優しい手に守られたい

水守真子

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番外編

番外編 俺の妻は可愛い考える葦 1

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「ねぇ、志波君。また学年一位なんだって。彼氏がこんなすごいと鼻が高いよね!」

 目の前の女の顔はのっぺりとしていて口だけが動いている。
 横で「やめてよ」と照れたようにその女の肩をゆすっている女の顔ものっぺりとしている。
 渡り廊下ですれ違いざまに話しかけられて、これだった。
 飲んでいた紙パックの牛乳をズズッと吸い終えて、片手でぐしゃりと潰す。

「勉強もスポーツも出来てさ! この子、自慢の彼氏だって、ずっと言ってるんだよー」

 予鈴が鳴った。
 校舎と校舎の間で響く音は、教室で聞くよりも鈍く耳に届く。

「亮一、今度、いつ会える?」

 照れた方の女が見上げてきた。
 
「……いつでも」
「今日、家に行ってもいい? 勉強、わからないところがあって教えて欲しいの」
「いいよ」
「じゃぁ、靴箱で待ち合わせで」
「ああ」

 空っぽの心の中に予鈴の余韻が鳴り響いている。
 成績が良い。
 スポーツが出来る。
 背が高い。
 かっこいい。
 自慢の彼氏。
 聞き飽きたフレーズはずっと付きまとって離れてくれない。

 ある日、メールが入る。
 勉強している間ベッドの上に置いていた携帯は、ランプでメールの受信を知らせていた。
 嫌な感じがした。

『別れよう』

 予感はだいたい的中する。

『わかった』

 すぐにそう返して、机の上に携帯を置いた。
 勉強せずに成績を維持できるような天才ではない。
 だから勉強をする。
 スポーツも続けている。
 そのせいで出来ているように見えるだけだ。
 いつだって、目をつぶればすぐに眠れる。
 毎日、それくらい自分を限界に追い込んで生きている。
 それだけだ。

『私の事好きじゃないなら、断ってくれれば良かったのに』

 結衣から散々言われている事と、同じ台詞がメールで入ってきているのを確認したのは朝。

『悪かったと思ってる』

 いつも通りの返信をすると、通学鞄の中に携帯を入れる。
 階下に降りて、母親が作ってくれた朝食の味噌汁を飲む。
 母親と妹は毎朝何かを言い争っていて、父親はそれ口元に笑みを浮かべながら聞いている。
 赤だしの味噌汁が胃に染みて、元々高い体温が上がっていくのがわかった。

「だーかーらー、私はりょうさんとは違うの!」
「当り前よ! ただでさえ胃に穴があきそうなのに、亮一が二人もいたら、胃が幾つあっても足りないわよ!」
「……牛かよ」
「ああ!?」

 共通の敵を見出した女二人は、ぎゃいぎゃいと亮一について文句を言い始める。
 右から左に聞き流して「ご馳走様」と手を合わせ、いつも通り台所で自分が使った食器を洗う。
 すると、母親は攻撃の手を緩めた。

「見習ってもいいんじゃないの?」
「できの良い兄なんて持つもんじゃなーーい!」

 妹が叫ぶのを背に玄関を出た。
 すると隣の家の前に結衣がいるのが見えて身構える。
 絶対正義という名の元に攻撃の手を緩めない幼馴染は面倒だ。
 だが、今日はこちらを見ずに同じ制服を着た女の頭をニコニコと撫でていた。

 ……可南子。

 着ているのは『頭は良いが制服はダサい』高校として有名な、白いブラウスに紺のブレザーとプリーツスカート。
 肩に付くか付かないかの艶のある黒い髪は、結衣に撫でられて乱れている。
 大きな目を輝かせた可南子は朝の気怠さなどまったく感じさせず、笑顔で結衣と話していた。

 ……ああ、そうか。俺の彼女は可南子だった。

 途端に胸の中が満たされて、温かくなっていく。

「可南子」

 一緒に学校へ行こう。今日は結衣の家に泊まったのか。何で言ってくれなかったんだ。
 幾つもの問いかけが浮かび、可南子に聞きたいと気持ちが逸(はや)ると口がむずむずとした。
 二人が同時にこちらを向く。
 結衣は白い目を向けてきたが、可南子は大きな目を輝かせてこちらを見てくれている。

「可南子、おはよう」
「おはようございます」

 愛らしい声が耳を撫でた。
 胸の中が甘酸っぱく締め付けられ、顔が緩むのを止められない。
 可南子が結衣そばから離れて、こちらへ駆け出してきた。
 抱きとめるつもりで亮一も早足で近づく。
 ふと可南子の視線の先に不安を感じた。少し遠くを見ている。

「かな……」

 可南子が良い香りをさせて横を通り過ぎた。
 焦って後ろを振り向くと、可南子はのっぺりとした顔の男に寄って行き、嬉しそうな笑顔を見せている。
 肝が冷えた。
 手から落としてはいけない大事なものが、滑り落ちようとしている。

「可南子!」

 のっぺりとした男の口元が薄ら笑いを浮かべて、可南子の腰に手を回す。

 ……俺の妻だ、離せよ。

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。牙をむいて男を睨む。

 ……離せ!

