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少年期編
18 睡蓮の湖
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そこは大きな美しい湖だった。澄んだ水色の湖面にはいくつもの丸い葉が浮かび、薄紅色の睡蓮が咲いている。なぜだろう。目を奪われるほどの美しい光景なのに、背筋が寒くなる。
「サイラス…俺、喉渇いた」
ゼイゼイと肩で息をするリチャードが、湖を指し示す。私だって散々走って喉はカラカラだ。でも…。神経を研ぎ澄ます。微かに、微かにだけど…
「やめろリチャード!中に魔物がいる!」
グイッと腕を引いて、水を飲もうとしたリチャードを止めた。微かにだが、湖の方向がゾワッとするのだ。リチャードも少し遅れてソレに気づいたらしい。警戒するように湖から離れ、凪いだ水面を睨む。
「とにかく、村に帰ろう。」
キョロキョロと道を探す。いつもの道からさほど離れてはいないと思うのだが…。
「道、迷ったか…?」
「探してみよう。」
ひとまず近くの木に持っていたリボン――オフィーリアお嬢様からいただいたもの。結局売らずじまいだった――を目印代わりに結びつけ、湖のまわりを回ってみることにした。
サイラスとリチャードがその場から離れてしばらく経って。湖面に漣がたった。水紋が薄紅色の睡蓮たちを揺らす。さやさやと風が吹いて、サイラスが木に結びつけたリボンを揺らした。
――女の子…?
と、誰かが言ったような気がした。
◆◆◆
道を探してみてよかった。しばらく歩くうち、踏みしめられた道を見つけた私とリチャードは、半刻ほどで知った道に出ることができた。そこからは、まっすぐ村を目指して歩き続け、なんとか日が高い内に村に帰れたのだった。
「すまない、サイラス。俺の我が儘で危険な目に遭わせた。」
さすがに責任を感じたらしく、リチャードが私に謝った。
「いいよ。強く止めなかった俺も俺だし。」
森を甘く見ていたのは私も同じ。グラートン――森の怖い部分を知れただけ良しとしよう。なんとなくだけど、森とは長いつきあいになりそうだしね。私はからりと笑った。そんな私をしばらく見て、リチャードは言いづらそうに俯いた。
「俺…サイラスが羨ましかったんだよ。年下なのに俺より魔力あるし、鍛錬だって飲み込みが早い。だから…」
格好いいところ、見せたかった。そう告白して肩を落とすリチャード。うん、気持ちはわかるよ。
「俺はまだまだだった。だから…」
リチャードが皆まで言い終わる前に。
「もうっ!サイラス!リチャード!どこで遊んでたのよ!」
ぷんすか怒ったシェリルに見つかった。
森に入ったことは、バレていないみたいだ。ともかく、私は平静を装って「ごめ~ん、遊んでた」と白状し、へにゃりと笑ってみせた。
◆◆◆
それから数日して、アイザックたちがモルゲンから帰ってきた。
「あなたにお土産ですよ」
ヴィクターに何かの包みを渡された。今までお土産なんてもらったことなかったんだけど…急にどうした?包みを開けてみると、革のマントがでてきた。くたびれてる感からして、新品を買ったわけではなさそうだ。大枚をはたいていないとわかってひと安心。……すっかり節約、ド庶民性が身についちゃったな~
「ヘクター殿からいただきました。息子さんのお下がりですよ」
と、ヴィクター。ニマム村のヘクター爺ちゃんからか~
「羽織ってみるといい」
アイザックに言われて着てみると、少し丈が長いけど今からでも使える。それに…着てみると、体型が適度に隠れるね。飾り気がない分実用的なデザインで、寒いと前を留められる。形的には、ポンチョタイプのレインコートの前の部分だけが短い感じ。胸まですっぽり隠れる仕様だ。まさかとは思うけど、それを考えて?いや…まさかね。たまたまだよ、たまたま。
「今日から使えるな」
「なかなか似合っていますよ」
まるで我が子におニューの服を着せた親みたいな和んだ雰囲気で褒められた。あー。なんか複雑な気分。「本物の親子じゃねぇよっ!」と、ひねくれ者の『私』が心の中で突っこんでくる。
「ありがとう。大事に使うよ。」
でも、私のためにもらってきてくれたんだ。かわいくないことを喚くひねくれ者に猿轡を噛まして、私はニパッと笑った。…いや、点数稼ごうとかじゃないし、猫かぶりでもないよっ!純粋な!好意に………見えるように。
…二人から頭ナデナデされました。なんだかな~。
アイザックが他の大人達のところへ行った後で、ヴィクターが私をちょいちょいと手招きした。
「?」
近寄ると、隠すようにコソッと小さな包みを押しつけられた。
「誰も見ていないところで開けなさい。捨ててはいけませんよ」
囁くように言いつけて、離れていくヴィクター。なんだ?と思って、早速その夜、皆が寝た後で包みを開けてみた。………月のもの対策用品でした。叫んでいいですか。
◆◆◆
ヴィクターの『お土産』のせいでろくに眠れなかった。いや、ありがたいよ?月のものについて頭からすっぽり抜けていたことも認めよう。でもっ!でもぉ~!!私は女子なんだよぅ!中身アラサーなんだよぅ!男の人(それも若い男の人)からソレをプレゼントされるってどうなの…。たぶん、今の私は昨日のリチャード以上に精神的ダメージを喰らってるよ。え?文句言っちゃダメ?わかってるよ!!
