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動乱編

113 モルゲン奪還

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サイラスを追い返したアーロンは、穏やかな顔を一転、険しくした。傀儡術で操っている部下の視界を通じて、外の様子――ウィリス側の奇襲は既に感知している。アーロンとてすぐさま街の背後にいる自軍に人を走らせ、応戦の指示を出した。数の上ではアーロン側が勝っている。ウィリス側の奇襲は無駄に終わるだろう。

メドラウドの竜騎兵がついていなければ。

苛立ちを露わに策を練るアーロンの元に、部下が駆けこんできた。
「アーロン様!お逃げ下さい!ここは危険です!」
混戦模様に動揺したのだろう。経験の少なそうな若い兵士だ。
「慌てるな。この建物には強固な結界を張ってある。落ち着いて」
アーロンが皆まで言い終わらぬうちに、大きな破砕音が部屋を揺さぶった。
「?!」
まさか…。強固な結界が張ってあるのだ。それにこの結界を力押しで破れるほどの魔法使いたる少女は、アーロンの手の内にある。なぜ…?と目を見開くアーロンに、追い打ちをかけるように若い兵士は悲鳴のように告げた。
「結界が…砕かれました!」

◆◆◆

「牧羊犬って知ってる??」
あのイカレた王女サマはそんなことを言って嗤った。
あのふざけた命令を遂行したのは、イライジャのオッサンだ。例のピンクのウサギカチューシャをつけられた中年商人は、虚ろな目で最強の農具武器を敵であるベイリン兵の元に届けた。そして、戻ってきたイライジャからカチューシャを回収した王女サマは…

「《マスターたる我が喚ぶ……命亡き骸よ、今こそ冥府より蘇り、我が眷属に下れ!我が力を与えよう…暗黒召喚!!》」
詠唱したのは、悪しきネクロマンサーの呪文。呼応して、周囲に幾つもの紅く輝く魔法陣が浮かび上がり。次いで、土を押しあげて何百、いや何千もの生ける屍がその悍ましい姿を現したではないか。
ネクロマンサー自体は別に珍しくもない。けれど、これほどの規模の術を展開するのが、ほんの少女とは…。膨大な魔力を操作する彼女の瞳は、金色に輝いていた。
(聞いたことがある。魔力が馬鹿みたいに高い人間の瞳は金色なんだと…)
「これでも、『本編』ヒロイン&一流魔術師交配した『サラブレッド』なんだよねぇ…私」
フリッツの内心を見透かしたような台詞に、ハッと我にかえる。
「おい?!アンタ…何をっ」
狼狽するフリッツをよそに、腐臭を漂わせて近づいてきたアンデッドたちに、王女サマは箱の中のウサギカチューシャをばら撒いた。
「つけなさい」
命じられるがまま、カチューシャを装着するゾンビども。

ピンクのウサギカチューシャを装着したアンデッド軍団。

シュールだ。

「さぁ…。ベイリン経由でモルゲンに行くよ?」
ニヤリと笑い、王女サマは幌馬車から馬を外した。
「私たちは、言わば『ハンドラー』。アンデッドたちは『牧羊犬』よ」
そして、牧羊犬の仕事は『羊』を追うこと。
「アンタ…まさか」
呆然とするフリッツに、王女サマ――エヴァは、能面のような顔を向けた。
「大切な人のためなら、例え汚いことだろうが残忍なことだろうが、躊躇わないよ。私、人でなしなんだ」
平坦な声で言って。
「ねぇ…知ってる?ただの人間を、『狂戦士バーサーカー』にする方法」
そして、モルゲンの戦局をひっくり返す方法を。

◆◆◆

歴史上、よく見かける戦術がある。
その戦術…いや戦法は、精鋭部隊を温存しつつも敵方にある種の恐怖を与える。
かのスルタンが用いたそれを例に挙げよう。
かのスルタンが前線に置いたのは、名ばかりの同盟国の兵士たち。その後に、スルタンの最強の親衛部隊『イェニチェリ軍団』を置く。

