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エピローグ

早く結婚するためには1

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 ジュリアが目を開けると、ぼんやりとした視界にアレクが映った。寝台のそばの椅子に座り書類に目を通しては、袖机の上に置いていっている。
 素早いその動きを夢でも見るように眺めていると、こちらを向いたアレクと目が合った。
「……目が覚めたんだね」
 琥珀色の目が驚きに見開いてそれから安堵に緩む。愛しい人にしか浮かべることができないような表情だ。
 アレクの心が伝わってきて、ジュリアの胸をいっぱいにした。
「アレク、私」
 自分のものとは思えないくらい声が掠れていた。恥ずかしくて口を押える。
「階段から落ちて三日目だよ」
 ベッドの柱の陰から顔を出した侍女は顔をくしゃくしゃにした。彼女の手には杯が握られている。
 消えて心配をしていた侍女がそこにいて、ジュリアはほっとする。
「良かったわ! 無事だったのね」
「貴女は優しいね。さぁ、水だ」
 アレクに背中を支えられて上体を起こす。侍女から受け取った杯を唇に押し当ててもらうと、渇いていた口の中と喉が潤って楽になった。
 少し落ち着くとここがアレクの部屋だとわかる。自分の部屋ではない事で、まだ危険があるのかもしれないとジュリアは身を強張らせた。
「アレク」
 ノアはどこなのか。王太子はどこへいったのか。王宮は安全になったのか。
 ジュリアの問いを察したようにアレクは頷いて、背中を何度も撫でてきた。
「全て丸く収まったよ。もう安心してくれていい」
 アレクの後ろで侍女が何度も頷いている。
「ジュリア様はまずお体を休めてください」
 鬼気迫る表情で休むよう促す侍女に困惑してアレクの方を見ると、肩をポンと叩かれた。
「そういうことだよ」
 アレクは枕を叩いて綺麗に膨らませると、ジュリアを再び横たわらせた。
「医師の許可がでたら、散歩をしよう」
 額に唇を落とされ、うやむやにされたと気づく。
「アレク、ノアは」
 アレクは首を横に振った。教えてくれる気は無いらしい。
 階段から落ちて三日も意識を失ったことで、一人蚊帳の外なことにもやもやして顔を曇らせると、アレクは微笑する。
「元気そうだ。食事を用意させよう」
 一瞬だけアレクの目が陰鬱な影が差す。無機質というよりも、何かを押さえつけたような感じに、あまりいい終わり方をしなかったことがわかった。
 いずれ嫌でもわかることを、今聞くこともない。ジュリアは口を噤んだ。


「散歩に連れて行ってくれると言ったわ……」
 もうそろそろ、外に出たい。
 ジュリアはアレクの寝台の上で、窓から差し込む太陽の光をうずうずと見た。
 目が覚めてから二日経ったが、まだ散歩の許可が出ない。医師は「もう大丈夫ですよ」と言っていた。
 しかし階段から落ちた前後のジュリアの記憶が曖昧なことを知ったアレクが了承しないのだ。
 ジュリアの目が覚めてからは部屋で執務をすることもさすがに周りに止められたらしい。
 やっと執務から抜け出してきたというアレクはベッドの端に座り、飽きもせずジュリアの手を撫で続けていた。
 ノアに連れて行かれそうになった時、好きだと伝えていない事をあれほど後悔したのに実はまだちゃんと伝えられずにいる。
 それなのに、手に触れられるだけでドキドキと胸が高まる自分が嫌だ、とジュリアは思う。
「もう少し、良くなったらね」
「そればっかり」
 頬を膨らませると、アレクは笑う。
 ジュリアが階段から落ちた時のことは箝口令が布かれているのか誰も事情を教えてくれない。
 侍女はさらに甲斐甲斐しくジュリアに尽くしてくれるようになったし、アレクの側にはイーニアスという名の厳つい男性が控えるようになった。
 何も無かったはずはない。
「好奇心丸出しの顔だ。何があったのか、聞きたいかい?」
 アレクが片眉を上げながら言ってきたので、ジュリアは大きく頷いた。
「もちろん知りたいわ」