フラフラと着替えて、もらったマントを羽織る。うあ~、ヴィクター帰ってきたから朝は鍛錬の時間なんだよ。気まず~い……。死んだ魚の目で、家を出ようとしたらアイザックに呼び止められた。
「サイラス、森に行くから支度しなさい」
「…わかった」
朝からどうしたんだろう。
◆◆◆
いつものように弓矢を持っていくと、
「サイラス、今日からこっちにしなさい」
別の弓矢一式を渡された。ちゃんと子供用の弓だけど、奇妙な模様が描かれている。なんだこれ?
「その弓の文様は、魔法の威力を高めるものだ。万が一魔物に遭遇した時にはその弓でないと話にならない」
「へぇ…」
ともかく、新しい弓矢を背負ってアイザックに続いて森に入った。アイザックと私の二人。他に同行者はいない。アイザックはどんどん森の奥に進む。そして…
「あ」
道の端に転がっていたのは。リチャードの背負い籠とジャイアントラーバのブヨブヨ皮。ブヨブヨ皮の方は、水分を失ってすっかり萎びていた。そうだ、グラートンが出たとき、背負い籠を放り出して逃げたから…。よくよく見れば、グラートンの足跡や爪痕、薙ぎ倒された低木――ここで何があったのかを雄弁に教えてくれる。アイザックは籠を拾いあげると、ヒョイッと肩に担いだ。
「森へ…子供だけで入ってはいけないよ」
全部バレている。でも、アイザックは村に帰ってきてから森に入っていないのに…
来なさい、と言われて黙って後に続く。そして辿り着いたのは…
「ここ…!」
睡蓮咲き誇る美しくも寒々しい湖。目を見開く私を凪いだ表情で見て、アイザックは近くの木に歩み寄る。その木に結びつけてあった紅いリボンを解いて、私の手に乗せた。
「忘れ物だ」
「なん、で…?」
こんな道からも外れたところ。しかも、リボンを結んだ場所を迷うことなく一発で…。口の中がカラカラに渇く。初めて、目の前の男に寒気を覚えた。籠はたまたま見つけたとしても、私がここに来たことなんて気づけるはずがなのに…
「…ウィリス湖。村人たちは『悪食の沼』と呼んでいるね。」
静かな声音でアイザックが湖を示した。
「おまえの行動は正しかった。でも…。アレは魔物ではないよ」
アイザックが指したのは、美しく咲き誇る睡蓮たち。感覚を研ぎ澄ませれば…やっぱり微かにゾワゾワする。よくないモノ、とだけはひしひしと感じるのだ。
「昔話をしようか。サイラス、そこに座りなさい」
近くの石を示され、私が座るとアイザックも近くの倒木に腰かけた。
◆◆◆
昔々、何百年も昔。立派な街がありました。街道の中ほどの街は、多くの人々で賑わっていました。
しかしある日、戦が起きてこの街にも敵兵が攻め入ってきました。街道の中ほどにあったため
街には富が集まっていたのです。不幸なことに、その時の街にいたのは、大半が女や子供でした。男たちは戦に出ていて、いなかったのです。街になだれ込んだ敵兵は、略奪の限りを尽くしました。抵抗するものは容赦なく殺され、女子供たちにもその手は及びました。辱めを受けるよりは死を、と女たちは祈りました。すると、突然石畳が割れて、奈落の底のような真っ暗な闇が口を開きました。
おお、神は我らが願いを聞き届けて下さった…!
