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番外編
夫婦から家族へ 1 ※R18(簡易保険)
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手袋をしている手を擦り合わせても、指先の冷えはしぶとく居座っていた。可南子は寒さで感覚の鈍い手をバッグの中に入れて、鍵を取り出す。かじかんだ手でエントランスのオートロックを解除しマンション内に入る。いつも通り郵便受けを見た。
緩んだ寒気にホッとしていた気持ちが引き締まる。
珍しく広告が入っていない銀色の狭い空間に、見覚えのある字で自分宛ての封書が一通あった。
……お母さん。
母親の字を見てずん、と胃の辺りが重くなる。わざわざ手紙を寄越してきた事に嫌な予感しかしなかった。感じていなかった疲れが肩に圧し掛かる。
不安からはやる気持ちを感じながら家に帰り、まず暖房をつけた。温かいお茶を用意してから開封しようとしたが、湯を沸かす間に開けて読んでしまう。目を通すと吐き気にも似た痛みに襲われて、可南子はコンロの火を止めた。
『昔は嫁に入ると、三年子なきは去れと言われたものでした。志波さんのご両親の温情の上に胡坐をかいて、出世も見込めない仕事を続けているのは我がままですよ。このまま子供がいないのであれば、亮一さんが他に女性を作っても文句を言えない状況です。最近は不妊治療専門の病院があるとお友達に聞きました。評判が良いと言われている病院の名前を電話番号を書いておきます。自分で良いと思う場所に今すぐ通うように』
血の気が引いた浮遊感を感じながらリビングに入ると、ソファに座り背中を預けた。喉の引きつるような違和感と、目の奥に鋭い痛み。見上げた天井がぼやけた。目が少しでも腫れないようにと零れ落ちた涙は拭わなかった。
亮一が飲み会で遅くなる予定で良かった、と可南子は弱々しく微笑する。
深く息を吸って吐くと手紙を持って立ち上がり、玄関を入ってすぐの使っていない部屋に入った。クローゼットの中に置いている夏用のカジュアルな帆布のバッグを取り出して、封筒に入れた手紙を隠すように底にしまう。
無表情で部屋のドアを後ろ手で閉めて、可南子は玄関のドアを見つめる。
……疲れる。
怒れるのが正しい反応だろう。原因は全て可南子にある、母親にそう決めつけられた内容だった。背中から手を突っ込まれて何かを引き抜かれたようだった。無気力で身体が重く気怠い。昔なら母親の古めかしい個性的な態度にも心構えがちゃんとできていた。亮一に大事にされる幸せな生活の中、緩んでいた気持ちを苦々しく思う。
亮一の両親が子供の話を避けてくれているのは気づいている。母なりのやり方で二人で話し合えと言ってきたのだ。メールでは読まないと思い、わざわざ手紙で送ってきたのだろう。
プライバシーに踏み込まれた不快感は、棘で突き刺されたように抜けない。可南子は食事をする気にもならずシャワーを浴びるとベッドの中に潜り込んだ。口元まで毛布を引き寄せて、短く浅くなる呼吸を意識して長く深くする。
子供のことは落ち着いてから、と亮一と話していた。可南子が新しい仕事に慣れてきた頃、亮一の仕事が忙しくなった。亮一の出張が落ち着いたのはここ半年くらいだ。可南子が妊娠してもそばにいられない状況で子供は考えられないと、たまに怠る事はあったが、亮一は避妊をしてくれていた。
……赤ちゃん。
真剣に考えていなかった自分がいる。亮一といるのは幸せで楽しい。子供の事は心を掠めても、今はまだと思っていた。だが、亮一はどうだったのだろう。結婚後に仕事を辞めて子供を中心に考えた方が良かったのだろうか。何度も話し合ったはずなのに、手紙をきっかけに可南子の心に不安がよぎる。