「包帯が取れたらね」
 教える気が無いなら聞かないで欲しい、とジュリアは顔を顰める。額に巻かれた包帯は過保護の証明だ。医師ももう必要ないだろうと言っていた。
「過保護だわ」
「守れなかったから、せめて」
 撫でていた手をぎゅっと握られた。離さないと言われているようで、まだ胸が高鳴ってしまう。
「私からも聞きたいことがある」 
「包帯が取れたらでいいかしら」
 ジュリアが顎をツンと上げて切り返すと、アレクは可笑しそうに笑った。
「ああ、本当に貴女は面白いね」
 アレクはテーブルの杯に水を足しジュリアに渡す。まだ喉は乾いていたので素直に飲んで杯を返すと、彼は満足そうに笑んだ。
「あの独創的なドレスを着ていた理由はあるのかい?」
「急に何……」
 思ってもみない事をいきなり聞かれて、何と答えればいいかわからず、ジュリアは言葉に詰まった。
 結婚とは自由のすべて奪われると考えていた。貴族の結婚は両親のような愛し合うものではないとも知り、夢も希望もなくなった。
 けれど侯爵家の娘、黙っていても縁談はあちらこちらからやってくる。ではどうすれば避けられるか。考えぬいての結果だった。
「あれを着ていれば、大抵の方は私を結婚相手として考えないと思ったの」
「だが、私は違った」
 ジュリアはおずおずと頷く。
 社交界デビューの時から気に入ってくれたとしても、あのドレス姿をみれば普通は引いてしまうと思う。
 アレクはベッドの縁から立ち上がるとテーブルの上から彫細工が施された木箱を手に持ってきた。
「開けてみて」
 ゆっくりと中を開けると、五つの懐中時計が入っていた。
「これ……」
 時計の蓋を開くと、内側にはジュリアの肖像が描かれていた。あのカーテンで作ったドレスを着た姿だ。
「……前から、知っていらっしゃったの?」
「カーテンだとは思わなかったけれどね」
 アレクは肩を竦めた。
 両親は社交界に出られない娘を心配して肖像画を誕生日の度に描かせていた。それを然るべき親族に渡し結婚相手を探していたのだ。
 両親の意図を知っていたジュリアは、頑なに両親が用意したドレスは着なかった。
 五つの装飾の凝った懐中時計すべてに、褒められないドレス姿の自分がいた。ジュリアは懐かしさもあってまじまじと自分の姿を見てしまう。
 王子のアレクがこの姿のジュリアを五年間も想い続ける理由が見当たらないほど、ひどいドレスだ。
「どうして、肖像画の……」
「肖像画はすぐに王宮に届けられていた。ジュリアの肖像を誰かに見せるわけがないじゃないか」
 当然のように言い返されると、何も言えなくなる。
「眼鏡が追加されているとも思わなかったけどね」
 おかしそうに笑うアレクをジュリアは軽くねめつけた。
 けれど、この美しいとは言い難い肖像画を5年も見続けても好きだったのだろうか。アレクの周りには流行のドレスを着こなした美しい女性がいたはずなのに。
「ええ……眼鏡は……、ハリーが戦争に行ってからつけはじめたから……」
 懐中時計を木箱の中に戻しながらぼんやりと返事をすると、アレクに顎を軽く掴まれて顔を上げさせられる。
「どうした」
 怪我してから過保護すぎるほどなのに、アレクの口調は少し厳しかった。
 貴方が自分の殻に籠るのは許さないと言われた気がした。
「その、どうして、私なのかと……」
「一目惚れだから」
 ポカンとアレクを見たのはもう何度目だろう。
 アレクの彫の深い精悍な顔立ちの中。目尻が下がる笑顔はやはり可愛らしく感じる。
「社交界デビューの日、玄関ホールの絵を見上げていた貴女は美しかった」
「あまり褒められたことではないと思うの……」
 王宮の玄関ホールで、付添人もパートナーもなく若い令嬢が一人でいるのは、今なら良くないことだとわかる。
「あそこにいた誰よりも気品があったよ。貴女を深く知りたくなった」
 率直な誉め言葉にジュリアは頬を染めた。
 謙遜すべきなのに、嬉しくて浸っている間にタイミングを逸した。
「……あ、そんなことは」
「初対面だったのに、誤解をされていたことを残念に思う。ハリーがダンスカードを埋めなければ、もっと早く親密になれた」
