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CHAPTER.5 蒙昧な透明(モウマイナトウメイ)
§ 5ー4 惑星ラクト④ 黒き魔女
しおりを挟む--ルベリエ・第2行政区プリュネ医院--
鼻につく消毒剤の匂い。一定間隔でピコンピコンと鳴る電子音。知|らない感触のベッド。無意識に瞼を開くと白い天井があった。視界の左にある点滴の袋を眼球を動かし捉えると、それが自分の左腕に細いチューブで繋がっていた。背中、首、腰、腕、脚と体のあらゆる部位に痛みがあり、指すら震えて自由に動かない。
生きている……。何が起きたのか思い出せない。ただ何か大事なものを失った余韻だけが残っていた。
次に目を覚ましたとき、ベッドの横には心配そうにこちらを伺うマリウスがいた。「アイサ!」とその一声の後、目には涙を浮かべていた。
「わ、たし、は、? どう、し、て?」
思うように声が出ない。
「ホントに、本当に良かった、アイサ……。キミが目覚めなかったらボクは……」
彼の浮かべていた涙がベッドのシーツに水玉模様を描く。彼の後ろのテーブルには腕が置かれてある。何、あれは? とぼんやり眺めていると、それは義手であることが分かった。そして、あの日のこと、彼のことが記憶に蘇る。
それから1週間。私は病院のベッドの上で過ごした。幸い、大きな怪我も傷もなかったので、日に日に痛みも引いていき身体の調子は戻っていった。
マリウス曰く、あの日、宇宙ステーションからのエレベーターで降りてきた私は気を失っていたらしい。既に制御が怪しくなっていたエレベーターは地上に到着する際に十分な減速がされずに乱暴に地上に落下した。私は多くの人と一緒に雪原に放り出された。
そこに、事前にエレベーターで降りていた人が呼んだ救助隊が運良く現れて、簡易処置後にルベリエのこの病院に運び込まれたというあらましだったとのことだ。気を失いながらも義手は両腕で抱えていたらしい。
私のことなんかより、世界の状況の方が深刻だった。惑星アディアからの核は、ラクトの地表を殺した。12ある地下コロニーは、5つは壊滅し地中に沈んだ。残り7つも致命的な打撃を受けていた。中央コロニーであるこのルベリエは、比較的被害が少なかったが、惑星ラクトの全人口の半数以上が死亡または行方不明になった。その数、6,000万人以上。それだけの人が10日あまりで命を絶った。
また、宇宙ステーションも全て崩落し、地上の空は汚染物質を含んだ黒い厚い雲に覆われた。
私たちは太陽の光を浴びることができなくなったのだ。
数百年にも及ぶプログラムの結果、私たちは太陽を再び失った。また、それ以上に軌道衛星の3重電磁膜がなくなってしまったことで、この星の寿命が決まってしまったのだ。ラクトの軌道修正はもうできない。自転の調節ができなくなったことで、アディアとの対消滅を防ぐ手立てが無くなったのだ。
対消滅まで残り5カ月……。
もう滅びは避けられない。でも、諦めない。私はあの天才科学者のおじいちゃんの孫なんだ。私が諦めたらこの世界の未来はない……
♦ ♦ ♦ ♦
--ルベリエ・第1行政特区リュミエール--
1週間の入院生活を終え、私は自室に戻りおじいちゃんの研究ノートを読み返していた。何度も、何度も、何度も、何度も……きっと、おじいちゃんならこの事態も予想していたはずだから。読み返す度に目に入るあの言葉。何度も読んでいるうちに妙な違和感を覚える。
【私は転送後の世界を見れないだろう……】
もしかしたら、今の状況を予想していたのではないか? と疑念を持つ。【見られない】ではなく【見れない】と綴ったのは、プログラムの先のこの惨状を見たくない、という意味だったのではないか。そう読み取ったとき、おじいちゃんですらこの最悪の状況を打開する手を考えつかなかったのではないかと額に冷たい汗をかく。それでも……、それでも、何かあるのではないかと灯りのない夜の航海を続ける小舟のように、暗中模索を繰り返す。