亮一は可南子の仕事に理解を示してくれている一方で、辞める事も問題を感じていない。亮一は『贅沢を言わなければ大丈夫だ』と言う。
一緒に寝ているベッドから亮一のにおいがした。ベッドの中が温まっていくにつれて、亮一に包まれているような気がしてくる。温かくて優しい、安心をくれた人のにおいだ。
……亮一さん。
この温もりは誰にも渡したくない。可南子は自分の肩を抱く。
……子供ができなかったら、亮一さん。
作らない、と、できない、は違う。その差があの手紙で刻み込まれた気がした。可南子は動揺で痙攣した目で瞬きする。
他に女性を作っても文句を言えない状況、という母親が書いた字が脳裏に翻り踊った。不安で敏感になった心が、布団の中に入ってきた冷気にさえ悪い意味づけをしようして慌てて首を振る。
亮一が掛けてくれる言葉と眼差しを、呼吸と一緒に反芻する。大丈夫、大丈夫、と積み重ねた毎日を思い出しながら自分に言い聞かせていると、寝室の外から物音がした。亮一が帰ってきた、と可南子は身体を強張らせて目をぎゅっ、と閉じた。足音は迷いなく寝室に近づき、ドアは音も立てずに開かれる。ドアに背を向け毛布にくるまっていた可南子に、リビングから漏れた明かりが差し込んだ。
亮一の足音は可南子が身体を向けている側に寄って来た。ベッドのスプリングがぐっと沈み込み、亮一がベッドに腰かけたのがわかった。
「何かあったか」
起きていると確信している亮一の声に可南子は固くつぶっていた目を開けた。顔だけ可南子に向けている亮一の目と合った。暗がりに慣れた目は、亮一の表情を見て取る。驚くほど、優しい。
「……どうして」
「可南子は隠すのが下手だ。俺は見抜くのが得意だ。以上」
亮一はコートも着たままで、手には黒の皮の手袋を持っていた。その手袋の指先で可南子の頬をくすぐる。
「ほら、喋ってしまえよ」
「や、やめて」
くすぐったさに可南子が毛布の中に潜ると、毛布の上から羽交い絞めのように抱き締められる。こそばゆく幸せな扱いはずっと続いている。
「く、苦しい!」
「なら、話せ」
がばっ、と毛布をはぎ取られた。ぬくぬくとした布団の中から一転、寝室の冷気に晒される。毛布を掴んで引き寄せようとすると亮一に抱き締められた。コートからは外のにおいがした。タバコ、油、そして、香水。可南子の目が淀む。
「……香水」
「ああ、隣に食べ物の味がわからなるくらい香水を振ったのがいたな……移ってるか」
「……女の、人?」
「どう思う?」
やっぱりモテる、と諦めにも似た気持ちになる。亮一の肩越しに暗い天井を見た。寒さに身体が冷えていく。明るく答えようと、正しい反応を探す。考えれば考えるほどわからなくなって、開いた口を可南子は何度も閉じた。
可南子の強張った身体の下に亮一の手が回された。そのまま抱いて持ちあげられて可南子は「亮一さん!」と抗議の声を出す。
軽々と可南子を抱えた亮一はそのままリビングに移動しソファに下ろす。それから寝室に戻りクローゼットから取ってきたセーターとスキニーパンツ、靴下を可南子の膝の上に置いた。
呆気に取られて見上げる可南子に、亮一は首の後ろを撫でながら言う。
「食事もとらずに不貞寝するから、わけがわからなくなるんだ。ラーメンでも行くか」
「酔っぱらいの締め……」
「飲んでないから、酔っぱらいじゃない。うどんでも良いな。おでんが置いてる」
亮一は着替えようとしない可南子の前に立つと、わざとらしく、思い悩んだように腕を組んだ。
「なるほど。着替えさせて欲しいか。そうか」
「違う! お腹減ってないし、寝たいし」
「食べたら腹が減ってる事に気づく。行くぞ」
「化粧も落としたし」
「美人だから問題ない。着飾って『また』男に声でも掛けられたいのなら別だが」
「声なんか掛けられてないもん。び、美人じゃないし」
