優しい手に守られたい

水守真子

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両想い

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==可南子視点に戻ります==

 帰宅した亮一のコートの背中に付いた、化粧の後を見ながら、可南子は一緒にリビングに入る。
 話があると言われたのに、想像は悪いほうに膨らまない。ただ、ぐるぐると身体中を巡っている動揺に、自分はどちらへ向かうのかと、問いかけられている気がした。
 亮一の前では、自分以外のものにならなくていいのだと、肩の力は抜けている。
 
「亮一さん。私も、話があります」

 ソファのそばに引き出物の入った大きな紙袋を置いて、亮一は可南子を振り返った。
 何かを決心したように、大きな瞳を真っ直ぐに亮一に向ける可南子に、亮一は訝しむように眉間に皺を寄せた。それから可南子の手を取ると強く握る。

「何だ」

 コートも脱がずに自分を見る亮一の目が珍しく緊張している。可南子は握ってきた亮一の大きな手に、もう片方の自分の手を重ねた。どろどろとした酩酊から醒めた感覚は、亮一の不安を汲み取って、可南子に、自分が取ってきた態度を認識させる。
 普通の人なら怯むほどに強い視線を受けながら、可南子は目をそらさずに口元に繊細な微笑を浮かべた。

「好きです」

 可南子の突然の告白に、亮一が目を見開き、安堵の表情を浮かべる。だが、次の言葉を待つように、亮一は慎重に可南子を見つめ続けている。何度も伝え合った想いに触れても、昨夜から可南子の様子がおかしいことには変わりがなく、細心の注意を払っているようだった。
 可南子は、太陽が差し込んだ水面のように、すべてを魅入るような瞳を亮一に向ける。

「これから、ずっと、私を選んでくれませんか。一緒に、居たいの。亮一さんの時間も、全部、独り占めしたいくらい、一緒に居たいの」

 亮一が呆けたように力を抜いた手を、今度は可南子が力を入れて握る。

「いろいろ、気づくのが遅くて、ごめんなさい。……誰を、亮一さんが選ぶのかは、私が決めることじゃないけど、だけど、選ぶなら、私を」

 溢れ出した気持ちをそのまま言葉にして紡ぐと、涙が眦に浮かんだ。亮一の想いの深さに、無自覚に安穏と寄りかかっていた。今は、呼応して、同じ以上の気持ちを真っ直ぐと、相手へ届けようとしている。
 亮一の大きな筋ばったもう片方の手が、可南子のこめかみに触れて、黒い髪を梳くように、後頭部に向かって指を滑らせた。

「……選んでる。とっくの昔に」
「うん、ごめんなさい」
「……可南子は、俺を選んでくれるのか」
「選んでいます」

 会った時から、もう惹かれていた。
 そうか、と亮一は嬉しそうに整った顔を綻ばせ、そのまま可南子の髪に唇を落とす。
 亮一の嬉しそうな顔に心が弛み、可南子は息を吸い込むと、吐き出すその勢いのまま、言葉を送り出した。

「……亮一さん、コートの背中に、お化粧が付いています」

 コートを脱げば、背中に化粧が付いている事に亮一はすぐに気づくだろう。そして、それに可南子が気づいていたと勘付くはずだ。自分から言わない事で状況を複雑にさせてしまうのは避けたかった。
 僅かに張り詰めた可南子の声色に、亮一はハッとして可南子から身体を離すとコートを脱いだ。ついで、その背中を見て顔を顰めると、ソファにコートを投げ捨てる。
 亮一は真剣そのものの表情で、可南子を振り返った

「可南子、誤解だ。変な風に考えるなよ」
「うん」
「さっき言った、話があるって言ったのは、これだからな」

 亮一が女の人と何かあったとして、可南子はそれをとやかく言えない後ろめたさがある。亮一の顔を見上げる事ができずに、引き締まった厚い胴に手を回して抱きついた。固い胸に頬を擦り付けて、亮一が外から持って帰ってきた、タバコや甘い匂いを吸い込む。

「……どうした」
「昨日ね、会社で、抱きつかれたの。逃げられなかった。ごめんなさい」

 亮一が息を呑んだのが伝わってきて、胸に痛みが走り、可南子は回した腕に力を込めた。
 昨日の事をぽつぽつと口にすると、亮一の身体がどんどん強張り、纏う雰囲気がどんどん荒くなっていくのが肌でわかった。黙って聞いている亮一が、何を思っているのかを思うと、喉が渇いていく。
 亮一の腕が動いて、可南子の後頭部を大きく温かい掌が柔らかく撫でた。

「……怖かっただろう」

 責める事の無い、慮る思慮が重なった声色に、意図せず流れた涙が、頬を伝う前に亮一のスーツを濡らした。
 決して明るくない非常階段の照明と、重い扉が閉まる音が場景として、脳裏に浮かんだ。背中を撫で回された記憶が、冷たい重石となり、胃の辺りから、ぞわりと身体に影響を与え、鳥肌を立てる。
 背中を回した手をぎゅっと握って、亮一の胸の中が安全な場所であることを味わいながら、可南子は「怖かった」と素直に答える。