…………
そんなあてどない思考の輪をぐるりぐるりとしていた1週間。世界の闇は濃く深くなり続けていた。食糧の奪い合い、性犯罪の横行、輪っかにしたロープで首を飾りゆらゆらする影、病院で血を流しながら、血を流しきった者の横で順番を待つ幼児……、こんな光景が日常になっていた。
マリウスの忠告もあり、私は職場である研究所に住処を移していた。政府の施設なだけあって、非常食の備蓄や警備の厳重さでひとまずの安全は保たれていたからだ。
そんな失意と苦悩の数日をさらに幾日過ごした後、研究所にマリウスが訪れた。「ちょっと連れていきたところがあるんだ」と手を強く掴み、2人乗りの電気自動車に乗せられた。「どこに行くの?」と尋ねても「アイサ、どうかこれから見るものは内密で頼むよ」と荒れた道を慎重に運転する。
着いた先は、行政特区にあるリュミエールと呼ばれるガラス張りのビルだった。コロニーの天井まで続くその構造物は、司法と行政に関わる施設だと知らされている。
「ここに何があるっていうの? マリウス」
「ついてくれば分かるよ……」
もったいつけた言い回しにさすがにやきもきする。敷地内への入口、玄関ロビー、奥へ進んだ大きなドアの前と幾重にも張られたセキュリティチェックを通り過ぎると、エレベータールームに到着する。それは地上へのエレベーターほどに頑強な作りをしており、施設内を移動するためのものでないのはすぐにわかった。
「これは?」
「乗ればわかるよ。見せたいものはその先にあるから」
知らないことは恐れを産む。唾を飲んで、彼の後についてエレベーターに乗る。搭載人数が20人ほどのエレベーターはウィーーーンと唸り出し上へと動き出す。このまま地上まで登るのかと思うほどの時間が経過した後、減速を始めエレベーターは止まった。
ドアが開き、さらに警備員のセキュリティを通り過ぎたその先にそれはあった。地上に近いのか冷気を孕んだ冷ややかな空気の中に。
「これを見せたかったんだ、アイサ。この希望をね」
私は肌寒さとは別のものに震える。
「これが、大型巡航艦アヴニールだよ、アイサ」
その巨大な旧文明の遺産が、あのとき選択できなかった私にまた選択を迫る罰になるとは、このときは知る余地もなかった。
♦ ♦ ♦ ♦
--ルベリエ地表・中継施設アントル--
私たちは滅ぶだろう。
あの悪魔どもが巣くう星と衝突して対消滅をするのが先か、行き場のないこの地獄で力尽きるのが先か、どっちでも同じことだろう。
寒さを和らげるためにか弱く揺らめく薪。曇った窓から見える昼間のはずなのに仄暗い景色は、絶望の色を深める。おじいちゃんはきっとこうなることが分かっていたんだろう、と思う。研究ノートの理論はすでに完成されていたのに、おじいちゃんはプログラムを実行しなかった。いや、実行したくなかったのだ。
呼吸に苦しみ、息つぎするために水の中から顔を出したみたいに、スノードロップの花がか細く咲いていた。
「『希望』か……。あなたが教えてくれたのよね? ソルト」
血の匂いがこびりついた硬いベッドで眠る彼に微笑みかける。彼の血の匂いが私の血の匂いを隠してくれる。あなたはこんなになっても私に優しいのね。血の通っていない彼の右腕をさする。
私はこの星を滅ぼした愚者として最後まで生きなければならない。
涙なんておこがましいのは解っている。それでも、あなただけがそんな私を許してくれる。
こんな私の最後の望み。
最後のそのときまで彼と一緒に……
--6週間前--
マリウスの話だと、あのアヴニールと名付けられた宇宙船には1000人規模の乗船が可能で、数年の巡航でも生活できるように設備と物資がすでに準備されているとのことだ。
評議会が長年、秘密裏に管理していたもので、プログラム失敗時の備えとして秘匿されてきた。
