コンウェルシオの悪魔

雫流 漣。

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物乞いの願い

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戦争で左腕の肘から先を無くしたホームレスが階段に座ってギターを奏でている。反転させたギターの弦を右手で押さえ、左足の親指と人差し、中指と薬指を器用に使って爪弾くが、目もろくに見えていない様子。かなりの老人だ。

道行く人々の大半は老人から目を逸らして通り過ぎて行く。
ごくまれにアルミの皿に数枚の硬貨を投げ込む者もいるにはいたが、切れた弦もある、そんなギターでの演奏など聴けたものではない。
男は弱者だった。

孤独とは、慣れさえすれば気楽なもの。身寄りはないが、余計な制約を受けないですむ。世間体を気にしたり恥をかかせる相手がいないからこそ、俺も伸び伸びとこんな生業ができるわけだしな。

秋の高い空を見上げて老人は目を閉じる。

仲間もみんな死んじまった。俺が死んでも泣く者はいねえ、本当にクソみたいな人生だ。だが、まったくなんだっていうんだろうなあ… 
思い返しゃ、それなりに楽しかったじゃねえか。 

吹き抜ける風の感触を味わい、回想する。人の世の儚さに老人は笑った。


コンウェルシオには分かっていた。この男から契約は取れない。契約する必要があるとすれば、唯一苦しみからの回避だが…
この老人は雪の朝、苦しむことなく眠ったまま逝くからだ。

それにしてもこの男の目…どこかで見たことがあるような…


コンウェルシオは老人に語りかけた。
老いぼれはさして驚いたふうもなく「やっとお迎えがきたようだな」と言ったきり、大の字になって眠ってしまった。


コンウェルシオは老人のもとに通いつめることにした。面白そうな人間だし、いい暇つぶしになる。

だが、男は淡々と同じ毎日を繰り返すだけで特に興味をひく行動は見あたらない… 

時は穏やかに移りゆき、12月になった。冬の訪れは、ホームレスには悲報である。また今年も、厳しい季節が到来したのだ。

いつものように階段のたもとに腰掛け、日課の演奏を始めるが、足の指がかじかんで上手くいかない。
アスファルトに裸足は冷たく、しもやけが腫れて弦にひっかかってしまう。寒さで感覚を失いつつある指の皮が、いつのまにか剥けて血が滲んでいる。

今日は商売にならねぇな。

悲嘆に暮れるでもなく、男は道具を麻袋にしまい始めた。

そのときどこからか可愛らしい拍手の音が聞こえてきた。
霞む目で周囲を見回す老人。

拍手の主は5才くらいの、小さな女の子だった。くりくりとした大きな目が特徴的。とても利発そうな子だ。


「おじいちゃん、スゴいのね。そんな素敵な足があるなんてうらやましい」
屈託のない無邪気な声。

男は不器用ににっこりした。
「なんだ、お嬢ちゃんこんな老いぼれを誉めてくれるのかい?」

「だって素敵だもの。わたしの足、そんなことできないわ」

「今日は寒くていけない。上手くひけなくてすまないね。暖かい季節ならもう少しまともなギターを…」

「知ってる」
少女の目がキラキラしている。
「春に引っ越してきたの。そのときから毎日ずっと聴いてるわ。あたしおじいちゃんのギター大好き。そういうのを、ファンって言うんですって!ママが言ってたわ」


老人は面食らった。こんな老いぼれのはすっぱな曲芸を、気にかけ、楽しみにしていてくれる存在が、まだこの世にあったとは…

コンウェルシオが階段の手すりに腰掛け、愉快そうに二人の様子をうかがっている。

手を振り去っていく少女の影を、失いつつある視力でぼんやり見つめながら男は涙ぐんだ。





その夜。
むしろに横たわった老人がコンウェルシオに話しかけてきた。

「おまえさん、そこにいるんだろ?」

会話はいつもコンウェルシオからの一方通行、こんなことは初めてだった。

「頼みがある。おまえさん、死に神かなにかだな?」

「我は断じて死に神などではない」
コンウェルシオが苛々しながら返す。

「俺は物乞いだが、なんにも欲しかねぇんだ。本当に、何一ついらねぇ」

「それは理解している。要求が微塵も無い輩は契約に応じない」


「欲しいものはねぇ。むしろ捨てることになるだろうな、この願いが叶ったとしたらな」
静かに、噛みしめるように言う老人。

「なんなりと望みを言ってみるがいい」 

「俺のたった一つの願いはな……」

そして契約は成立した。


それから男が亡くなるまでの三週間、コンウェルシオは一度も老人の前に姿を見せなくなった。
無事に契約さえ取れれば、人間の暮らしぶりなど、知ったことではない。ましてやひと月も経たずにあの男は死ぬのだ。契約した途端、コンウェルシオは老人に興味がなくなった。悪魔というのは変わり身が早いものなのだ。 

少女と老人は友達になった。老人は自分の生きてきた人生を少女に語り、少女は老人に心を開いた。老人は幸せだった。いつまでもこの日々が続けばいい…
いつまでも。



やがて約束の朝が来た。その日は前夜から恐ろしいほどの大雪で、街は氷点下を切る寒さ。

コンウェルシオは静かに老人の死を看取った。男は生まれてきたときと同じように、一人きりで孤独に死んで行った。


雪がやみ、暖かい陽射しが街に降り注ぐ。溶けかけた雪の隙間から、薄汚い、壊れたギターが顔を覗かせている。
その横を、母親と手をつないだ小さな女の子が通り過ぎた。ひしゃげたアルミの皿もある。

「あら何かしら?これ」

「なにかなぁ?アン、わかんない!ママ~そんなことより早くお買い物に行こうよ~!」

親子は、振り向きもせず広場へ続く階段を登って消えて行った。



「老いぼれよ…主の願いは叶えたぞ。それにしても…」


飛び立ったコンウェルシオが、上空からさっきの親子を見下ろしている。

「人間とは不可解なものだ…まるで理解ができぬ」
困惑顔のコンウェルシオ。


「あの子に泣いてほしくねぇんだ。俺が死んだら、アンが俺を忘れますように」
老人はそう願ったのだ。

あの目…
慈愛に溢れる、あの眼差しだ…


悪魔は憂鬱を振り払うように首を振り振り、飛び去った。
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