歓喜した女たちは、次々に奈落に身を投げました。やがて、奈落はその口を広げ、悪事を働く敵兵ごと街を呑み込みました。
戦で街道は荒れ果て、いつしか辺りは深い森になりました。街があったことも忘れ去られ、百年が経った頃。森に一人の騎士がやってきました。そして森の奥に、睡蓮咲くそれはそれは美しい湖を見つけました。喉の渇きを覚えた騎士は、湖の水を飲もうと湖畔に近づき、両手に水を掬おうとしました。すると、それまで美しく咲いていた睡蓮が幾本もの白い手にその姿を変え、騎士を捕らえようと伸びてきたのです。慌てて騎士が飛びのくと、湖の上に妖しいまでに美しい女が現れました。騎士は目を瞬きました。女はまだうら若い娘なのに、着ている服は百年以上前に流行ったずいぶん古い形のものだったからです。女は騎士に、ここに以前街があったこと、戦で滅んだことを話しました。咲き誇る睡蓮は、かつて奈落に身を投げた女たちの化身であることも。女は言いました。おまえは街の生き残りの子孫だったから助けた。しかし、この湖は悪食の沼。決してこの地の秘密を暴いてはならない、と。そこまで騎士に告げると、女の姿はかき消えて、幾本もの白い手も消えていました。その後は、薄紅色の睡蓮だけが儚げに湖面に揺れているだけでした。
◆◆◆
「見てごらん、サイラス」
倒木から腰を上げ、数歩。アイザックが指差す地面。白っぽい石がいくつも顔を出しているのを、私は食い入るように見つめた。これ…自然の石じゃない。ひび割れてたり欠けたりしているけれど、みんな同じ四角い形。石畳だっていうのか?!見れば白い石は、まるでそこに道があったかのように点々と草むらの向こうに続いていた。
「おとぎ話じゃないの…?」
目を瞠る私に、アイザックは淡く微笑んだ。
「おまえがここに来たと、湖が教えてくれたよ」
「え…?」
「リボン――女の子が迷ったから助けた、とね」
「!!」
目を限界まで見開いている自覚がある。息が上手くできない。心音が耳もとで大きく響く。
今、なんて…!?
狼狽する私を凪いだ瞳で見下ろして、アイザックは他人事のように言った。
「サイラス…ウィリス村の領主は、湖と約束するんだ。この湖を静かに眠れるようにする、とね。決して戦も争いも、湖を――森を騒がせてはならない。私は、森の周辺に住む人間の代表として、湖と契約しているんだ。もし、人間が森で争うようなことがあれば、湖は契約者を殺すだろう。それでも争いが収まらねば、かつての街のように村ごと奈落に呑み込まれる。ここはそういう土地だ。おまえも私の息子となったからには、この定めを引き受けることになる」
もうそろそろ、おまえにも教えた方がいいかもしれないね。と、アイザックは柔らかな声音で言った。
理解が追いつかない。アイザックは私が女だと気づいていて、でもアイザックの息子の定めとも言っていて…。アンタの意図がわからないよ…
「これは契約者だけの秘密だ。他の村人に漏らしてはならない。村人には森の奥の湖には近づいてはならないとだけ言ってある。近づいた愚か者は、湖に引きずりこまれるから戻ってこない。リチャードは命拾いをしたね」
寒気のするようなセリフを吐きながらも、その口調は優しかった。
「定めに従う覚悟ができたなら、この湖におまえの血を捧げなさい。おまえは、湖に気に入られるだろう」
まだバクバクと暴れる心臓を持て余す私の背を「さあ帰ろう」と押して、アイザックは湖に背を向けた。去り際、ひんやりした風が身体を撫でるように吹きすぎていった。
◆◆◆
村に帰ると、アイザックは私をリチャードの親父――狩人のところへ連れて行った。
「サイラスにこの弓の扱いを教えてやってくれ」
「あいよ。来な、サイラス」
リチャードと同じ金髪に燃えるような紅目の熊みたいに大柄なオッサンがニタリと笑った。
「馬鹿息子もろとも鍛えてやる」
こっちもバレてるんだな。……勝てる気がしない。