科学力のすべてを搭載したこの船で、この星と対をなす星アディアに向かう。そして、あの星の人類への報復と新たな生存圏での再建をなす。そんな横暴で醜い最後の希望。差し出した手をピストルで撃つような核での攻撃をされては致し方ないのかもしれない。
「一緒に乗るんだ、アイサ。一緒に行こう」
その提案は、彼の私への好意によるところもあるのだろう。しかし、私は素直に受け入れられずにいた。ソルトを失った悲しみはもちろんある。世界を絶望させた恨みもある。それでも、私は報復なんて野蛮なことで未来を手に入れることに抵抗があった。おじいちゃんはそんなものを望んでいたはずがないのだから。
--5週間前--
「ごめんなさい、マリウス。私は行けない……」
「アイサ、どうしてなんだ! ここまで来て。ボクはこの先もキミと一緒にいたいんだ! キミも同じじゃないのか!?」
「う、うぅ……。私だってあなたと一緒にいたい。もうあなたしかいないの。でも……、でも、私は行けない。この星をこんなふうにしてしまったのは私だから……」
「キミだけのせいじゃないだろう! キミの理論にみんな納得していた。それに、もとはキミのお祖父さんであるアルベルト=シャハル博士の理論じゃないか」
「おじいちゃんは、おじいちゃんは私の全てなの! おじいちゃんのせいだと言うなら、それは私のせいなの!」
「アイサ……。どうしても、一緒に来てくれないのかい……」
「ごめんなさい、マリウス。でも、あなたを愛してるわ」
巡航艦アヴニールの出航する日。船の前まで来た私は、赤い指輪を彼に返し、彼と一緒には行かないことを選択した。彼が居なくなれば私には誰もいなくなる。それでも私はマリウスとは異なる選択肢を選んだ。
それはアディアに呼びかけ続けること。無責任な選択だ。事態が改善する見込みなど何もない。それでも、同じ姿・形をしたアディアの人類なら、分かってもらえると信じたかった。コンタクトさえ取れれば、豊かなあの星の資源とこの星の科学力を合わせれば対消滅を防げる希望はあるはずだから。
決意のもと、マリウスにサヨナラを言いに来た。残された管制室の窓から旅立つアヴニールを見送る。メインエンジンが点火し艦体が浮き上がる。少しずつ浮上し、開いた地上のハッチから旅立っていく。氷と雪の大気を切り裂き、人類の希望のために飛び去っていく。
さよなら、マリウス……
別離の挨拶を送ったときだった。空を覆う黒い雲が虹色に光り出す。それは瞬く間に視界の全てを色づけた。視界が歪み、耳鳴りがしだす。頭の中が以上な熱さで血管が破裂したような耐え難い痛みが走る。そのまま視界は暗転し、暗闇の中意識が途切れた……
チリチリチリチリ……。電気機器がショートしているような音で意識が戻る。しかし、視界はぼやけ、耳鳴りはまだ続いている。気持ち悪さで吐きそうだ。
それでも必死に周りを見渡すと管制室にいた他のスタッフも倒れていることに気づく。モニター類は赤く明滅しており、室内の蛍光灯もチカチカしていた。
よれよれと立ち上がり窓から空を見上げる。空を覆う黒い天蓋に映る7色の光は、生き物のようにうねり蠢いている。その天蓋の下、船首から落下し始めた物体を見つけた。アヴニールだ。歪む視界でも、あの艦のメインエンジンが作動していないことが見て取れた。
壁に寄りかかりながら必死に脚を動かし、ぼやける視界で通信用のマイクに叫ぶ。
『こちら管制室。アヴニール! アヴニール! 応答してください。ねぇ! アヴニール!!』
自由落下していく金属の塊から応答がない。
なんで! と通信装置に目を落とすと電源がついていなかった。
もう! と電源を入れようとしても入らない。
どうして? 周囲を見渡すと、すべての機材の電源が落ちている。チカチカしていた蛍光灯も消えている。窓の外も電気機器と思われるものは、その機能を停止または正常ではない挙動をしていた。
酷い頭痛が思考を妨げる。窓の外。落下を続ける巡航艦。マリウス……
どうしよ? なんで? 逃げて!
