて薄気味の悪いしわがれ声で言った。
「無理もない。貴様のライファーンは、もうリアラルにはいないのだから」
くっくっと乾いた笑い声をたて、男は楽しくてたまらない、という様子で靴の踵を打ち合わせる。
そして、スカイブルーのもやに肘まで手を突っ込む。
もやの中を、なにかが逃げるように動き回っている。
それにあわせて、渦巻きが縦に伸びたり横に伸びたりして抵抗しているようだ。
しばらくして、男の顔にぞっとする笑みが広がった。
手を引き抜くと、もやは一気に消滅し、男の手になにか握られていた。
閉じた指の隙間から、細く立ち登る蒸気…
男は舌舐めずりをし(その拍子に、唇がぱっくり裂けて捲れあがった)
ふーっと息を吹きかけて蒸気を払ったあと、ゆっくりと手を開いた。
「き…貴様は…」
男は目を見開いて激しく喘いだ。
その隙に、手からサクランボそっくりの珠が落ちる。
淡く美しいその珠は、ゴム毬のように、ぽーんぽーんと跳ねてベッドの向こう側へ移動して行った。
男はよたよたとよろめいて後ずさり、ショックが過ぎるのを待って体勢を立て直した。
燃えるような目で、ベッドに横になっているリックを睨む。
その間も、珠は強弱をつけて跳躍を続けている。
「たしかに強い想像力を持っている。しかし……」
構えた杖の先端が淡く光った。
「もう用無しだ」
珠が大きく軌道を変えた。
ガシャーン!!!!!
花瓶がなぎ倒され、陶器の割れる音が夜のしじまに響き渡る。
逃げまどう珠。
金属製のロッカーに激しく体当たりし、助けを呼ぶかのように、ガンガンと激しく騒音を立て始めた。
すぐに、廊下を走ってくる足音が聞こえドアの前で止まった。ナースステーションはここから近い。
「運のいい男よ」
珠はリックの体の周りをぐるぐる跳ね回り、胸の上にぴょんと飛び乗ると、すーっと中に吸い込まれて……
出てきたのと同じ場所に消えた。
…と、血の気を失ったリックの頬に赤みが差していく。
ほぼ同時に、ナンシーと入れ替わりで出勤してきたばかりの看護婦が入ってきた。
「誰かいるの?」
電気をつけ部屋中を見回すと、花瓶が割れているのが目にとまる。
「悪ふざけもたいがいにしてほしいもんだわ。
隠れてないで出てらっしゃい」
洗面室、備え付けの浴室、トイレを点検し、最後にベッドの下が空っぽなのを確認した看護婦は、泣きそうな顔をした。
「嫌だわ。私…廊下で誰ともすれ違わなかったのに。気味が悪い」
看護婦は眠っているリックをちらっと見た。
「…とりあえず掃除しなきゃ」
看護婦は手際よく、散乱した破片を集めて片付け始めた。
片付けが終わり、病室を出て行きかけてはたと足を止める。
ロッカーに不自然なでこぼこがある。
(悪ガキが車に小石を投げつけた跡にそっくり)
「なんだかこの部屋、少し寒いわ。空調の故障かしら」
ぶるっと身震いし、体を抱え込むようにして看護婦は病室を出て行った。
仲間の看護婦に声をかけて、ナースステーションを出る。
手に、点滴用の薬液をいくつもぶらさげて。
(あーあ。嫌になっちゃうわ。
クリスマスイブだっていうのになんだって夜勤なんか…)
ため息をつきながらナンシーは最初の病室に向かった。
(この巡回を終えれば、早番と交代して仕事を上がれるわ)
ナンシーはむくんだ足にはっぱをかけて自分を励ますと、次々と雑務をこなして行く。
ぴちゃーん………
……ぴちゃーん
ナンシーは耳をすました。
水の滴る音?