「さっき、逃げられなかったとか言ったよな。当たり前だ、自分が悪いと考えるなよ。俺だって、誰も来ないような場所で、自分より大きいのに来られたら怖い」
「……うん」
「頼むから、そういう事なら尚更、言ってくれ。可南子に何かあったら」

 亮一は言いかけて黙り、存在を確かめるように可南子を強く抱く。可南子も、亮一の背中に回した腕に力を込めた。

「今度から全部言います。……でも、ちゃんと、自分で断れたから」
「……どうやって」
「電話で、好きになれませんって言いました」

 ぐすりと鼻を鳴らしながら言うと、亮一の纏っていた空気がやや砕けて、溜息が聞こえてきた。

「可南子がストレートにものを言うってのを忘れてた。今、電話って言ったな。そいつの電話番号を教えてくれ」
「亮一さんの背中のお化粧だって」
「それだ、その話だ」

 可南子が身体を少し離すと、亮一は親指で可南子の頬に伝う涙を拭いながら淡々と話し始めた。
 大学の時に付き合っていた彼女に、後ろから抱きつかれたが、力の差を考慮してすぐに振り払わなかったこと。かなり前から、結衣に復縁を求めて接触してきていて、それをやめさせるために電話番号を教えたことなど、それらを話す亮一はいつも可南子の前では見せない冷たさがあった。
 聞きえ終えた可南子は、亮一の冷淡な色を浮かべた、切れ長の目元を指で触れる。

「……モテるの、大変でしたよね」

 可南子の言葉に、亮一は口を開こうとして、複雑そうに顔を曇らせ、口を閉じる。
 人から良いと評されるようなことでも過ぎれば酷だ。それを自分が好んでいなければ、ただの邪魔な装飾でしかない。

「亮一さんと、もっと、早く会いたかったです」

 結衣は亮一の事を物心付く前から知っている。そのどうしても埋められない溝を、暗い色で表現したくなるのは、嫉妬というものだ。結衣にそんな気持ちを抱いたことに、可南子は自分が嫌になる。
 亮一が頑なに引き結んだ唇を指でなぞって、可南子は柔らかで弾力のある感触を指先で味わいながら微笑んだ。

「これから、もっと、知りたいです。誰よりも、たくさん」
「……時間はあるな」
「そうですね」

 亮一は、唇をなぞっていた可南子の手を握って、ふっと目を伏せる。

「……俺は、良い奴でも、優しい奴でもない」
「知ってます。結衣さんやご両親が、亮一さんを疑っているの、見てますから」
「それでも、俺でいいのか」

 亮一は厳しい実直さを和らげた、少年のような眼差しを可南子に向けた。自分を護る何かを剥がした亮一が、手の暖かさと合わさって、春のせせらぎのように、可南子の心に流れ込む。
 初めて彼氏が出来た時、相手をもっと知りたいと思った事を、あの時の甘酸っぱさと一緒に思い出す。合鍵を渡したのは、純粋にもっと一緒に居たかったからだ。単純すぎる、想いだった。
 亮一の目の中の強い光に、可南子は長く抑え込んでいた気持ちをしっかりと確認する。

「大好きなの。もっと、ずっと、いたい」
 
 深く、強く、永く、どこまでも。
 亮一が握っていた可南子の手を、自分の唇に触れさせた。

「結婚、してくれるか」
「今日?」

 可南子が微笑んで答えた途端、亮一は呆気に取られたように瞬きをした後、堪えきれずに笑い出す。

「何、どうして笑うの」
「いや、すまん、ちょっと待ってくれ」

 可南子の手は離さないまま、もう片方の手で顔を抑えて、懸命に笑いを抑えようとする亮一に可南子は抗議する。

「いつも、籍を入れるかって聞いてくるから」
「そうなんだ、悪い」

 可南子は笑ったままの亮一に抱き寄せられる。だが、可南子から抱き寄せたようにも思えた。
 たわわに実った好きという気持ちが、穏やかに、咲き誇り続ける。
 亮一の笑いにつられるように可南子も笑んで、長閑で強い抱擁に身を預けた。


◇==亮一視点==


 スマートフォンの通話終了にタッチすると『永田』という名前が消えて、アイコンが幾つも並んだ通常の画面に戻った。
 亮一は無情な笑みを浮かべて、スマートフォンをローテーブルの上に置く。マグカップに入った水を禊(みそぎ)のように飲み干し立ち上がると、寝室へと繋がるドアを開けた。遮光カーテンを使っていない部屋は、日の光を部屋に招き入れて、それなりに明るい。
 ベッドには今朝の激しい愛撫に溶けきった可南子がうつ伏せでぐっすりと眠っており、掛け布団から覗く白い肩には、花びらの様な痕が付いていた。その肩に掛け布団を掛けなおす。
 すると可南子が寝返りを打ち、睫に縁取られた瞼をゆるりと開けた。

