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動乱編

104 湖の悲劇

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遥か昔。
そこは小さな泉だった。清廉な水がこんこんと湧き出す泉。
急峻な不毛の岩山の麓に湧いた貴重な水場は、道をゆく旅人にとっては命の水といっても差し支えなかった。
時が経ち、いつしか水場に小さな祠が建てられ、人が集まり、やがて旅人に宿を提供する小さな宿場ができた。そして…宿場はやがて発展して小さな街に。その頃、古い祠は小さな神殿へと姿を変えていた。水の精霊を祀る小さな神殿。どうかこの命の水が涸れることなく、人々に恵みをもたらしますように――。
そして時は流れ。
捧げられた数多の祈りが『彼女』を作った。慈悲深き水の化身――オンディーヌを。清廉な祈りが形になった彼女は、街が発展し、交通の要衝と呼ばれる頃には、さらにその存在を確かにした。小さかった泉は大きくなり、粗末だった神殿は白亜の宮殿が如く。街の人間は、皆神殿に通い、彼女に祈りを捧げた。彼女もまた、人々に水の恵みを与え――共に在れる、ハズだった。
けれど…
彼女は知らなかった。人間が欲に弱い生き物だと。祈りを捧げるからといって、かの生き物が決して清廉とは言い難いことを。
きっかけはそう…かの街の王を名乗っていた人間の娘が連れてきた一人の男。王の娘に愛を囁くその男もまた、彼女の神殿を訪れて祈りを捧げていった。
しかし…平和な時はその男が来て以来、脆くも崩れ去った。
王の一族が次々に謎めいた落命を遂げ、挙げ句その街に敵の大軍が攻めてきた。唯一生き延びた王の娘は、すぐさま軍を編成し迎えうった。街の北で合戦の砂煙が巻き上がる。けれど、それは敵の策謀だった。街の守備軍を引きつけている間に、敵は護りの薄くなった市壁を突破し、街の中に雪崩れ込んだ。戦える男を外に出した街には、戦えない女子供ばかりが残っていた。
雪崩れ込んだ軍勢は、略奪と殺戮に明け暮れた。逃げ遅れた者は無残に殺され、道は血に染まり、家々には火が放たれた。

嗚呼!どうか我らに死を!
辱められるよりは死を与えたまえ!!

神殿まで逃げ延びた者は、彼女に願った。王の娘もまた。

あの男は敵の間者であった!
アレに堕ちた我も愚かであったが、あの男だけは赦せぬ!
願わくば敵ごと、あの男ごと奈落の底に葬りたまえ!!
我らの魂を捧ぐ!
願いを聞き届けたまえ!!

彼女は願いを受け入れた。
地が鳴動し、巨大な裂け目が現れた。王の娘を先頭に、人々は次々に真っ黒な裂け目に身を投げ――やがて裂け目は街を、かつての王の玉座に我が物顔で座る男ごと、その口に呑み込んだ。

そして、人間はいなくなった。

今や湖となった泉は、もはや清廉な地ではなくなった。身投げした女たちをその内に抱き、呪いの睡蓮を浮かべる『悪食の沼』になり果てた。かの泉の周りは、瘴気に惹かれたのか、禍々しい魔草が繁る暗い森に姿を変え、いつしか『魔の森』と人々から恐れられるようになった。

