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魔界よりの使者
第十五話
しおりを挟むかつてない闇を見た。
闇の中で、それらはケタケタと嗤っている。
お前もこっちに来い……呼ばれた気がした。
知っている。母だ。
気がおかしくなりそうだった。全身の細胞一つ一つが針で潰されていくような痛みに襲われている。気が狂うほどの痛み。存在が食われいく痛み。
喰われる。連れていかれる。
それも悪くない、と思ってしまう自分がいる。
『去れ、亡霊よ』
声が響いた。
途端、真っ黒な何かが全身を包む。安らぎを感じた。柔らかい海に投げ出されたような感覚だった。
結局、喰われたのかもしれない。
それも悪くない、と思った。
「はあっ……!」
視界に光が差し、喘ぐように酸素を求める。
どうやら闇の中ではないらしく、瞳には現実世界の見慣れない景色が広がっていた。月明りに照らされた雑木林、未だ融けぬ白銀の雪、身を刺すような1月の冷気。隣町にあるという朽ちた神社の境内だ。高台にあるのだろうか、遠くには石造りの階段が見える。
「着いたわ。霊道を通った時にちょっかい出されたのだけれど、問題無いかしら?」
目前にいるゴスロリ悪魔が、少しばかり疲れを滲ませて言った。
「あぁ、何も問題ない」
嗤う膝に力を込め、しっかりと立ち上がる。
先程襲われたあの感覚は、野良狐や下級眷属の仕業だろう。祀られなくなった神社には神がいなくなり、代わりに下級霊などが住みつく事も多々ある。とはいえ、異世界の本物の悪魔に影響を及ぼせるとは、中々に力がある存在だ。
「待ってたぞ13番」
息が整ってきた頃、聞き慣れない声が聞こえた。
乾いた足音もゆっくりと近づいてくる。
「まさか、こんな極東の島国にいたとはな。ブリテンだったりヴァチカンだったりを探したのはとんだ無駄足だったようだ」
石畳の上を歩く、純白のコートを羽織った見慣れぬ男。
知覚した瞬間、膝が再び笑い出した。その男が突如放った威圧感が、俺の心臓をぎゅっと掴んだのだ。
「ま、色々と面白いもの見れたし構わないんだが。こっちにいる吸血鬼は意外と手こずったぞ、強いなーあれ」
「誰だ……お前は」
「勇者、と人は呼ぶ」
人類の防人。
神の代行者。
魔王の敵。
悪魔の敵。
「勇者……!?」
勇者は翠華だけだと思い込んでいた。彼女は勇者一行に加わっていた女騎士だとレムは最初に言っていた。真の勇者は他にいる。
「どもー。異世界帰りで現代最強向かう所敵無しチート持ちハーレム嫁複数現地妻複数子持ちだが童貞でラノベネトゲ中毒で日本の二次次元文化より台湾の方が気になってるイケメンオタで帰ってからは異能力者と異能力バトルを繰り広げるどころかラブラブで甘々エッチな日々を享受している所謂男の欲望の体現者である神に選ばれしヤレヤレ系男子高校生、勇 者 だ」
聞いてもいないことをつらつら述べる銀髪の勇者。
「こんばんは」
間を置かずに悪魔が気さくに挨拶すると、勇者は苦笑いを浮かべて返す。
「はいこんばんは。もう驚かないぜ、お前が言葉を話すこと」
「そう。瑠美は何処?」
「社の中」
「解放して」
「嫌だと言ったら?」
「首をあげる」
「つまらないこと言うなよ。戦争しようぜ13番」
「分かったわ」
レムは頷きながら、自身の影からフリルで飾られた漆黒の傘──邪剣を取り出す。
「私はレム。あくまで仮の名前なのだけれど。貴方の名前を教えて」
「ジョン。ジョン・ピンチベックだ」
対する勇者ジョンは、左手を懐に伸ばし、聖剣──ではなく、別のものを取り出した。月光を受けて黒光りする銃だった。
「──!?」
俺が声を上げる間も無く、戦争は始まった。
銃声。
ドラマや映画で聞くような発砲音よりも酷く乾いたパンッという音が連続で響く。弾丸は正確にレムへ直進し、その華奢な体を蜂の巣へ変えようと襲い掛かった。
「……っ!」
レムはそれらを叩き落とすことが可能だった筈。
