優しい手に守られたい

水守真子

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番外編

番外編 結婚一年目は遠距離で 後編

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 ◇

 冬のにおいがする夜はもう寒い。可南子は巻いた大判のストールと首の隙間を埋めるように形を直す。
 空を見上げてもネオンで明るい都会の地上から星は見えない。濃紺の夜空の中に月が浮かんでいるだけだ。
 亮一と一緒に行った温泉旅行で見た夜空は綺麗だったな、と懐かしく思い出す。

 今日は一カ月遅れて迎えた結婚記念日の食事だった。亮一は美味しいが気取らない寿司屋を予約してくれていた。
 やはりノンアルコールビールを頼んだ亮一に「お酒は」と聞くと「これでいい」とだけ返された。無視されているわけではないし、態度が冷たいわけでもない。だが、目が合うと微妙に逸らしたり、かと思うとじっと見てきたりして様子が変だった。
 どこか噛み合わない会話に徐々に口数が減っていく。食事は美味しいのに、途中から味を感じる余裕もなくなった。

 店を出て手を繋ぐわけでもなく、少し前を歩く亮一の背中は大きくて少し遠い。ジムに行けなくてもストレス解消の筋トレはしているらしく体躯は相変わらず立派だ。通り過ぎざま、亮一の姿を二度見する女性も相変わらず多い。亮一を見た後、隣の可南子に視線が移ってきて目が合う時もある。その視線はだいたい不躾であまり良い気分はしない。

 ……あ。

 履いていたヒールのストラップの留め具が外れて可南子は歩みを止める。亮一に声を掛けようとしたが、少し前を歩いていた亮一は気づかずに人混みに紛れて進んでいった。

「……」

 亮一の後姿は二人の間にできた溝を表しているようで、可南子の息が詰まった。急いでストラップをはめようとしたが小さい金具でうまくいかない。
 帰るのは、同じ家だ。すれ違っても同じ場所に行き着く。
 電話すればいいか、と自分を慰めて小さく息を付くと、可南子は人の邪魔にならないように道の端に寄った。

 言ったことは取り戻せない。可南子は目の色を暗く沈ませた。
 あの時、我慢していれば良かったのだろうか。
 後悔しても仕方のない事を考えながらストラップをはめると、ずり落ちたバッグを肩に掛けなおして背筋を正す。

 すると、目の前を送別会のような雰囲気の団体が横切った。次はカラオケで飲みなおしだ、酒で呂律の怪しい声に賛同する声で辺りがざわざわと騒がしくなった。通り過ぎるかと思ったのだが歩みが遅くなって立ち止まる。
 
 よくあることに可南子は微苦笑して、その団体の向こうに頭一つ出ているはずの亮一の姿を背伸びして探す。だが、見つからずバッグの中のスマートフォンを探しながら、人の間を縫うように進んでいくと、笑いながら後退してきた男にぶつかってよろめいた。

「すいません! 大丈夫ですか!」
「あ、大丈夫です。こちらこそ、ごめんなさい」

 そう言って顔を上げると、酒に顔を赤らめたスーツ姿の男に、可南子は顔を凝視された。その視線の強さに、何か問題でもあったのかと顔が色を失っていく。
 身構えた時「可南子!」と自分を呼ぶ声が聞こえた。週末の人通りの多い道、数メートル向こうの亮一と目が合った。
 置いて行かれたのは自分だと、可南子は思う。それなのに、痛みに顔を歪ませた亮一が必死な顔でこちらに近づいてきている。可南子はぶつかった男に会釈すると、亮一へと足を踏み出した。
 目の前まで来た亮一は可南子の肩に手を置くと、可南子が来た方向を睨みつけた。あまりの迫力に「ごめんなさい。靴が」と言うと、亮一が頭を激しく左右に振った。

「すまない、考え事をしていた。大丈夫か。靴擦れか? どこかで休むか」

 心配そうに足元を見やり、矢継ぎ早に言葉を紡がれた。

「違うの、靴の留め具が外れたの」
「すまん、考え事をしてた……。本当に、すまない」

 急に亮一に肩を抱き寄せられて、心臓が跳ね上がった。人通りの多さに可南子は顔を真っ赤にして身を引いた。激しく打ち始めた鼓動が痛くて、呼吸が乱れる。
 すると、顔を歪ませた亮一が可南子の手首を引っ張って歩き出した。