「サイラス…俺、喉渇いた」
ゼイゼイと肩で息をするリチャードが、湖を指し示す。私だって散々走って喉はカラカラだ。でも…。神経を研ぎ澄ます。微かに、微かにだけど…
「やめろリチャード!中に魔物がいる!」
グイッと腕を引いて、水を飲もうとしたリチャードを止めた。微かにだが、湖の方向がゾワッとするのだ。リチャードも少し遅れてソレに気づいたらしい。警戒するように湖から離れ、凪いだ水面を睨む。
「とにかく、村に帰ろう。」
キョロキョロと道を探す。いつもの道からさほど離れてはいないと思うのだが…。
「道、迷ったか…?」
「探してみよう。」
ひとまず近くの木に持っていたリボン――オフィーリアお嬢様からいただいたもの。結局売らずじまいだった――を目印代わりに結びつけ、湖のまわりを回ってみることにした。
サイラスとリチャードがその場から離れてしばらく経って。湖面に漣がたった。水紋が薄紅色の睡蓮たちを揺らす。さやさやと風が吹いて、サイラスが木に結びつけたリボンを揺らした。
――女の子…?
と、誰かが言ったような気がした。
◆◆◆
道を探してみてよかった。しばらく歩くうち、踏みしめられた道を見つけた私とリチャードは、半刻ほどで知った道に出ることができた。そこからは、まっすぐ村を目指して歩き続け、なんとか日が高い内に村に帰れたのだった。
「すまない、サイラス。俺の我が儘で危険な目に遭わせた。」
さすがに責任を感じたらしく、リチャードが私に謝った。
「いいよ。強く止めなかった俺も俺だし。」
森を甘く見ていたのは私も同じ。グラートン――森の怖い部分を知れただけ良しとしよう。なんとなくだけど、森とは長いつきあいになりそうだしね。私はからりと笑った。そんな私をしばらく見て、リチャードは言いづらそうに俯いた。
「俺…サイラスが羨ましかったんだよ。年下なのに俺より魔力あるし、鍛錬だって飲み込みが早い。だから…」
格好いいところ、見せたかった。そう告白して肩を落とすリチャード。うん、気持ちはわかるよ。
「俺はまだまだだった。だから…」
リチャードが皆まで言い終わる前に。
「もうっ!サイラス!リチャード!どこで遊んでたのよ!」
ぷんすか怒ったシェリルに見つかった。
森に入ったことは、バレていないみたいだ。ともかく、私は平静を装って「ごめ~ん、遊んでた」と白状し、へにゃりと笑ってみせた。
◆◆◆
それから数日して、アイザックたちがモルゲンから帰ってきた。
「あなたにお土産ですよ」
ヴィクターに何かの包みを渡された。今までお土産なんてもらったことなかったんだけど…急にどうした?包みを開けてみると、革のマントがでてきた。くたびれてる感からして、新品を買ったわけではなさそうだ。大枚をはたいていないとわかってひと安心。……すっかり節約、ド庶民性が身についちゃったな~
「ヘクター殿からいただきました。息子さんのお下がりですよ」
と、ヴィクター。ニマム村のヘクター爺ちゃんからか~
「羽織ってみるといい」
アイザックに言われて着てみると、少し丈が長いけど今からでも使える。それに…着てみると、体型が適度に隠れるね。飾り気がない分実用的なデザインで、寒いと前を留められる。形的には、ポンチョタイプのレインコートの前の部分だけが短い感じ。胸まですっぽり隠れる仕様だ。まさかとは思うけど、それを考えて?いや…まさかね。たまたまだよ、たまたま。
「今日から使えるな」
「なかなか似合っていますよ」
まるで我が子におニューの服を着せた親みたいな和んだ雰囲気で褒められた。あー。なんか複雑な気分。「本物の親子じゃねぇよっ!」と、ひねくれ者の『私』が心の中で突っこんでくる。
「ありがとう。大事に使うよ。」
でも、私のためにもらってきてくれたんだ。かわいくないことを喚くひねくれ者に猿轡を噛まして、私はニパッと笑った。…いや、点数稼ごうとかじゃないし、猫かぶりでもないよっ!純粋な!好意に………見えるように。