だが受け止めた。胸に、腕に、足に、弾丸が吸い込まれていく。衝撃によって一歩後退りながらもその場から動かず、土の体が鉄の塊に蹂躙されるのを受け入れた。
「や……やめろ! やめてくれ!」
ようやく我を取り戻して叫んだ時、銃撃は止んだ。
「やめるやめる。これじゃ張り合いがない」
硝煙の香りが立ち込める中、俺はレムへ駆け寄った。土で出来た体だが人間と同じように痛覚がある。普通であれば立っていることも不可能な筈であったが「問題無いわ」と一言だけ、問題無い顔で呟いた。
「ほぉ……ブリュンヒルドの弾をくらって問題無い、か」
名付けただけだが、と余裕に満ちた顔でジョンは零した。
「お前……そんなに悪魔を殺したいのか! コイツが何したっていうんだ、悪魔ってだけじゃないか!」
「おいおい、それは極悪非道な人殺しの悪魔だぞ?」
「京を巻き込んでまで……どうして!?」
「どうしてって……人を助けるのに理由がいるのか?」
「はぁ!?」
そんなことも分からないのか? という表情で言われた。誘拐したのはこの男で間違いない、何を言ってるんだと言い返すと「やれやれ」と被りをふる。
「彼女はその悪魔に精神汚染されていた。餌に見定められたんだ、だから俺が保護した。今、社の中でスキルを使って治療してる。スイの妹だからさぞかし美味いんだろ。憎悪の魂を引き摺りだす時を狙ってやがる」
「嘘に決まってる、レムはそんなことしない!」
「やれやれ。悪魔を信じる馬鹿がどこにいる? 正気に戻れ、お前の心は完全に汚れていない筈だ」
「俺は正気だ……!」
「はぁ。なぁ悪魔憑き? 俺は怒ってるんだ」
「何……?」
ゴリゴリと銃で頭をかき、どこか呆れを含ませつつ、
「肉体も魂もボロボロじゃないか。震えてるじゃないか。泣いてるじゃないか。どうして俺に一言……言ってくれないんだ? 心の声を。悪を滅ぼせと。もう他人じゃない、誰がどう見ても友達じゃないか。少なくとも俺はそう思ってる。そして、友達を助けるのに理由がいるような屑には……俺を育ててくれた人から教わっていない」
「勇……者?」
「もう怯えなくて良い。震えなくて良い。泣かなくて良いんだ。なぁ13番? 平和な世界の、平和な国の、どこにでもいるような平凡な16歳の女の子と、こいつを泣かせやがって……許せないな!」
勇者とよばれるものは漆黒の空に向けて咆哮した。
「悪魔が! よくも好き勝手やってくれたな! あの子にはもう……俺が! ジョンが! 全身全霊を持ってこれ以上指一本触れさせない!」
「ふ……ざけんなお前ぇぇぇ!!」
駆けた。
畏れに負けじと手錫杖を強く握り締め、疾走した。
「はぁぁぁ!」
渾身の力を込めて振り下ろす。狙いは銃を持つ腕。いくら荒ぶる理性だろうと、人間の形をしたものを壊そうとするのは躊躇われた。それでも、腕の一本壊すことなど構わない。衝動に任せ、砕くつもりで振り下ろした。
「ん? どうした?」
手ごたえはある。
びりびりとした衝撃を確かに感じる。
だが、目の前のジョンは動じる様子もなく、平然としていた。
「中の悪魔が目覚めたか? なら……やれやれ、お仕置きが必要だな」
呟いた後、腹部に重い衝撃。
ジョンの右拳が深くめり込み、呼吸が出来なくなる。
「聞いてる? 気を確かに! 悪魔はまだそこにいるぞ!」
連打。連打。連打。
容赦なく叩き込まれる、勇者の低次元攻撃。中身がぐるぐるにぐちゃぐちゃに掻き回され、粉砕されていく。視界は火花で埋め尽くされ、息が出来ず、何も出来ず、ただされるがままだった。
思考が止まりかけた時、響いたのは悪魔の声。
「やめなさい!」
切り裂くようなそれの後、衝撃が止んだ。
喘ぐように呼吸する。
急速に色を取り戻していく世界には、距離を置いた場所に立つジョンと、俺の体を支えてくれているレムがいた。
「大丈夫?」
「だ……だいじょうぶ、問題無い」
気分は最悪としか言えないのだが、風穴を開けられた少女の前で弱音を吐くことは叶わない。とはいえ、人間寄りの悪魔となった俺の体はみるみるうちに痛みを鎮まらせていった。