遠い氷河の山脈の影に落ちたアヴニール。次の瞬間、その山脈を遥かに超える雪煙が巻き上がった。
頭痛と耳鳴りが感情すら鈍化させる。
苦痛を堪えて叫ぶ。
浮かぶ言葉は1つだけだった。
「マリウス……マリウス! ……マリウス……」
叫び声と呼ぶには弱々しい悲鳴。
見つめていた窓の外は、気味の悪い7色の層雲が舞い散る雪の結晶を煌めかせていた。
--4週間前--
巡航艦アヴニールが墜落してから3日間、謎の現象が続いた。生きるだけで精一杯だった3日間。永遠に続くかと思う頭痛に苛まれ、何を口にしても吐いてしまう気持ち悪さにつき纏われ、それでもなんとか水だけでも喉を通した。眠りにもつけず、アブニールの整備場にあった仮眠室のベッドで、医務室で運よく見つけた鎮痛剤を飲み続けて痛みが無くなることだけを切に願って苦しみ続けた。
心が壊れる寸前のところで、その現象が唐突に終わる。私はただ『救われた』と心から感謝してしまった。今にして思えば、それがどれほどお門違いなことかと怒りで全身が震える。残された人類を、私を、マリウスを、無慈悲に苦しめた相手に感謝をしてしまったことに……
すっかり痩せ細って情けない体になっても生き残った私は、3日の間どうしても喉を通らなかった食料を貪り、泥のように眠り、目覚めて水を行儀悪く飲み漁ったところでようやく頭が回るようになった。
この現象は強力な電磁波によるもの。400年前に地下コロニー通しで争いが起きた時に使われて、その後すべてのコロニーの評議会によって使用を禁じられた超レンジによる電磁波兵器。それをアディアの人類たちが私たちに対して使用したのだ。
私は補給した水分がまた枯れるほど涙を流し、マリウスの死をここでようやくちゃんと悲しむことになった。
--3週間前--
やっと動けるようになった私は、ルベリエに戻った。
戻るためのエレベーターが動いてくれたのは、そのつくりがなによりも強固で緻密で安全性に富んだものだったからだろう。
そこで今回のこの電磁波による被害の実態を目の当たりにすることになる。
街並みは変わっていない。ただ、暗く音が無かった。
電気で動くものはその機能を停止させていた。
生のあるものは存在しなかった。
ただ、腐敗と焦げた匂いが充満していた。
地下コロニー内に侵入した電磁波は、その作られた空洞内で反響し、干渉し、その効果を強めたのである。その結果、ルベリエは生き物が住める環境ではなくなった。他の地下コロニーも同じだろう。
心が壊れた。
--2週間前--
私は地上へ向かうエレベーターに乗っていた。数少ない生き残りと共に。
私は非常用の薄明りの中、腐臭漂うルベリエをただ歩いた。無意識に帰巣本能が働いたのだろう。私は半日かけ自分の研究施設まで夢遊病者のように力無く歩いた。何度もなにかに足を取られ転びながら。
研究施設の自分が寝泊まりしていた一室。微かに非常灯がともる部屋でも匂いがするのは、自身の身体に染みついてしまったからだろう。電化製品は使えないが、水道が使えたのは幸いだった。タオルを濡らして無心で身体を拭いた。匂いが取れるまで何度も、何度も、何度も。
息を吸って、水分を取って、非常食を取る。匂いは取れたはずなのに、身体を拭く。意識を失うように浅い眠りを繰り返す。
ただ生きてるだけ。
そんな数日を過ごしたとき、外から音がした。それは声。人の声。孤独の寒さが融解し、声の主を探し部屋を飛び出す。窓から外を見ると、そこには人がいた。瞳が潤む。
『誰かー! 誰かいませんか! 生き残ってる方はいませんかー!』
「ここよ! 私はまだ生きてるの!!」
窓を開け、しわがれた声で、入らない力で腕を振る。
彼らはルベリエの生き残り。他にも数十人の生存者がおり、まだ助かる人がいないか探していたらしい。私は荷物をまとめ、彼についていくことにした。もう一人でいることに耐えられなかったから。
--1週間前--
私たちが何をしたのだろう。