 瞼が開いた。
 目に入ったのは白い枕カバー。
 隣の可南子に手を伸ばすと、腕が冷たいシーツの上を掻いた。
 じっとりと浮かび上がった汗が、クーラーの冷気で冷やされる。

「……まだ、二日だぞ」

 大きなため息をついて、亮一は自分で見た夢と、今の焦りを自嘲する。
 可南子は木曜日から有給を取って二泊三日で友人と旅行へ出かけていた。
 土曜日の今日、午前中に帰ってくる。
 亮一は午前中にジムへ行き、旅の荷物を置いた可南子と外で待ち合わせて、遅めの昼食を取る約束をしていた。
 
 ……変な夢を見た。

 起き上がると亮一は自分の額を撫でる。
 二度寝する気にもならずスマートフォンを持って寝室から出ると、広く感じるリビングに足を踏み入れた。
 平日はまだ良いが、休みの日は気が緩んでいる分、その静かさが嫌になる。
 静寂に自然と顔が渋るが、誰に見せるわけでもない。
 コーヒーでも淹れて落ち着こうと、スマートフォンをテーブルに置いた。
 台所に入り、道具を片付けている吊り棚に手を伸ばした。
 扉を開けて、閉める。
 その手を流しに下ろして縁(ふち)を握った。
 今日は、興味深く手元を見てくる可南子がいない。
 一緒に住んでからずっと、可南子は亮一のコーヒーを入れる様子をきらきらとした目で見てくる。
 それが無いのに淹れるのも変な気がした。
 落ち着かない気分のまま冷蔵庫を開けてペットボトルの水を出す。

「かな、水……」

 無意識に二本のペットボトルの首を右手の指の間で挟んで持っていた。
 自然に口から出た名前の主は、今日はいない。

「…………」

 自分が出張で家を空けがちだったことを思い出す。
 可南子はあの頃、こういう思いをずっとしていたのかもしれないと、唐突に実感を伴って肩にのしかかった。
 結婚して一年目の結婚記念日辺り、あの時の可南子の涙を思い出して、亮一はペットボトルを二本持ったままリビングに移動する。
 どかっとソファに座って、水をテーブルの上に置く。
 ブルブル、とテーブルのスマートフォンが鳴って、着信を知らせた。
 画面には可南子の名前。
 亮一は飛びつくように取ると電話に出た。

「もしもし」
『おはようございます。起こしましたか?』
「起きてた。おはよう」
『良かった』

 元気そうな可南子の声に、心の底からほっとする。

『予定通り、帰りますね。亮一さん、お仕事とか大丈夫?』
「可南子が一番だ」
『ん? なに?』
「今日の予定は、可南子だ。仕事はしない。待ち合わせの場所で待ってる」
『予定が私? え、無理しないでね。ジムに行ってね』

 可南子のよくわからない、といった口調に、軽い苛立ちを覚えた。
 
「ジムには行く。でも、可南子が」
『あ、ごめんね。友達が来た。じゃ、後で。ダメそうなら連絡してね』

 待っているだけ。
 この、置いて行かれているような寂寥感は理屈じゃない。
 視界を曇らせる不安は大きくなる。
 結婚して三年だから落ち着け、そう言われる。

 ……俺は、これを我慢できない。

 慌ただしく切られそうになった電話に向かって、亮一は大きな声を出す。

「会いたい。迎えに行きたいくらいだ」

 ジムだって、休んでもいい。
 誰に強制されてしていることでもない。
 可南子に、会いたい。

『…………私も、会いたいです。すごく』

 可南子の周りを憚ったような小さな声は、外の雑音にかき消されそうだった。それでも照れた愛らしい声に、亮一は冷静さを取り戻す。

「……昼飯を一緒に食べるの楽しみにしてる」
『私も、楽しみです』

 電話を切った後の部屋は、やはり静かだった。
 これが心地よい時もあったが、その感覚はもう覚えていない。
 可南子が人生の一部になって、それが無くなることは考えられなかった。
 支配したいわけじゃなく、一緒にいたい。
 
 ……夢に見たか。

 嫌な予感がするな、と亮一はジムに行く準備をするのに立ち上がった。
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