「本気で戦え。俺がお前の存在を諦める前に」
勇者は笑顔で告げる。
「街中で闘えば被害が出るから広大な敷地をもつここに招待したんだ。楽しませてくれよ」
「そうすれば、瑠美を解放してくれるの?」
返答はスマイル。
「早苗、御願い」
正面を向いたまま、レムは言った。
それが何を意味しているのかはすぐに分かった。
魂ではなく、本来の名前を欲しがっているのだ。存在を表す名が戻れば、本来の姿に戻り力を出せる。たとえ勇者に勝てる見込みはなくとも、その命で友を取り戻せる。
「…………」
名は左手の甲にある。
だが、いいのか。
七尾に忠告されたからではない。
自責の念に駆られているわけではない。
お前自身が本来の姿を嫌っている事を知っている。
普通ではない怪物の姿を嫌っている事を知っている。
だからこそ、大人しく名を縛られた。
影の中で、翅をもつ日を夢見ながら。
影の外で、友を探し友をつくり。
普通の少女として生きようとした。
叶わぬ願いだとどこかで知りながら。
「…………」
それでも。
揺ぎ無き決意は曲げられない。
俺は大きく息を吸い、教えられたその呪文を口にする。
「励起せよ! 常世の闇より出しもの。溶融せよ! 分かたれし堅きもの。渦動せよ! 有無を寄せ返すもの」
罪を憎んで人を憎まず。憎むべきは罪。それが善意故のものであるなら何者にも曲げられない。善意で人を殺す。善意で世界を壊す。世は弱肉強食。強きが弱きを喰らい生命は循環する。そこには身分があり役割があり、死ぬべき場所がある。少なくとも勇者と悪魔はそんな世界で生きてきた。
「核たる闇を解き放て! 無量の力を今ここに!」
それでも。
今は只一つが為に。
「伝えし友よ──其の名、影の繭!」
甲に刻まれた名が浮かび上がり、レムの体を取り囲む。
本来の名と、存在を示す名。
真名。
「……っ」
ぐるぐると回る、廻る、呪いの名前。
それらは次第にレム──ククリの体へ吸い込まれていき、途端に変化を見せた。
蠢く影。
蠕動する細胞。
夜の闇がより一層濃くなる。
溢れ出す妖気。
迸る魔力。
「ほぉ……」
ジョンは食い入るようにそれを見ていた。ドス黒い尾が生える瞬間だ。
スカートの上から生えた尾はぶくぶくと泡立つように、細胞が異常増殖するように、虫の尾部のようなそれは瞬く間に伸長していく。1本だけではない。11本の尾。その表面には、誰とも知れない巨大な顔が幾つも浮かび上がっている。彼女が喰らった魂に由来する人間の顔だろうか。そのどれもが哀願するような悲しい表情をしていた。
発生したのは尾だけではない。レムの童顔を隠すように、左半分が欠けた漆黒のマスクが装着されていた。ペスト医師のように不気味なそれは、感情を表す貌を闇で覆い隠す。外見に滲み出る内面を隠すための仮面だ。
「くっ……」
がんがんと割れるような頭痛に襲われる。魂が奪われ、ククリの魔力へ変換されているのだろう。構わないぞゴスロリ少女、あの男気に入らないから好きなだけ持っていけ、絶対に勝ってボコれ、と強く念じた。
「早苗」
ククリは掠れた声で、
「瑠美を」
それだけ言うと、消えた。
俺の目では追いきれなかった。
バキン。
高速で何かが衝突した音が鳴る。追った先にはどこからともなく抜いた西洋剣で、ククリが高速で打ち出す攻撃をいなすジョン。聖剣が、邪剣が、尾が振るわれる度に地面が割れ、突風が吹き荒れ、瞬く間に戦場となった。
戦争。
勇者と悪魔の戦争だ。
力になりたい、結果を見届けたい、それらの意思を絶ち切って走り出した。託された。戦争の余波で社が破壊されれば中にいるであろう瑠美が危ない。今はただ、友を、家族を信じて走った。
「京!」
ジョンが言った通り、社の中には京瑠美がいた。帰宅途中に拉致されたというのを示すように、防寒着に身を包んだ格好で横たえられている。この極寒だ、いくらその恰好でも長時間外気に触れていては危険な事態へ発展してしまう。