左手の部屋から聞こえているようだ。
表札を見る。
『リック・ガードナー』
(まったくもう…)
扉を開けて病室に入り、室内に完備された洗面室に向かう。
案の定、蛇口が弛んでいたようだ。
ナンシーがきゅっと栓を締めると、雨漏りのような音はぴたりと止んだ。
洗面室を出たナンシーは、ベッドに近寄り、患者に異変がないか確かめ、ポケットから取り出した紙に丸印をつけてから病室を出て行った。
次第にナンシーの足音が遠くなってゆく…
『やっと見つけたぞ』
たった今ナンシーが蛇口を締めたばかりの、誰もいない洗面室から声がした。
と、前ぶれもなく、鏡の表面がぐにゃりと曲がる。
暗闇の中で、芋虫のように右へ左へ身悶えながら、鏡は止まることなく動いている。
ナンシーが見ていたら失神していたことだろう。
鏡に自分のものではない、恐ろしい顔が映っているのだから。
鏡の表面に浮かび上がった顔は、鏡と同じに歪んでいた。
苦悶に喘ぎ、真っ赤な瞳は憎悪に満ちている。
鏡の脈動が激しくなり、ぼやけていた彩度が鮮明になっていく。
そして……
鏡の中から尖った鼻の先端が現れた。
鉤鼻がすっかり表に出ると、狭い額、貧弱な顎と続き、
やがて顔全体が現れてぎょろぎょろと周囲を見渡す。
青白い顔が突然ぱっと引っ込み、鏡は静かに闇を映すだけになった。
次の瞬間、骨ばった細い腕が二本にゅっと突き出し、鏡の縁をひっつかんだかと思うと、薄っぺらい男が頭からぬるりと這い出してきた。
「三面鏡ならもっとすんなり通れたものを」
男は氷のような声でそう言うと、足を引きずって洗面室を出た。
そしてゆっくりとリックの眠っているベッドに近づいて行く…
風もないのに、仕切りのカーテンがさっと開いた。
針金と見間違えそうな細い萎びた指をローブに突っ込み、小ぶりの杖を取り出す男。
その先端をリックの心臓の真上に乗せる。
男が何かつぶやく。
すると、リックの胸に置かれた棒の先から、マッチをこすったときのような、しゅっという音がして、すぐに紫色のもやが現れた。
握り 拳ほどの小さなもやが、渦を巻いている。
台風のように成長し続けているようだった。
やがて。
もやはリックの上半身を覆う大きさまで膨れ上がった。
男がリックの体から杖を離して、杖の先で二、三回掻きまぜると、しゅるしゅると乾いた音がして、もやは紫から鮮やかなスカイブルーに変色した。
「ライファーンは、
主を助けなかったようだな」
男はローブの胸元に杖をしまいリックに顔を寄せて薄気味の悪いしわがれ声で言った。
「無理もない。貴様のライファーンは、もうリアラルにはいないのだから」
くっくっと乾いた笑い声をたて、男は楽しくてたまらない、という様子で靴の踵を打ち合わせる。
そして、スカイブルーのもやに肘まで手を突っ込む。
もやの中を、なにかが逃げるように動き回っている。
それにあわせて、渦巻きが縦に伸びたり横に伸びたりして抵抗しているようだ。
しばらくして、男の顔にぞっとする笑みが広がった。
手を引き抜くと、もやは一気に消滅し、男の手になにか握られていた。
閉じた指の隙間から、細く立ち登る蒸気…
男は舌舐めずりをし(その拍子に、唇がぱっくり裂けて捲れあがった)
ふーっと息を吹きかけて蒸気を払ったあと、ゆっくりと手を開いた。
「き…貴様は…」
男は目を見開いて激しく喘いだ。
その隙に、手からサクランボそっくりの珠が落ちる。
淡く美しいその珠は、ゴム毬のように、ぽーんぽーんと跳ねてベッドの向こう側へ移動して行った。
男はよたよたとよろめいて後ずさり、ショックが過ぎるのを待って体勢を立て直した。
燃えるような目で、ベッドに横になっているリックを睨む。
その間も、珠は強弱をつけて跳躍を続けている。
「たしかに強い想像力を持っている。しかし……」
構えた杖の先端が淡く光った。
「もう用無しだ」
珠が大きく軌道を変えた。
ガシャーン!!!!!
花瓶がなぎ倒され、陶器の割れる音が夜のしじまに響き渡る。
逃げまどう珠。
金属製のロッカーに激しく体当たりし、助けを呼ぶかのように、ガンガンと激しく騒音を立て始めた。
すぐに、廊下を走ってくる足音が聞こえドアの前で止まった。ナースステーションはここから近い。
「運のいい男よ」
珠はリックの体の周りをぐるぐる跳ね回り、胸の上にぴょんと飛び乗ると、すーっと中に吸い込まれて……
出てきたのと同じ場所に消えた。
…と、血の気を失ったリックの頬に赤みが差していく。
ほぼ同時に、ナンシーと入れ替わりで出勤してきたばかりの看護婦が入ってきた。
「誰かいるの?」
電気をつけ部屋中を見回すと、花瓶が割れているのが目にとまる。
「悪ふざけもたいがいにしてほしいもんだわ。
隠れてないで出てらっしゃい」
洗面室、備え付けの浴室、トイレを点検し、最後にベッドの下が空っぽなのを確認した看護婦は、泣きそうな顔をした。
「嫌だわ。私…廊下で誰ともすれ違わなかったのに。気味が悪い」
看護婦は眠っているリックをちらっと見た。
「…とりあえず掃除しなきゃ」
看護婦は手際よく、散乱した破片を集めて片付け始めた。
片付けが終わり、病室を出て行きかけてはたと足を止める。
ロッカーに不自然なでこぼこがある。
(悪ガキが車に小石を投げつけた跡にそっくり)
「なんだかこの部屋、少し寒いわ。空調の故障かしら」
ぶるっと身震いし、体を抱え込むようにして看護婦は病室を出て行った。
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