「かな、美人じゃないとか、俺の奥さんを悪く言うなよ。俺も女の香水のせいであんまり食べてないんだ。行くぞ」
亮一はそう言うと可南子が着ている寝間着の裾に手を掛けた。あっという間に下に着ていた保温効果のある長袖のインナーまで一緒に頭から抜かれてしまう。首でもたつくことなく抜けた服の下は何も着ていない。
「え、ちょっと待って」
粟立った形の良い白い乳房の中、寒さで起立した桃色の蕾が震えた。可南子が隠そうとして交差させた腕の手首を亮一は掴み、そのまま可南子の前に膝をくと、息が掛かるほど乳房に顔を寄せた。亮一の呼吸を感じ痺れが身体を駆け巡った。可南子はもがいたが亮一の力にまったく敵わない。甘い誘惑へ自分を解き放ちたくなる気持ちは、内腿を擦り合わせてどうにか抑える。
胸元の赤い所有の痕に口づけられると、亮一の髭がザラリを肌をこすり、その部分だけが恍惚とした熱を持つ。
「抱かれるのと」
ふぅっと、蕾に熱い湿った息を吹き掛けられると刻み込まれた官能が芽吹き身体が戦慄いた。
「……うどん。どっちが良い」
「…………うどん」
「よし、着替えてくれ。行くぞ」
かろうじて答えると、手首はぱっと離された。亮一は着替える可南子に背を向けて視線を外す。打って変った紳士な態度に可南子は唇を噛む。拒否するとわかっていて、あんなことをしてきたのだ。亮一のペースに乗せられて、可南子はいつも前を向く。
可南子は視線をフローリングの溝に落として、手紙のことを思った。相談すれば亮一はすぐに一緒に考えてくれる。むしろ、内容が内容だけに相談しないと怒るはずだ。
まだ体温に馴染んでいないセーターとスキニーのパンツは肌に冷たかった。可南子は自分に背を向け、立ったままスマートフォンを触っている亮一を厚手の靴下を履きながら見上げる。
高い背に広い肩幅には黒のトレンチコートが良く似合っている。身支度を整えた可南子は立ち上がると、亮一の背中から筋肉質の厚い胸に手を回した。背中に頬を押し付けて、その硬さを味わう。
「女の人に、連絡先とか聞かれたの?」
「……珍しく直球だな。聞かれた。異業種交流みたいな飲み会だったから名刺を渡した。連絡先だな」
「名刺に、プライベートな番号も書いたの?」
「へぇ、嫉妬か」
亮一の口調に機嫌の良さが滲んでいる。可南子が眉を顰めると亮一の胸に回している手がぽんぽん、と軽く叩かれた。
「ここ数カ月、俺が嫉妬してばっかりだったから、バランスが取れたんじゃないか」
「……嬉しそう」
「そりゃぁ、ナンパはされていないだ、あれはただの後輩だと、頑固に狙われている事を認めようとしない人妻が、ちょっとは変わるんなら嬉しいよな」
「嫌味を言う時って饒舌」
可南子は亮一に回した腕にぎゅ、と力を込めた。この硬い感触も温もりも、誰にも渡したくない。
「……うどんじゃなくて、一緒に寝たいって答えてたら、どうしたの」
ここ最近、亮一は紅い痕を刻むことを忘れない。時々、可南子にも付けるように言ってくる。今も亮一の胸元には可南子が付けた痕があるはずだ。なかなか痕をつけることができない可南子の髪を指に巻きつけながら、亮一はその様子を眺めていた。愛し気に見つめてくる亮一の顔は忘れられるものではない。その時の事を思い出して顔を赤らめながら聞くと亮一は可南子の手を解いた。
「抱いて、うどんに行くな。そうか、抱かれたかったのか。なら、うどんの後にセックスして寝よう」
「違う、例えで聞いたの。うどんを食べに行こうよ」
「かなから誘われたんだぞ。抱く」
「誘ってないよ。例えだってば」
「誘って無いと断言されて傷ついた。抱く」
「もう! うどんが食べたいから、行こう、ね?」
可南子は亮一から身体を離して腕を引っ張る。亮一は可南子の焦った顔を見て口元を綻ばせた。
「元気が出てきたな。うどんで仕上げだ」