…二人から頭ナデナデされました。なんだかな~。
アイザックが他の大人達のところへ行った後で、ヴィクターが私をちょいちょいと手招きした。
「?」
近寄ると、隠すようにコソッと小さな包みを押しつけられた。
「誰も見ていないところで開けなさい。捨ててはいけませんよ」
囁くように言いつけて、離れていくヴィクター。なんだ?と思って、早速その夜、皆が寝た後で包みを開けてみた。………月のもの対策用品でした。叫んでいいですか。
◆◆◆
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フラフラと着替えて、もらったマントを羽織る。うあ~、ヴィクター帰ってきたから朝は鍛錬の時間なんだよ。気まず~い……。死んだ魚の目で、家を出ようとしたらアイザックに呼び止められた。
「サイラス、森に行くから支度しなさい」
「…わかった」
朝からどうしたんだろう。
◆◆◆
いつものように弓矢を持っていくと、
「サイラス、今日からこっちにしなさい」
別の弓矢一式を渡された。ちゃんと子供用の弓だけど、奇妙な模様が描かれている。なんだこれ?
「その弓の文様は、魔法の威力を高めるものだ。万が一魔物に遭遇した時にはその弓でないと話にならない」
「へぇ…」
ともかく、新しい弓矢を背負ってアイザックに続いて森に入った。アイザックと私の二人。他に同行者はいない。アイザックはどんどん森の奥に進む。そして…
「あ」
道の端に転がっていたのは。リチャードの背負い籠とジャイアントラーバのブヨブヨ皮。ブヨブヨ皮の方は、水分を失ってすっかり萎びていた。そうだ、グラートンが出たとき、背負い籠を放り出して逃げたから…。よくよく見れば、グラートンの足跡や爪痕、薙ぎ倒された低木――ここで何があったのかを雄弁に教えてくれる。アイザックは籠を拾いあげると、ヒョイッと肩に担いだ。
「森へ…子供だけで入ってはいけないよ」
全部バレている。でも、アイザックは村に帰ってきてから森に入っていないのに…
来なさい、と言われて黙って後に続く。そして辿り着いたのは…
「ここ…!」
睡蓮咲き誇る美しくも寒々しい湖。目を見開く私を凪いだ表情で見て、アイザックは近くの木に歩み寄る。その木に結びつけてあった紅いリボンを解いて、私の手に乗せた。
「忘れ物だ」
「なん、で…?」
こんな道からも外れたところ。しかも、リボンを結んだ場所を迷うことなく一発で…。口の中がカラカラに渇く。初めて、目の前の男に寒気を覚えた。籠はたまたま見つけたとしても、私がここに来たことなんて気づけるはずがなのに…
「…ウィリス湖。村人たちは『悪食の沼』と呼んでいるね。」
静かな声音でアイザックが湖を示した。
「おまえの行動は正しかった。でも…。アレは魔物ではないよ」
アイザックが指したのは、美しく咲き誇る睡蓮たち。感覚を研ぎ澄ませれば…やっぱり微かにゾワゾワする。よくないモノ、とだけはひしひしと感じるのだ。
「昔話をしようか。サイラス、そこに座りなさい」
近くの石を示され、私が座るとアイザックも近くの倒木に腰かけた。
◆◆◆
昔々、何百年も昔。立派な街がありました。街道の中ほどの街は、多くの人々で賑わっていました。
しかしある日、戦が起きてこの街にも敵兵が攻め入ってきました。街道の中ほどにあったため
街には富が集まっていたのです。不幸なことに、その時の街にいたのは、大半が女や子供でした。男たちは戦に出ていて、いなかったのです。街になだれ込んだ敵兵は、略奪の限りを尽くしました。抵抗するものは容赦なく殺され、女子供たちにもその手は及びました。辱めを受けるよりは死を、と女たちは祈りました。すると、突然石畳が割れて、奈落の底のような真っ暗な闇が口を開きました。
おお、神は我らが願いを聞き届けて下さった…!