「京!」
名を呼びながら駆け寄る。
「京!」
膝をつき、肩を叩く。目立った反応は返ってこないが、時折「う~ん」や「さむ……」といった小声が聞こえてきた。取り合えずの無事を確認して一息ついてから、
「よっこら」
運ぶ準備。
俗に言うお姫様抱っこ。
「重っ……」
聞こえてないことを神に祈る。
やけに近い女の子の顔とやけに甘い何かの香りが、男の子の羞恥心だったりなんだったりに火を点けるのだが……いやいや俺は全く持って邪な感情など持っていない! ただ運ぶだけだ、今の俺はレスキュー隊員だ! と強く意識して社の出口へ向かう。しかし……壁や床は所々剥がれたり抜けたりしているが、意外にも埃は積もっていない。誰かが掃除したのだろうか。この神社の寂れ具合からみて、神主も誰もいない筈なのだが。
とにかく、ここに留まるのは危険だ。境内で繰り広げられている戦争の音は鳴り止まず、地震に似た揺れが続いている。魔王を打ち取った勇者と、その魔王の魂を分け与えられた悪魔の戦いが。
「動くな!」
「!?」
社を出た瞬間、それが付きつけられた。
熱気迸る西洋剣。
聖剣。
「よくもやってくれたわね……友だとか言っておいて、妹に手を出して! あんたもここで死ね!」
京翠華。
運んでいる少女と瓜二つの顔をした、神隠しに合った少女だった。
「誤解だ! 俺は彼女を助けに来ただけだ!」
「嘘言うな! ジョンから聞いたわ、13番がマーキングしたって! これから喰うつもりなんでしょ、させやしないわ!」
「違う! あいつはそんなことしないし、事実、されてないだろ! お前は騙されてるんだ!」
正直、外側だけ見て分かるものではないのだが、寒さに震えていても悪夢にうなされている様子は無い。勿論、うちの悪魔はよそ様に魂食いという深刻な迷惑をかける奴ではないと信じているが。
「汚い尾を出したアレを見て信じるわけないでしょ! ジョンが正しい! 誰よりも正しい!」
ギラついた瞳で睨みながら突きの構えをとる。
大義。
勇者は悪を打ち滅ぼし平和を実現させる存在。
全て己の責任で、時には重い選択を、願いが叶う日までひたすら繰り返す。続けていれば己は大義の中で霧散し、個は消失する。果たすべき大義という呪いに存在を縛られていた。
「4年間共に戦った絆……あんたには分かんないわよ!」
時間は関係ない──とは言えなかった。
狂気の渦中では正常であることが異常だ、とダミ声で脳内再生された。勇者という象徴がいる。勇者という御柱がいる。勇者という人柱がいる。過酷な戦争を生き抜く為、信仰で人民を纏める為、崇め奉る対象が必要だった。
「もう迷わない……殺す!」
翠華をギリギリで踏み留めていた存在だった。
俺を。元は普通の平凡なありきたりな何の変哲もない人間を殺す覚悟を、今ここで、実の妹の為に目覚めさせなければならない程に頼っていた──かもしれない。
「俺を殺すのは構わない……」
揺ぎ無き決意がある。
何物にも曲げられない意志がある。
これは勝てないな……まぁ、良い機会かもしれない。ダミ声退魔師や妖怪雪女に顎で使われた挙句に退治されるよりは多分、少しだけ、マシかもと思い、腕に抱いていた少女をそっと床へ下ろす。
「だから、あいつを殺すのは勘弁してくれないか」
「無理な相談よ」
そう返ってくると分かっていた。だから、
「戦争しようか」
右手には手錫杖。
左手には虚無。
感じる。
魔力。
沸々と湧き出るドス黒い衝動。
混じり、捻れ、喰い合い、循環する力。
そうだ、俺は本来の力を取り戻したククリの眷属だ。契約者だ。悪魔らしく悪足?きでもするか。
「受けて立つわ。私があんたを殺すのと、ジョンが13番を殺すの、どっちが早いか競うだけだけど」
翠華は冷笑を浮かべ、
「出なさい。その子を巻き込みたくないのなら」
構えを解いて告げる。
俺は頷くと、社を後にした。
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