神など信じたことなどなかった。私は科学の道を選んだから。
それでも、思わずにはいられない。不条理で、無情な世界は、何者かの意思によるものなのではないかと。
ルベリエと宇宙ステーションの中継地点として地上に配備された中継施設アントル。この施設には、簡易的だが一通り人が生活できる設備が整っている。あの電磁波の影響で電気機器はほぼ使い物にならなかったが、地上であったことが地下に比べれば多少被害を軽減させていた。
この施設は特に医療設備に重点が置かれている。それは、宇宙と地下を行き交えば体や精神に異常をきたす者がどうしても生じてしまうからだ。それらの点から、この施設内での先日の電磁波による死者数は0人だった。
私は中継施設に着いても、何もする気力が出なかった。避難してきた者たちは、各々施設内にスペースを見つけて座り込む。
泣き声、叫び声、怒声、独り言……
まるで死を迎えるまでの懺悔をする猶予を与えられたように、感情の奥底にある想いと対面させられる。私が対面していたのは、おじいちゃん、ソルト、マリウスが主だった。順番に何百回も、何千回も謝る。ごめんなさい、と。
そんな抜け殻のような時間を過ごしていると、自分が生き残ったことすら間違いなのではないかと思いだす。
死ぬのは私の方が……
死ぬべきなのではないか……
死にたい……
そんなときだった。轟音と閃光が通り過ぎる。分厚い小窓から見えた景色に、あの光が目に入る。そう、核の光だ。
氷雪の大地がまた削られていく。振動と爆風と電磁波が駆け抜ける。中継施設アントルは猛威に晒される。窓ガラスが割れ、施設の一部が崩れ、残り僅かな人々はさらに死傷していく。
僥倖だと思った。神の天罰が到来し、罪深き私を裁いてくれるのだと。
「ちょっと、あなた!」
虚ろに振り向く。
「そう、あなた! そんな所でボケっとしてるなら手伝って!」
30歳前後だろうひび割れた眼鏡を掛けた看護士の女性は、鬼気迫る顔でこちらを睨む。
「あぁぁ! もう、こっち!」
強く腕を引かれる。勢いそのままに立ち上がり、引かれるままに彼女に連れられていく。建物が揺れる中、厚いガラスが散乱する廊下を進む。
廊下の奥の部屋に入ると、そこにはベッドがいくつも並んでいた。ベッドには人がいた。包帯を巻かれ、シーツは赤くなっている。
「ここの人たちに声をかけ続けるのよ? いい? 何かあったら大きな声で助けを呼ぶの!」
肩を掴まれ、目を合わせて言われた。無言で頷く。彼女も頷く。掴んだ手を離し、その代わりにポンポンと肩を叩く。「任せたわよ!」そう言い残して彼女は部屋を去っていった。
一人残された私は何も考えずに、彼女に言われたままにベッドに横たわる負傷者に話しかけていく。
「大丈夫、ですか?」返事がない。頭に巻かれた包帯が赤い。
「大丈夫、ですか?」皮膚が爛れた男は唸り声をあげていた。
「大丈夫、ですか?」仰向けに眠る男は返事も息もしていない。
今までで一番の揺れと爆発音で、その横のベッドに倒れ込む。胸の動きで生きているのがわかった。今度の人は返事をしてくれるかな、と起き上がろうとしたとき、肩に手を添えられる。ふいにその人の顔を見る。相手も私を見ていた。同時に目を見開く。
「ソルト?」「アイ……サ?」
壊れた心が継ぎ接ぎだらけだけど、元の心を形作る。瞳にゆっくりと光が揺蕩う。髪が伸びっぱなしでボサボサで、頭部以外は包帯だらけだが、確かに目の前にいるのはソルトだった。幻ではない。確かにぬくもりを感じるから。
「あぁ……、ソルト。ソルト、あなたなの? 生きててくたのね……」
枯れたはずの涙が頬を伝う。神に感謝する。
私を見つめる彼の目は優しい輝きを宿していた。
--3日前--
ソルトと再会した日の核の攻撃は熾烈だった。それでも施設が吹き飛ばされなかったのは奇跡だっただろう。施設内にいた者も、死傷者はそれほどいなかった。