歓喜した女たちは、次々に奈落に身を投げました。やがて、奈落はその口を広げ、悪事を働く敵兵ごと街を呑み込みました。
戦で街道は荒れ果て、いつしか辺りは深い森になりました。街があったことも忘れ去られ、百年が経った頃。森に一人の騎士がやってきました。そして森の奥に、睡蓮咲くそれはそれは美しい湖を見つけました。喉の渇きを覚えた騎士は、湖の水を飲もうと湖畔に近づき、両手に水を掬おうとしました。すると、それまで美しく咲いていた睡蓮が幾本もの白い手にその姿を変え、騎士を捕らえようと伸びてきたのです。慌てて騎士が飛びのくと、湖の上に妖しいまでに美しい女が現れました。騎士は目を瞬きました。女はまだうら若い娘なのに、着ている服は百年以上前に流行ったずいぶん古い形のものだったからです。女は騎士に、ここに以前街があったこと、戦で滅んだことを話しました。咲き誇る睡蓮は、かつて奈落に身を投げた女たちの化身であることも。女は言いました。おまえは街の生き残りの子孫だったから助けた。しかし、この湖は悪食の沼。決してこの地の秘密を暴いてはならない、と。そこまで騎士に告げると、女の姿はかき消えて、幾本もの白い手も消えていました。その後は、薄紅色の睡蓮だけが儚げに湖面に揺れているだけでした。
◆◆◆
「見てごらん、サイラス」
倒木から腰を上げ、数歩。アイザックが指差す地面。白っぽい石がいくつも顔を出しているのを、私は食い入るように見つめた。これ…自然の石じゃない。ひび割れてたり欠けたりしているけれど、みんな同じ四角い形。石畳だっていうのか?!見れば白い石は、まるでそこに道があったかのように点々と草むらの向こうに続いていた。
「おとぎ話じゃないの…?」
目を瞠る私に、アイザックは淡く微笑んだ。
「おまえがここに来たと、湖が教えてくれたよ」
「え…?」
「リボン――女の子が迷ったから助けた、とね」
「!!」
目を限界まで見開いている自覚がある。息が上手くできない。心音が耳もとで大きく響く。
今、なんて…!?
狼狽する私を凪いだ瞳で見下ろして、アイザックは他人事のように言った。
「サイラス…ウィリス村の領主は、湖と約束するんだ。この湖を静かに眠れるようにする、とね。決して戦も争いも、湖を――森を騒がせてはならない。私は、森の周辺に住む人間の代表として、湖と契約しているんだ。もし、人間が森で争うようなことがあれば、湖は契約者を殺すだろう。それでも争いが収まらねば、かつての街のように村ごと奈落に呑み込まれる。ここはそういう土地だ。おまえも私の息子となったからには、この定めを引き受けることになる」
もうそろそろ、おまえにも教えた方がいいかもしれないね。と、アイザックは柔らかな声音で言った。
理解が追いつかない。アイザックは私が女だと気づいていて、でもアイザックの息子の定めとも言っていて…。アンタの意図がわからないよ…
「これは契約者だけの秘密だ。他の村人に漏らしてはならない。村人には森の奥の湖には近づいてはならないとだけ言ってある。近づいた愚か者は、湖に引きずりこまれるから戻ってこない。リチャードは命拾いをしたね」
寒気のするようなセリフを吐きながらも、その口調は優しかった。
「定めに従う覚悟ができたなら、この湖におまえの血を捧げなさい。おまえは、湖に気に入られるだろう」
まだバクバクと暴れる心臓を持て余す私の背を「さあ帰ろう」と押して、アイザックは湖に背を向けた。去り際、ひんやりした風が身体を撫でるように吹きすぎていった。
◆◆◆
村に帰ると、アイザックは私をリチャードの親父――狩人のところへ連れて行った。
「サイラスにこの弓の扱いを教えてやってくれ」
「あいよ。来な、サイラス」
リチャードと同じ金髪に燃えるような紅目の熊みたいに大柄なオッサンがニタリと笑った。
「馬鹿息子もろとも鍛えてやる」
こっちもバレてるんだな。……勝てる気がしない。
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megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。
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