亮一は可南子の髪を一房手に取って零した。自分の髪から繊細な楽器の音がした気がして、可南子は泣きそうになる。
どこまでも優しい亮一に可南子は掴んでいた腕を使って背伸びをすると、亮一の頬に口づけた。
緩んだ寒気にホッとしていた気持ちが引き締まる。
珍しく広告が入っていない銀色の狭い空間に、見覚えのある字で自分宛ての封書が一通あった。
……お母さん。
母親の字を見てずん、と胃の辺りが重くなる。わざわざ手紙を寄越してきた事に嫌な予感しかしなかった。感じていなかった疲れが肩に圧し掛かる。
不安からはやる気持ちを感じながら家に帰り、まず暖房をつけた。温かいお茶を用意してから開封しようとしたが、湯を沸かす間に開けて読んでしまう。目を通すと吐き気にも似た痛みに襲われて、可南子はコンロの火を止めた。
『昔は嫁に入ると、三年子なきは去れと言われたものでした。志波さんのご両親の温情の上に胡坐をかいて、出世も見込めない仕事を続けているのは我がままですよ。このまま子供がいないのであれば、亮一さんが他に女性を作っても文句を言えない状況です。最近は不妊治療専門の病院があるとお友達に聞きました。評判が良いと言われている病院の名前を電話番号を書いておきます。自分で良いと思う場所に今すぐ通うように』
血の気が引いた浮遊感を感じながらリビングに入ると、ソファに座り背中を預けた。喉の引きつるような違和感と、目の奥に鋭い痛み。見上げた天井がぼやけた。目が少しでも腫れないようにと零れ落ちた涙は拭わなかった。
亮一が飲み会で遅くなる予定で良かった、と可南子は弱々しく微笑する。
深く息を吸って吐くと手紙を持って立ち上がり、玄関を入ってすぐの使っていない部屋に入った。クローゼットの中に置いている夏用のカジュアルな帆布のバッグを取り出して、封筒に入れた手紙を隠すように底にしまう。
無表情で部屋のドアを後ろ手で閉めて、可南子は玄関のドアを見つめる。
……疲れる。
怒れるのが正しい反応だろう。原因は全て可南子にある、母親にそう決めつけられた内容だった。背中から手を突っ込まれて何かを引き抜かれたようだった。無気力で身体が重く気怠い。昔なら母親の古めかしい個性的な態度にも心構えがちゃんとできていた。亮一に大事にされる幸せな生活の中、緩んでいた気持ちを苦々しく思う。
亮一の両親が子供の話を避けてくれているのは気づいている。母なりのやり方で二人で話し合えと言ってきたのだ。メールでは読まないと思い、わざわざ手紙で送ってきたのだろう。
プライバシーに踏み込まれた不快感は、棘で突き刺されたように抜けない。可南子は食事をする気にもならずシャワーを浴びるとベッドの中に潜り込んだ。口元まで毛布を引き寄せて、短く浅くなる呼吸を意識して長く深くする。
子供のことは落ち着いてから、と亮一と話していた。可南子が新しい仕事に慣れてきた頃、亮一の仕事が忙しくなった。亮一の出張が落ち着いたのはここ半年くらいだ。可南子が妊娠してもそばにいられない状況で子供は考えられないと、たまに怠る事はあったが、亮一は避妊をしてくれていた。
……赤ちゃん。
真剣に考えていなかった自分がいる。亮一といるのは幸せで楽しい。子供の事は心を掠めても、今はまだと思っていた。だが、亮一はどうだったのだろう。結婚後に仕事を辞めて子供を中心に考えた方が良かったのだろうか。何度も話し合ったはずなのに、手紙をきっかけに可南子の心に不安がよぎる。
亮一は可南子の仕事に理解を示してくれている一方で、辞める事も問題を感じていない。亮一は『贅沢を言わなければ大丈夫だ』と言う。
一緒に寝ているベッドから亮一のにおいがした。ベッドの中が温まっていくにつれて、亮一に包まれているような気がしてくる。温かくて優しい、安心をくれた人のにおいだ。
……亮一さん。