 あの日ダンスをしていれば、回廊での聞き間違いが無ければ、どうなっていただろう。
 ジュリアは思い馳せた。
 アレクが自分の事を気に入ってくれたとわかっていたら、恋に溺れて我を忘れていたはずだ。
 数年の間に母が亡くなり、ハリーが戦争に行き、父が亡くなった。
 そんな怒涛の変化の中、恋に夢中になっていれば、領地を守れなかっただろうし、領民を思う気持ちは今ほど強くは育たなかった。
「ハリーに感謝しないと」
「なぜだい?」
 不快そうなアレクにジュリアは微笑んだ。
「お陰で領地を守れました。大好きな場所を繁栄させる方法だけを考えることができましたから」
 ジュリアがとても真面目に答えるとアレクが噴き出した。大笑いしたいのを堪えているようだった。
「ああ、最高だね」
 大きな息を吐いて、アレクは用意してあったワインを硝子の杯に注ぐと一気にあおった。潔い飲み方に驚いたが、アレクが酔った所を見た事が無い。
「貴女と一緒にいれば、ずっと楽しそうだ」
 再び寝台の縁に腰掛けたアレクは、ジュリアの手を取って指先に口づけた。そこに血が集まったかのように痺れる。
「その領地を思う気持ちを、今度は国に向けてくれればとても嬉しく思う」
「……はい」
 妃の条件に当てはまったから、求婚されたのではないかと胸を掠めた。
 恋を自覚してから、どうにも気持ちが揺れてしまう。
 ……私らしくない。
 ジュリアは目の前にあるアレクのすっと伸びた高い鼻梁を指で掴んだ。
 驚いた顔をした彼と目が合う。
「私、昔はよくハリーと泥まみれになって遊んでいました」
「聞いている」
「アレクの言う事を聞けないかもしれません」
「同じ方向を見ていてくれれば構わない」
 ジュリアはアレクの鼻から手を離した。
 言う事を聞かないと宣言したようなものなのに、アレクはすぐに受け入れてくれた。
 ジュリアは懐中時計が入った木箱の彫細工を指で辿る。
 二度とアレクに会えないと思った瞬間に、拒否されたとしても伝えたいと思ったことがある。
「……愛しています」
 反応を知るのが怖くてアレクの顔を見ることはできなかった。
 木箱を両手で触りながら、沈黙を埋めるように喋り続ける。
「私達の結びつきの第一は国を富ませることですから、そういった重いものはいらないことは重々理解しています。何かを返していただこうなんて期待はしていませんから、お気になさらないで。あの、私は国の子供が全員教育を受けられる制度を……」
 アレクが黙っているせいで、上擦った自分の声がとても切なく感じた。
「……愛想を尽かされる前に、結婚式を済ませてしまわないといけませんね」
「方法はある」
 指で唇に触れられたせいで、ジュリアは顔を上げる。アレクは微笑していた。
 上唇から下唇を、ふっくらした唇の形を確かめるような動きだ。まるで口づけされているような錯覚に、お腹の奥がきゅっと締まる。
「先をいかれてしまった。……ジュリア、私は貴女を愛している」
 ジュリアは何と言えばいいのかわからなかった。
 好きと愛は天と地ほどの差があって、だからこそアレクがすぐに応えてくれたことが信じられない。
「だから、貴女を無理やり奪った」
「あの……」
 最初はアレクにこの求婚を断ってもらおうとしていた。
 修道女になろうとして、次は自ら醜聞を作りに仮面舞踏会に出た。その結果、王宮の階段から落ちるなんていうことに繋がった。
 こうやってまだ王宮にいることができるのが不思議なくらいなのに、愛しているとアレクは言った。
「その包帯が取れたら覚悟するように。5年分、たっぷり可愛がるつもりだから」
 アレクの言葉だけでジュリアの肌が粟立つ。
 未来の夫は頬に口づけだけをして立ち去る時に、ぼそりと呟いた。
「結婚式を早めるには……」
 完全に気配を消していたイーニアスがアレクの後ろに続く。全部聞かれていた恥ずかしさにジュリアは固まった。
 そしてイーニアスが去る際にその目に同情の色を浮かべたのも気づかなかった。
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