優しい手に守られたい

水守真子

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涙の雫

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 亮一と二人で過ごす時間が増えると、可南子の亮一への想いはさらに深くなる。
 二人での生活も発見の連続だ。亮一の癖を知るにつれ、言葉が無くても、何を考えているのかがわかってきた。お腹が空いた、仕事の事を考えている、そんな些細な事が仕草でわかる時、可南子は亮一を更に知ることが出来た気がして嬉しくなる。恋にこんな奥深い感情があるとは知らなかったと、こそばゆく思う。
 一緒に暮らす期間が長くなると、浮かれていた気分も落ち着いて、仕事も以前のような通常の状態でこなせるようになった。
 磯田は相変わらず亮一に会わせろと言ってくるが、今は戯言として、赤面することなくかわすことも出来る。
 恋をしていても、日常は続くわけで、仕事をしなければ生活ができないのが現実だ。
 その現実を特に思い知るのは、週末に残業をしている時だったりする。
 オフィスの時計が十九時を指して、気づくと自分の周りから人が居なくなっていた。
 経理側の電気は消えているせいで、差し込む光の量が少なく、明らかに手元が暗い。
 可南子は苦く笑って椅子から立ち上がり、金曜日のこの時間に誰が残っているのかを確認するために、360度周りを見渡した。
 営業側にちらほら人が見えるくらいの人数に、疲れた顔でふぅっと溜息を付く。
 可南子に仕事を振ってきた磯田も、さっさっと帰って行った。椅子に座り、机の上の伝票をパラパラと親指で弾いて、可南子はげんなりとする。

 ……甘いものが食べたい。

 いつもお菓子をストックしている引き出しを開けると何も無く、あると思っていたものが無いことに軽く衝撃を受けた。
 オフィスのあるフロアの廊下の一角に、給湯室と同じくらいのスペースがあり、そこに菓子や菓子パンが売っている自動販売機があるのだが、各階にあるそれは品揃えが微妙に違う。
 可南子は何ヶ月か掛けて、早苗と品揃えの違いを網羅したので、好みの菓子がどの階にあるかを把握していた。
 甘いお菓子は基本的に苦手なのだが、細かい仕事をしている時だけは例外だ。
 途切れた集中力は、一口大のクッキーの上に厚いチョコが乗っている、甘いチョコレート菓子が必要だと主張してくる。
 だが、それは違うフロア、しかも上階の自動販売機にあった。
 可南子は真剣に悩んだ末、買いに行くことにした。
 夜の就業規範は緩く、煮詰まった残業の息抜きを理由にすれば、少し長めの離席も許される。
 就業時間後、送別等でケータリングを頼んだ時は、提供されたワインやビールをデスクに置いて仕事しても大丈夫なほどだ。

 ……階段を使えば、夜のチョコレートも許される、はず。

 早苗に言えば『気にしすぎ』だとか『もっと食べた方がいい』だとか責められることを思いながら、財布を持って可南子は立ち上がり、机の上の鳴らないスマートフォンを見て、持っていくかを考えた。
 亮一は会社の飲み会に参加しているので、連絡が来たとしても、もう少し遅い時間のはずだ。
 すぐに戻るので必要も無いだろうと、置いていくことにした。
 家に帰れば、必ず亮一と会えるのだ。その事に可南子は頬を緩ませる。
 オフィスを出て非常階段へ続く重い扉を開けると、蛍光灯がちらちらと光っているのが目に入った。
 只でさえ静かな場所が、夜の静寂に支配されている。少しだけ怖く思いながら、階段に足を掛けた。

「相馬さん」

 閉まるはずの重いドアが再びギィと開き、しかも名前を呼ばれて、びくりと身体が跳ねた。可南子はその勢いのまま声の主を振り返り、声を失う。

「……な、永田さん」
「あ、名前を覚えてくれていたんですね。光栄だな」

 早苗に連れて行かれた経理の飲み会で会った永田がいた。
 可南子はもう会う予定が無かった、しかも社外の人が居ることに唖然とする。
 目鼻立ちがきれいに整った永田は、ステンカラーコートの前を開けて、ビジネスバッグを持っていた。ウールカシミアのシンプルなコートの着こなしは堂に入っていて、若いときには出せない、熟した雰囲気を醸し出している。
 永田には四十歳という年齢を感じさせない若さと、年齢相応の落ち着きの両方があった。開けたコートから覗いている青のストライプのネクタイが鮮やかで、可南子の目に焼きつく。
 ドアが重い音を立てて閉まると、可南子の額に嫌な汗が浮かぶ。
 可南子は階段に掛けていた足を下ろして、足場を確保するように踊り場に立った。カツンと踵から滑った靴が床に当たって音を立てる。