この温もりは誰にも渡したくない。可南子は自分の肩を抱く。
……子供ができなかったら、亮一さん。
作らない、と、できない、は違う。その差があの手紙で刻み込まれた気がした。可南子は動揺で痙攣した目で瞬きする。
他に女性を作っても文句を言えない状況、という母親が書いた字が脳裏に翻り踊った。不安で敏感になった心が、布団の中に入ってきた冷気にさえ悪い意味づけをしようして慌てて首を振る。
亮一が掛けてくれる言葉と眼差しを、呼吸と一緒に反芻する。大丈夫、大丈夫、と積み重ねた毎日を思い出しながら自分に言い聞かせていると、寝室の外から物音がした。亮一が帰ってきた、と可南子は身体を強張らせて目をぎゅっ、と閉じた。足音は迷いなく寝室に近づき、ドアは音も立てずに開かれる。ドアに背を向け毛布にくるまっていた可南子に、リビングから漏れた明かりが差し込んだ。
亮一の足音は可南子が身体を向けている側に寄って来た。ベッドのスプリングがぐっと沈み込み、亮一がベッドに腰かけたのがわかった。
「何かあったか」
起きていると確信している亮一の声に可南子は固くつぶっていた目を開けた。顔だけ可南子に向けている亮一の目と合った。暗がりに慣れた目は、亮一の表情を見て取る。驚くほど、優しい。
「……どうして」
「可南子は隠すのが下手だ。俺は見抜くのが得意だ。以上」
亮一はコートも着たままで、手には黒の皮の手袋を持っていた。その手袋の指先で可南子の頬をくすぐる。
「ほら、喋ってしまえよ」
「や、やめて」
くすぐったさに可南子が毛布の中に潜ると、毛布の上から羽交い絞めのように抱き締められる。こそばゆく幸せな扱いはずっと続いている。
「く、苦しい!」
「なら、話せ」
がばっ、と毛布をはぎ取られた。ぬくぬくとした布団の中から一転、寝室の冷気に晒される。毛布を掴んで引き寄せようとすると亮一に抱き締められた。コートからは外のにおいがした。タバコ、油、そして、香水。可南子の目が淀む。
「……香水」
「ああ、隣に食べ物の味がわからなるくらい香水を振ったのがいたな……移ってるか」
「……女の、人?」
「どう思う?」
やっぱりモテる、と諦めにも似た気持ちになる。亮一の肩越しに暗い天井を見た。寒さに身体が冷えていく。明るく答えようと、正しい反応を探す。考えれば考えるほどわからなくなって、開いた口を可南子は何度も閉じた。
可南子の強張った身体の下に亮一の手が回された。そのまま抱いて持ちあげられて可南子は「亮一さん!」と抗議の声を出す。
軽々と可南子を抱えた亮一はそのままリビングに移動しソファに下ろす。それから寝室に戻りクローゼットから取ってきたセーターとスキニーパンツ、靴下を可南子の膝の上に置いた。
呆気に取られて見上げる可南子に、亮一は首の後ろを撫でながら言う。
「食事もとらずに不貞寝するから、わけがわからなくなるんだ。ラーメンでも行くか」
「酔っぱらいの締め……」
「飲んでないから、酔っぱらいじゃない。うどんでも良いな。おでんが置いてる」
亮一は着替えようとしない可南子の前に立つと、わざとらしく、思い悩んだように腕を組んだ。
「なるほど。着替えさせて欲しいか。そうか」
「違う! お腹減ってないし、寝たいし」
「食べたら腹が減ってる事に気づく。行くぞ」
「化粧も落としたし」
「美人だから問題ない。着飾って『また』男に声でも掛けられたいのなら別だが」
「声なんか掛けられてないもん。び、美人じゃないし」
「かな、美人じゃないとか、俺の奥さんを悪く言うなよ。俺も女の香水のせいであんまり食べてないんだ。行くぞ」
亮一はそう言うと可南子が着ている寝間着の裾に手を掛けた。あっという間に下に着ていた保温効果のある長袖のインナーまで一緒に頭から抜かれてしまう。首でもたつくことなく抜けた服の下は何も着ていない。