「まだ寝ててもいいぞ」

 亮一の声に、虚ろだった可南子の目が姿を探すように動き、ベッドの脇に立ったままの亮一を捉えた。
 寝起きの小さな甘ったるい声で「……今、何時ですか」と可南子は亮一に聞く。
 
「十一時だ」
「じゅ……っ」

 昼近くの時間に、可南子は慌てて身を起こそうとした。
 可南子が裸であることを思い出す前に、亮一は視線をずらしながら、自分のスウェットのトレーナーを差し出す。

「あ、すいません。ありがとうございます」

 受け取った可南子が服を着ながら「ごはん、作りますね」と、今朝の事など無かったかのように振舞うので、亮一はつい意地悪を言いたくなった。

「シャワーはいいのか。すごい、濡れて」

 可南子は真っ赤になりながらベッドの上に膝立ちになると、脇に立っている亮一の口を手で塞ぐ。
 珍しく暖かな可南子の小さな手が唇に触れてきて、亮一はちゃんと覚えていたかと満足する。どこまでも愛らしく可南子に睨まれて、亮一は笑みを浮かべた。
 亮一の大きなスウェットは、可南子の太ももの半ばほどまで長さで、白い腿が艶かしく、それだけでもそそる。亮一はいろいろと我慢しながら可南子の手首を掴むと、口から手を外させた。

「シャワーを浴びたら食事に行こう。あと、今日中に可南子のジムの入会手続きに行くぞ」
「えっ、私もジムに行くの? そんな事、私、言った?」

 亮一が手首を離すと、可南子は大きな目をさらに大きくして、ベッドに座り込む。
 思い起こそうと、こめかみの辺りを抑えて視線を彷徨わせている可南子の頬に亮一は触れた。
 暖かくして眠っていたせいか、可南子の血色が良い。触れた指は程よい弾力で押し返される。

「今朝も体力が無くてごめんなさいって言って」

 また真っ赤になって口を塞ごうと伸ばしてきた可南子の手首を柔らかく掴む。
 乱れた呼吸もとぎれとぎれになり、それでも清くあり続る姿に魅きつけられ、花芯の路の奥を穿ち続けたが、可南子のいよいよの限界をみて、亮一はその身体を繋げたまま動きを止めた。
 その時、可南子が亮一の胸の中でまどろみながら言った言葉を、亮一は聞き逃していなかった。可南子も言ったことを覚えていたらしい。
 亮一は真っ赤になった可南子を愛おしげに見つめる。
 
「体力にはまず筋力だ。一緒のジムに行けば、一緒にいる時間も増える」
「一緒にいられるのは嬉しいけど」

 率直に可南子に「嬉しい」と言われて、亮一の表情が緩む。

「俺が一緒に居たいんだ。付き合ってくれないか」
「私の方が一緒に居たいですよ」

 可南子が亮一の服の袖を掴んで頬を膨らませた。思わぬ所で負けず嫌いを発揮してきたことに、亮一は笑ってしまう。
 亮一が可南子の髪を撫でると、可南子は吸い付くように亮一の背中に手を滑らせた。

「……じゃあ、がんばります」
「ほどほどにな」

 亮一はローテーブルの上に置いたスマートフォンを思い浮かべ、可南子を労わるように囁く。

「昼、何が食べたい」
「作っちゃだめ?」
「無理しなくていい」

 そう言いながら亮一は可南子の臀部を撫で上げた。
 夜は夜、朝は朝で、亮一は可南子の泥濘に猛りを埋め、丹念に自分を刻み付けた。
 記憶をくすぐるだけの弱い刺激に可南子が微かに呼吸を乱して、意図が伝わったと亮一はその手を背中に移動させる。

「無理、していないですよ」

 可南子は亮一の胸から顔を起こすと、濁りのない瞳を真っ直ぐに亮一に向けた。

「あの、その、嬉しいです。本当に」

 照れながらもにこりと微笑んだ可南子の表情には、時折見せていた迷いの一切が消えていた。
 可南子に向けられた微笑、放つ芳香に、身も心も溺れていることを亮一は自覚する。もう何度目だろうかと思う。

「なら、体力をもっと付けてくれ」

 冗談のつもりで言ったのだが、生真面目に「はい」と答えた可南子を、できれば安全な場所に隠しておきたいと思った。だが、無理な話だ。

「これから、嫌でも一緒にいることになる。……結婚の話も、進めないといけないな」

 可南子が亮一の胸元で「うん」と声を弾ませたのを聞いて、亮一は大きく息を吸い込んだ。すれ違うだけの三年間の渇きが満たされ、その後に訪れた、永遠の約束の快美に身を焦がす。

「でもね、一人で勝手に決めていかないでね。ジムの話もそうだけど」
「善処する」

 亮一の物言いに、くすくすと笑った可南子の唇を塞ぐ。甘い味だと思った。もっと味わいたいとも。

 ……一緒だ。

 亮一は、誰にも渡さないと、幸福に満たされた想いで、可南子を掻き抱いた。
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