しかし、それを奇跡としたのは今思えば早計だった。ほんのひと握りの残された人類は、その命脈を人知れずに断たれていたのだから。
私も含めた残された数人で、死者を丁重に雪に埋めて弔った。名前すら刻まれない墓石を立て、その前にスノードロップの花を添えた。
冷えきった体を薪で団を取り、広い施設の空き部屋の一つに淹れたてのコーヒーを2人分持って向かう。ガラスの破片を踏みしめて廊下を少し進み部屋に入る。
「ソルト。戻ったわよ」
返事はなかった。彼は眠っている。安らかな寝顔に、ほっとする。
ソルトの体の具合は相当悪かった。【あの日】にソルトは私をエレベーターに乗せた後、しばらくして戻ってきたエレベーターに搭乗したらしい。しかし、そのエレベーターは私のときのように、地上に到着する際、減速しきれずに落下した。衝撃を受けた体は肋骨を数本折るほどのものだったが、生き残った者の助けでこの中継施設に運び込まれたらしい。
その後、1カ月ほどの療養で立ち上がるまでに快復した彼は、リハビリも兼ねて簡単な雑務を積極的に手伝っていた。そこで、あの電磁波現象が起きた。そこで彼の体にしこまれた爆弾が発症する。それは核の光の影響だ。医療設備が使えないことで、彼の体の中の傷み具合は分からなかったが、吐き出す血の量が想像以上に彼の体を蝕んでいた。
そのまま、立ち上がることもできぬようになり、処置の仕様がない者たちが集められたあの部屋に送られた。私と再会するときまで、ただ衰えながら……
安らかに寝息を立てる彼の横には1冊の手帳が置いてあった。痛んで、よれよれで、褪せた革のカバーが今まで持ち主と共に過ごしてきたことを物語っていた。
一瞬戸惑う。伸ばそうとした手を止める。それでも、科学者としての性なのか好奇心に押され、手を伸ばし手帳を手に取る。息を飲み、恐る恐る中を開いていく。
【おとうさん、おかあさん、どうしてこんな所に住まなきゃいけないの? 右手がないのに、だれもやさしくしてくれない。だれか、アイサ、助けてよ】
…………
【やっとここを出れる。専門学校ですぐに働けるように技術を学んで、早く働くんだ。自由になれればアイサに会いに行ける。でも、学者にならなかったボクをアイサは許してくれるかな?】
…………
【職場が宇宙ステーションとは……。そこしか確実に働けそうなところがないなんて。早くても3年はルベリエに戻れない。キミはボクのことなんて忘れてしまってるかもしれないけど、ボクはまたキミと会いたいよ】
…………
【やっと戻ってきた。地上で見つけたスノードロップの花はキミを思い出させるよ。ボクのことはきっともう忘れているだろう。一目だけでいい。キミがいることがなによりも嬉しいから】
…………
【こんな日にキミを見つけられるなんて。想像していたより綺麗になってたから驚いたよ。でも。一目でキミと分かったし、瞳を見て確信した。ボクがもう一度会いたいと思ったアイサだって】
…………
【宇宙ステーションにキミがいるなんて信じられないよ。キミの声は大人びたけど、ちょっと早口なところは変わってない】
…………
【短い間だったけど、逆にそれで良かったのかもしれない。約束を守れなかったボクじゃ、キミに愛想を尽かされてしまうだろうから。連絡先を交換したけど、なるべく距離を取ろう】
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…………
【あたまがぼやけて、よく、おぼえていない。あのとき、ボクはキミを、たすけられたのかな】
…………
【キミが、いる。どう、して? でも、わらって、くれてる、なら、よかった】
最後のほうの文字は歪で、赤い染みの上に刻まれていた。その上から、涙の染みが新しく滲む。
「眠ってても、あなたは私に優しいのね」
優しく合わせた唇は、血の味と確かにあなたのぬくもりを感じた。
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