「え、ちょっと待って」
粟立った形の良い白い乳房の中、寒さで起立した桃色の蕾が震えた。可南子が隠そうとして交差させた腕の手首を亮一は掴み、そのまま可南子の前に膝をくと、息が掛かるほど乳房に顔を寄せた。亮一の呼吸を感じ痺れが身体を駆け巡った。可南子はもがいたが亮一の力にまったく敵わない。甘い誘惑へ自分を解き放ちたくなる気持ちは、内腿を擦り合わせてどうにか抑える。
胸元の赤い所有の痕に口づけられると、亮一の髭がザラリを肌をこすり、その部分だけが恍惚とした熱を持つ。
「抱かれるのと」
ふぅっと、蕾に熱い湿った息を吹き掛けられると刻み込まれた官能が芽吹き身体が戦慄いた。
「……うどん。どっちが良い」
「…………うどん」
「よし、着替えてくれ。行くぞ」
かろうじて答えると、手首はぱっと離された。亮一は着替える可南子に背を向けて視線を外す。打って変った紳士な態度に可南子は唇を噛む。拒否するとわかっていて、あんなことをしてきたのだ。亮一のペースに乗せられて、可南子はいつも前を向く。
可南子は視線をフローリングの溝に落として、手紙のことを思った。相談すれば亮一はすぐに一緒に考えてくれる。むしろ、内容が内容だけに相談しないと怒るはずだ。
まだ体温に馴染んでいないセーターとスキニーのパンツは肌に冷たかった。可南子は自分に背を向け、立ったままスマートフォンを触っている亮一を厚手の靴下を履きながら見上げる。
高い背に広い肩幅には黒のトレンチコートが良く似合っている。身支度を整えた可南子は立ち上がると、亮一の背中から筋肉質の厚い胸に手を回した。背中に頬を押し付けて、その硬さを味わう。
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「……珍しく直球だな。聞かれた。異業種交流みたいな飲み会だったから名刺を渡した。連絡先だな」
「名刺に、プライベートな番号も書いたの?」
「へぇ、嫉妬か」
亮一の口調に機嫌の良さが滲んでいる。可南子が眉を顰めると亮一の胸に回している手がぽんぽん、と軽く叩かれた。
「ここ数カ月、俺が嫉妬してばっかりだったから、バランスが取れたんじゃないか」
「……嬉しそう」
「そりゃぁ、ナンパはされていないだ、あれはただの後輩だと、頑固に狙われている事を認めようとしない人妻が、ちょっとは変わるんなら嬉しいよな」
「嫌味を言う時って饒舌」
可南子は亮一に回した腕にぎゅ、と力を込めた。この硬い感触も温もりも、誰にも渡したくない。
「……うどんじゃなくて、一緒に寝たいって答えてたら、どうしたの」
ここ最近、亮一は紅い痕を刻むことを忘れない。時々、可南子にも付けるように言ってくる。今も亮一の胸元には可南子が付けた痕があるはずだ。なかなか痕をつけることができない可南子の髪を指に巻きつけながら、亮一はその様子を眺めていた。愛し気に見つめてくる亮一の顔は忘れられるものではない。その時の事を思い出して顔を赤らめながら聞くと亮一は可南子の手を解いた。
「抱いて、うどんに行くな。そうか、抱かれたかったのか。なら、うどんの後にセックスして寝よう」
「違う、例えで聞いたの。うどんを食べに行こうよ」
「かなから誘われたんだぞ。抱く」
「誘ってないよ。例えだってば」
「誘って無いと断言されて傷ついた。抱く」
「もう! うどんが食べたいから、行こう、ね?」
可南子は亮一から身体を離して腕を引っ張る。亮一は可南子の焦った顔を見て口元を綻ばせた。
「元気が出てきたな。うどんで仕上げだ」
亮一は可南子の髪を一房手に取って零した。自分の髪から繊細な楽器の音がした気がして、可南子は泣きそうになる。
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