「どこに行きたい」
「どこって、家」
「週末だし、今日は結婚記念日の埋め合わせだ。急いで帰る必要もない」
「いつだって良くしてもらってるから、十分なの。今日のお寿司も、楽しかったし……」

 何度も亮一の顔色を窺った事が思い出されて、そのまま可南子は黙った。

「……すまん、考え事をしてたんだ」
「なら、帰ろう。仕事を進めたら気分が良くなりそう? 今から会社に戻る?」

 可南子が腕時計を見ると、亮一は可南子から時計を上から手首ごと掴みなおした。仕事の後に待ち合わせてから初めて触れた熱い手だった。
 時間を見るな、と亮一に射るような目を向けられて、可南子は久しぶりの戸惑いに耳まで赤くなっていく。

「どう、したの」
「仕事じゃない。考えていたのは、可南子の事だ」
「私?」

 そのまま手を引っ張られて「行こう」と言わる。

「……結衣から、可南子の話を聞いてた」

 ぼそりと結衣の名前を出した亮一は歩みを止めなかった。ただ、歩く速さは可南子に合わせてくれていた。人の流れよりも僅かに遅い歩みに、どんどん後ろから追い越される。
 週末の喧騒はどこか明るい。飲食店から風にのって流れてくる食事の匂いと騒々しさが、街に開放感を漂わせている。
 亮一は自分と対面しているような、記憶をたどるような目をしていた。可南子はどこに行くのかと聞けないまま、亮一の話に耳を傾ける。
 
「結衣が可南子の事をすごく可愛いと言っていた。最初は嘘だと思ってたんだ」
「はい」
「受け入れるの、早いな」

 亮一の笑顔につられて可南子も笑むと、亮一はふぅっと息を吐いた。

「可南子と初めてすれ違った日、胃まで掴まれた。いなり寿司、うまかったよ。これ、言ってたか」

 正直に首を振ると、亮一は「そうか」と呟いて、また遠くを見た。

「本当に、すれ違ったの、覚えてないのか。一度じゃないんだ。駅で結衣に紹介もされてる」
「ごめんなさい。その」
「いいんだ。責めてるわけじゃないし、可南子が嘘を言うわけないともわかってる。……ただ、聞きたかったんだ」

 亮一は可南子の手首を掴んでいた手を放して、可南子と手を繋ぐ。可南子は大きな手に包まれた手が、ほっと息をした気がした。

「……昨日、可南子が『恋する乙女』になっていると聞いた」
「は……あ。え、だ、誰、なに、誰にですか」
「あー、緑山に。彼女経由だな」
「さ、早苗!」
「出張中、会えなくて寂しいとか、連絡をしていいかわからないとか」
「……」

 本人の耳に入ると思って喋るはずがない。本人に伝えても恥ずかしいことを、巡り巡って亮一の耳に入った事実を受け入れられず可南子は真っ赤になって喘いだ。先程まで寒かったのに、今は焦りで暑い。

「本当だったか。そうか」

 可南子の反応に亮一が満足そうに笑んで、横断歩道の前で立ち止まった。信号が変わるのを待つらしい。駅からだいぶ離れ、道幅は狭くなったが人の多さは変わらない。
 誰かに押されるように亮一に密着すると、亮一は可南子を守るように腰に手を回した。

「……初めて会った、広信の結婚式の三次会。広信に酔った可南子を送れと言われた。その時、よろめいた可南子を」
「い、言わないで。すごく反省してるから」
「あの時、嫌がられても、絶対に離さないと決めた」
「……え」
「それで、とにかく囲い込んだ。広信からはかなり注意されたな。本当に、すぐに結婚したいと思った。そしたら、可南子は法的に俺だけの可南子だ」

 信号が青になって横断を知らせる鳥の声を真似た電子音が流れる。可南子は促されて歩き出すときに、亮一の顔を見上げた。視線に気づいた亮一が可南子に微笑する。その微笑は角砂糖のようで、胸の中で砕けて溶けて、体中に広がった。中毒性のある、引き寄せられてはまた口に入れたくなる甘さだ。
 急にどうしたのだろう、と困った顔を向けると、亮一は表情を少し硬くした。