そして。

彼らに抜刀させ、前線に配置した同盟国の兵士たちの背後に置く。
そして、号令とともに前線の兵士に敵の攻撃を命じる。命じられた兵士たちは、走るしかない。逃げれば問答無用で背後の『イェニチェリ軍団』に殺される。生き残るには、前へ進むしかないのだ。例え向かう先が、堅牢な三重の城壁としても。城壁の上から矢の雨が降ろうと、殺されても殺されても前へ――鬼の形相で城壁をよじ登る狂った兵士たちは、敵に言い得ぬ恐怖を与えたという。

◆◆◆

結界が崩された。

アーロンは与り知らぬことだったが、先頭を走るウサギカチューシャアンデッド数十匹が大量破壊兵器たる魔道具で市街地をランダムに爆破したことが原因だった。

部下に促され、アーロンは何とか領主の屋敷から脱出した。サイラスの事が気にかかったが、自身が死んでは元も子もない。それに、巻き返せるだけの軍隊はすぐそばに置いているのだ。見た限り、メドラウドの竜騎兵もさほどの数ではない。上を取られているのは不利だが、押し返せないこともないだろう。
そんなアーロンの考えは、味方の元へ向かう道半ばで消し飛ぶことになる。

なぜならば…

東の方角から押し寄せる土埃。ちょうどアーロンの領がある方角だ。そして土埃の中から姿を現したのは、何故かベイリンの鎧を着た兵士たちだった――いや、それだけではない。
「なっ…なんだアレは?!」
望遠鏡を覗く部下が頓狂な声をあげた。
「貸せっ」
部下の手から望遠鏡をひったくって覗いた先には…

武器を持って走る兵士に混じって、明らかに武装していない者までいる。その数、目視できるだけでも数千……皆、必死な形相で猛然とこちらに走ってくる。その後に黒っぽい一団が仄見えた。
「あれは…アンデッド?!」
そこでようやくアーロンは理解した。彼らが夥しい数のアンデッドに追われているということを。
…よくよく見ればアンデッドが全員ピンクのウサギカチューシャをつけていたり、追われている人間が息切れしたり転んだりすると、追いかけてきたアンデッドが彼らをおんぶして走っていたりするのだが……幸か不幸かアーロンはそんな細かいことには気づかなかった。
「アーロン様!ここは危険です!」
言われてハッとする。望遠鏡で見えるのだ。間もなくあの集団は、ここに辿り着く。部下に促されて急ぐアーロンだったが、いささか遅すぎた。彼がモルゲンの市壁の背後に控える自軍に匿われる前に、その恐怖に追われた集団にアーロンたちに迫ってきた。そして、運の悪いことに、集団の先頭にいたのは最強の農具武器を与えられ、騎乗した兵士たちで。悍ましいアンデッドから逃げたい一心の彼らに、己の主を見分ける冷静さなど残っていなかった。アーロンを護ろうとした部下が、大声で止めようとしたのもダメだったろう。憐れな部下は恐怖に駆られた味方の兵士に斬り捨てられてしまった。アーロンもまた、自軍が背後にいたがために皮肉にも逃げ場がなく、咄嗟に結界を張ったものの、呪印付農具武器に結界を砕かれ、彼もまた味方の兵に殺された。そして、死体は馬に次いで大勢の領民たちの足で無残にも踏み潰されてしまった。

そして――

指揮官を喪ったベイリンの大軍は、アンデッドに追われた味方の兵士や領民と混戦に陥り、また彼らを追ってきたアンデッド軍団を見てさらなるパニックに陥った。
整然と整った部隊はどこへやら。
彼らが味方同士で斬り合っている間に、モルゲン市街にウィリス兵がなだれ込み、あっという間に制圧した。竜騎兵の突撃によりあちこち崩れ落ちたモルゲン領主の屋敷から、ベイリンの旗が引きずり下ろされ、モルゲン男爵の旗がはためいた。

モルゲンは、ついに奪還されたのだ。
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