 ……なぜ、ここに。

 可南子は長財布を強く握り締めて、長い睫に縁取られた大きな瞳を不安げに左右に動かした。
 勘違いでなければ、この間、永田に意味ありげな態度を取られた。
 可南子はスマートフォンを机の上に置いてきた事を後悔する。
 髪を耳にかけて、気を落ち着かせるように、小さな花柄のピアスに触(ふ)れた。

 ……『しつこいようなら俺に言えよ。追い払う』

 温泉で聞いた、亮一の独占欲を丸出しにした言葉が、耳元で聞こえた。
 可南子の全身を覆う緊張に配慮してか、永田は週末の夜とは思えない爽やかな笑顔で話しかけてきた。

「営業の方に用事がありまして、お邪魔していました。少し遅くなりましたが、今さっき話が終わって帰るところです」

 ……営業と、繋がってたの。

 同じ会社でも、部署によって取引している会社は基本的に違い、まったくわからない。可南子は自分が甘かった事を、歯痒く思った。

「……そうでしたか。お疲れ様です」

 永田は可南子の警戒心を解くような、間合いを取ってきていた。
 口調も距離もあくまで仕事の範囲で、個人的な気安さを排している。
 笑顔の中に先日垣間見た好意が無いことにほっと胸を撫で下ろしたが、夜の非常階段は誰も使わない。
 二人きりの状況から早く逃げ出したくて、可南子はしきりにドアに視線をやる。
 緊張が空腹の胃をぎゅっと締め付けて、気持ちが悪い。
 永田は可南子の姿を、やるせなさそうに目で一撫でして、口元を自嘲するように引き上げた。

「可南子ちゃんに、会えて良かった」

 自分を意識させるように、口調にゆっくりと熱を絡ませてきた永田に、可南子は冷や汗をかく。
 可南子は膝丈の黒のフレアスカートを握り締めて動揺を収めると、縮こまりそうな気持ちを伸ばすように背筋を正した。
 永田は黒のナイロンのビジネスバッグから茶色の封筒を取り出して、笑顔で可南子に差し出す。

「これ、喫茶店の時に預かったお金です。お返ししたかったので」
 
 あの日、確かに可南子は千円をテーブルに置いて先に喫茶店を後にした。
 すっかり忘れていた事に、可南子はゆるりと頭を横に振って、目の前に差し出された封筒から身を引く。
 可南子の髪がさらりと肩の上で空気をはらんで揺れ、永田は微かに目を細めた。

「いえ、あの、自分のコーヒー代です」

 タイトなタートルネックのセーターの胸の前で、可南子は自分を守るように財布を抱き締めた。
 ピンクのチークが、緊張で真っ白に青ざめてい可南子の顔色を何とか留めている。

「僕が持つと、話したはずですよ」
「こ、困ります」
「うーん、僕も困りました」

 永田は封筒を引いて、どうしたものかと、考え込むように腕を組んだ。
 ドアを塞ぐように立っている永田の横に、接触無く通り過ぎるような広さはどう見ても無い。
 どうしようと、可南子は桜色の唇を引き結ぶ。
 上に行けばいいのかと、可南子が階段の上を見上げると、あくまで仕事を思わせるような、硬めの声色で永田に話しかけられた。

「……可南子ちゃん。あの時が初対面じゃないって、思い出してもらえましたか」

 可南子が弾かれたかのように永田を見たのは、亮一を紹介された記憶が無かったほど、自分が男性を避けていたことに自覚があったからだった。
 永田は可南子の事情を知るはずも無く、二重の目元に皺を寄せながら笑みを浮かべる。
 笑みを浮かべているのに、永田の硬い表情が、場の雰囲気をますます悪くしていた。

「覚えていませんか。僕は瀬名さんが貴方を連れてきた事をよく覚えています」
「結衣さんの」

 結衣の飲み会にはよく誘われていた。
 営業に出入りをしているのなら、その飲み会の中に居てもおかしくないと可南子は青くなる。
 言われなかったとはいえ、完全に初対面として接していた。