「その気持ちが、結婚した後も続いてる。それなのに、仕事で手いっぱいだったのと、結婚した安心感で、可南子の気持ちを放っていた」

 どきり、として可南子は反射的に体を強張らせた。結婚して、部署移動した亮一は忙しくなった。もともと集中しだすと、その集中力から周りが見えなくなる人であった。その傾向に、出張が重なった。
 それでも亮一は優しかったし、家事も当たり前に分担してくれていた。そんな恵まれた状況で、自分が感じていた寂しさは贅沢だろうと思った。

「あの、私」
「俺の態度に呆れたと思う。だが、残念だが俺は別れる気がない。そこは諦めてくれ」
「諦める?」
「そうだ、諦めろ」

 ポカンと口を開いて亮一を見上げようとすると、亮一に頭をポンポンと撫でられた。
 横断歩道を渡って少し急な坂の道に進むと、途端に人通りが少なくなる。坂道の途中、赤煉瓦が埋め込まれた壁に、重そうな木の扉、その軒先からランタンがぶら下がっている店の前で亮一は足を止めた。

「……会った頃から、俺はずっと自分の気持ちを押し付けてるな」
「あの」
「可南子が俺に恋してるって聞いて、自分が嫌になったよ。酒、付き合ってくれるか」

 亮一が目の前の店を顎で指した。ドアの横にある素朴な看板には、酒が入ったグラスの絵と店の名が英語で書かれてた。

「……お酒、飲まないって」
「一度しか、言わないぞ」
「何を?」
「俺は可南子より五歳も上だ。男女の寿命からいっても俺が先に死ぬ。だから、酒を控えてる」
「……?」
「長生きしたいんだ。可南子と一緒に」

 とってつけたようにも感じることを言われて可南子は瞠目した。そんな事を亮一の口から聞いたことも無かったからだ。
 また、むくむくと一か月前のことが思い起こされて、だったらと思う。

「なら、どうして女の人と飲み比べしてたの」
「二人では飲んでないぞ。三人は必ずいる」
「論点ずらした」
「そういうところも好きだ。流されないよな」
「また」

 ふいに亮一が身を屈めた。
 噛んでいたガムの匂いと共に「好きだ」と柔らかい感触が唇に触れて、可南子の傷んだ心が凪いた。誤魔化されたと思う気持ちも背骨から抜けていく。
 離れる亮一の目に泣きそうな気配を感じて、可南子は息を呑んだ。

「可南子と飲む一杯は、本当にうまい」
「でも」
「広信達とは酒量が合うから楽なんだ。飲み比べは、悪かった」

 店の前で話していると横から来たサラリーマンの二人連れが先に店のドアに手を触れた。キスを見られていたのではないかと、可南子は咄嗟に顔を隠すように亮一の腕に額を押し付ける。
 カランカランとドアのベルが鳴り、ドアの隙間から店の中が覗けた。飴色のカウンターと、奥の棚に並ぶ色とりどりの酒瓶。品のいいジャズが流れてきて、重い扉が閉まるのと同時に音が止む。

「酒を教えて……素直に嬉しそうな顔をする可南子が好きだ。可南子が、あの笑顔を誰にもでも見せているわけがない」
「……ねぇ、どうしたの」
「そういう事を考えてたら、すごく照れた」

 今朝、亮一は可南子よりもかなり早く家を出た。仕事がまた大変なのだろうと思っていた。どことなく、上の空だったのも忙しいからだと。
 亮一は可南子の目の前に立つと、手に持っていた鞄を脇に置いて可南子の両手を持った。亮一の熱い手と視線を受けて、可南子の目は自然と潤んで光を湛える。

「好きだ、可南子」

 二年間で何千回も亮一に言われた「好き」の中で、一番に穏やかな輪郭を持ったものだった。言葉の火影は忽然と肌を焼く。汗が噴き出して、体の奥深くが疼いた。

「愛してる。このまま夫婦として、生きていきたい」

 活発になった脈動と、窮屈に感じる呼吸。この二つに可南子は言葉を忘れ、代わりに涙が一筋、頬を伝った。想いに耽るには亮一の熱い体温も言葉も重厚で、考えるよりも先に体が動き、亮一の胸に頭をこつんともたせかけた。

「私と、これからもお酒を飲んでくれますか。一杯でいいから」
「ああ」
「あと、早苗の彼氏から、恥ずかしいから私の話を聞かないで……」
「それは、約束できない。可南子の話なら、誰からでも聞きたい」
「もう、何も話せない……」