◆◆◆

「せぇーのっ!」
ブルーノ様達と無人の民家の床板を剥がし、軽く下の土を掘り返すと、中から木箱の蓋が姿を現した。確か、この箱には魔石を隠してあったはず。
「ギャッ」
悲鳴に振り向くと、従者さんが血に染まった指で泣きそうになっていた。床板のささくれで切ったのかな。
「井戸があるんで、洗いましょう」
とりあえず彼を連れて、井戸まで移動する。
「大丈夫ですよ。すぐ血も止まりますって」
安心させるように彼に笑いかけて、水を汲み上げた時。
「おい、サイラス。そいつは…」
一緒に来たモルゲン兵が険しい顔でこちらに駆けてくる。
「?」
まあ、とりあえず彼の手当てが先かな。血が渇きかけた指先を水で洗って、手持ちの傷薬を塗って…
「おい、なんか来るぞ!」
原野に近い民家から、作業をしていた別のモルゲン兵――ハンスさんが飛び出してきて、私は急いで膝にぶら下げた短刀を抜き、原野に目をやった。
「兵士?」
こちらに駆けてくるのは、騎馬隊のようだ。でも、見慣れた敵の軍隊とは纏う鎧が違う。
「まさか、援軍!?」
私の元にすぐさまブルーノ様も走ってきた。
「この鎧は…ネーザルか?!」
「援軍なんですか?ブルーノ様?」
私の問いにブルーノ様は戸惑いながらも肯いた。やった!ついに援軍が来たんだ!
「おおーい!!」
近づいてくる騎馬に私は大声で手を振った。
(味方のフリをして少年を捕らえろ)
と、背後の従者が暗号で彼らに指示を出しているとは想像もせず。

◆◆◆

嗚呼……何故呼びかけに応えないのか、我がつまよ。

我はおまえを王にするため、蘇生させ、力を貸したのに。
人間とは、穢れた生き物だ。
だから、我の穢れを被るに調度いい。
おまえがこの穢れを受けてくれるのなら、我は以前の清廉な存在に……

その存在すら、今は危うい。

あの小僧の言葉は、腹立たしいことに当を得ていた。我が力は無尽蔵ではない。

元々『祈り』から我は生まれたのだ。『祈り』が力の源だった。

嗚呼……応えよ。契約者にして我が夫よ。

◆◆◆

騎馬隊がニマム村に到着した。ブルーノ様は、すぐさまリーダーと思しき兵士の元へ行き、何やら話している。私の後ろには、怪我の手当を終えた従者さんが無表情に騎馬隊を見上げている。そこへ、モルゲン兵たちも駆けてきて、

次の瞬間

ドオオン、と地が鳴動した。覚えのある冷気が辺りを満たす。これは…!

湖?!

そして、間髪を入れず地が割れ、びっしりと牙の並んだ奈落がいくつも、その口を開けた。
「なっ…!みんな逃げろっ!!」
ギシギシと音を立てて、水車小屋がひしゃげて地に吞まれていく。他の民家も同様だ。木が裂ける音と砂埃を上げて倒壊してゆく。
「おいっ!湖、やめろぉ!!」
叫んでも、奈落の口は止まらない。あっという間に騎馬隊が、馬ごと奈落に喰われた。
「うわあぁぁ!!」
「ウェズリーさん!」
口に吞まれる従者さんに必死に手を伸ばし…包帯を巻いた彼の手が私の左手を掴みかけたものの、鱗を隠すために巻いていた包帯に掠っただけで、真っ黒な裂け目に彼の身体は落ちていった。

なんでっ…!なんでっ!

視界の端に見えたのは、モルゲン兵の鎧と、荷車。
「ハンスさん!マシューさん!!」
叫べど現状は変わらない。彼らも…

くそっ!湖が止まらない!!

湖に訴えてもダメだ。一人でも助けないと…!私は身を翻した。ブルーノ様!!
数メートル先で、彼は必死に口のバケモノから逃げていた。けれど、波打つ地面に足を取られ…
「ブルーノ様!!」
今度こそ彼の腕を掴んだ。
「捕まって下さい!!今、引き上げます!」
右手だけでは支えきれない。私は、左手も彼へ伸ばした。さっき従者さんが包帯を引きちぎってしまったため、肘まで黒い鱗に被われた左手を。
「ッ!放せ!この、バケモノッ!」
シュッと鋭利な先端が左手を掠めて。
「あ…」
ブルーノ様の手には、血のついた短刀があって。私を睨む彼の顔には、明白な怯えと嫌悪があって。

手が離れた。

地が波打ち、家も人もすべてを食い尽くす――最後の一人も。兄のように慕っていた方を呑み込んで…
「うわああああ!!!」
慟哭は、地鳴りの轟音に掻き消された。
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