 可南子が悲嘆にくれた小さな声を絞り出すと、亮一が笑った。そして、焦れたように可南子の手の甲を親指で撫でる。

「奥さん、返事を」
「一か月、遅れの?」
「痛いところをついたな」

 可南子が亮一の胸から顔を上げると、弱った顔をした亮一の頭上に月があった。綺麗だと思った。そして、あの温泉旅行の時に見た月と、酔いと、想いが恍惚と赤い血液に乗って体中を廻った。

「私は、亮一さんが好きすぎて怖い。我慢ができたはずの事が、亮一さんにはできない時がある」

 醒めかけた酔いを無理やり手繰り寄せてでも、一番そばにいたい。他の女ではなくて、自分だけを選んで欲しいと思う。

「……亮一さんと、一緒にいたいです」

 誰からも触れてほしくない扉に触れ、易々とそこを開けてくれた上に、抱きとめてくれたのは亮一だった。
 沢山の恩と、感謝と、尊敬がある。
 でも、今は。

「大好き。……返事になってる?」

 涙の筋の痕がある頬を僅かに桃色に染めて、可南子は亮一に微笑んだ。亮一が目を細めて顔を赤らめた気がした。だが、灯りを背にした亮一の表情は陰になり、可南子には幻のように朧に映った。

「嬉しい返事だ」
「お酒は」
「飲む。あと、ここはすぐそこがラブホテル街だ。俺は誘うから、考えておいてくれ」
「らぶ、ほてる」
「一本道を入ればたくさんある。知らなかったか」

 可南子は素直に頷く。亮一は外泊するときは高そうなホテルを取ってくれていた。行ったことも無いホテルの場所は知らない。だが、『なに』をする場所かは知っている。
 亮一は可南子の手を離して、脇に置いていた鞄を手に持った。

「行ったことないと聞いてから、連れて行ってなかったなと。どうかなと思ってたんだ、ああいう所。でも、可南子なら素直に喜びそうだと考えてた」
「まさか、お寿司を食べながら、そういうことも考えてたの?」
「食欲と性欲は切っても切り離せない。可南子を抱くなという方が」
「外だから!」

 慌てて声を大きくした亮一の口を手で塞ごうとすると、手首を掴まれた。肩に掛けていたバッグがぶらりと揺れて亮一の脇にぶつかる。

「今日、亮一さんがあまり喋らないから、私、心配だったのに」
「結婚記念に、俺に恋してる可南子を抱くとか緊張するだろ」
「い、意味がわからない。私、ずっと好きだって言ってるし……」
「寿司だけで良いというから、負い目もあってホテルを取ってなかった。が、可南子の横顔を見ながら抱きたいと思ってた」

 食事をしながら、そんなことを考えていたのかと呆気にとられている可南子とは対照的に、亮一は終始笑顔だ。

「無理強いはしないから、飲みながら考えてくれ」

 亮一は可南子の手首から手を離し、可南子の手を握る。そして、亮一は店のドア開けた。

「……わかってるくせに」

 ドアのベルの音に、可南子の呟きはかき消される。
 亮一の言葉、体温、視線がまっすぐに入り込んで来るたびに、体の中に埋められた交わりの残滓は芽吹く。咲かせてほしいと、手は勝手に亮一の腕に触れる。

 店員に案内されたカウンター席に着き、茶色の表紙のメニューを開いて眺めながら可南子は「女の人と来ていたんですか」と何気なく聞くと、亮一は少し眉を顰めた。

「……一人で来てた。こういう場所は」
「どうして。女の人、喜びそう」
「一人の方が気楽だろ。独身のつもりだったから、いろいろ開拓してた」
「あ、今、私と結婚したかったって、嘘になった」

 可南子がくすりと笑うと、メニューを上から取り上げられる。
 亮一はメニューを閉じて、指でをくいっと曲げて可南子を寄るように無言で示した。
 可南子が顔を寄せると店の僅かな喧騒を理由に、亮一は耳元で囁く。

「結婚したいと思ったのは、可南子が最初で、最後だ」

 耳に温かい息が掛かって肌が粟立った。薄いセーターの上から腕を撫でながら、可南子は長袖で良かったと思う。
 可南子は知る由もない未来を思い、疼きの奥深くに自分の身を置いた。
 そして、亮一の耳元に顔を寄せると、ドアベルにかき消された想いを密やかに伝えた。
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