「ご、ごめんなさい。失礼しました」
 
 慌てて頭を下げる可南子を、永田は少し悲しげに見つめる。

「いえいえ。営業の飲みの時は帰りに少し話をしただけだったし。覚えていなくてもしょうがないなと。貴方のそばに行きたかったけど、可南子ちゃんの横の席は取り合いみたいなものだったから」

 完全に避けたい雰囲気になったことに焦って、可南子は上に行こうと手すりに手をかけた。
 それを止めるように、可南子にだけに届くような永田の静かな声が、その場に響く。

「……可南子ちゃんの彼氏、見せてもらいましたよ。男から見ても『いい男』でした」

 誰からと聞くのも今更な気がした。結衣の結婚式で堂々と隠し撮りをされた亮一の写真は、誰が持っているのかも知らない。
 ただ、亮一を可南子の彼氏だと知っている人は限られている。可南子は早苗を恨めしく思いながら黙る。

「老婆心と下心の真ん中ぐらいかな。おじさんはね、ちょっと心配になって」

 ざわざわとする心を押さえ込むように、可南子は「あの」と強く口にした。

「私、仕事に戻らないと」

 ……自分で、どうにかしないと。

 表情を必死なものに変えた可南子に、永田は憂いを深くしたように眉間に皺を寄せた。

「僕はね、結婚を仄めかせ女性を縛った挙句、三十手前で振る男を見てきました。手前なら良い方かな。……可南子ちゃんはそれになっていませんか。貴方を見ている限り、ちょっと幼いから心配です」

 頭の中に氷水を流し込まれたような痺れが、言葉さえも凍らせた。
 心配という名を借りた言葉の攻撃を、楔を解いて柔らかくなった心はまともに食らう。
 違う、そう叫びたかった。
 それなのに、舌は絡まり動きを封じられ強張っている。

「男を信じた分、傷つくのは女性です。あなたは綺麗で愛らしい。それなのにどこか幼い。貴方が騙されていないかと心配です。利用されていませんか? 大丈夫ですか?」

 どうして、何も知らない貴方が、そんなことを言うの。
 可南子が驚きに目を見張り、呆然と永田の顔を見上げると、なぜか沈痛な面持ちで見下ろされた。

「彼は女に不自由をしたことが無さそうだ。……貴方が、彼が今まで接してきた女性に無いタイプで、だから、彼も好きだと思い違いをしているのではないかと心配です」

 好きだと思い違い。
 可南子の咽喉が乾き、唾液さえも口の中から消え失せる。

「彼が本気かもわからないまま……幼い分、純粋に、彼に恋をしていそうだ」

 永田の言う通り、自分は恋愛に幼いと思う。
 誰よりも可南子自身が愛想をつかされるのではないかと心配をしている。
 それなのに、亮一はとても辛抱強く相手にしてくれて、可南子が根負けするほどに好きだと伝えてくれる。
 可南子の拙さが個性だというように、楽しんでくれている気さえする。
 それに、愛していると、一緒に居ようと言ってくれた。

「彼が他の女性を選んだ時、貴方は立ち直れなくなる」

 ガツンと物理的に殴られたような衝撃に、可南子の目の前に火花のような光が散った。
 その時、ああ、と合点がいった。
 永田は、可南子の不安そのものを、口に出しているのだと。だから、心が痛いのだと。
 自分の陰が、実体を伴えば、きっと、こんな事を言ってくる。

「……ご心配、ありがとうございます。私、仕事に戻ります」
「可南子ちゃん」
「な、まえ、名前を、呼ばないで」

 今すぐ、亮一に名前を呼んで貰って、すべてを無かったことにしたい。
 階段を駆け上がろうとして、腕を掴まれた。
 永田の身体が、よろめいた可南子の身体を受け止める。まったく意図できなかった動きに、可南子は永田の胸板に倒れこんだ。可南子が身体を離そうとすると、永田の腕が、肩を抱え込む。
 ぞくり、と背中に寒気が走った。

 ……亮一さん!

 心の中で大好きな人の名前を呼んだ。
 抱き寄せられた胸板は厚いが、亮一よりも柔らかい。抱き寄せる腕にも、力はあってもそこまで硬くない。何もかも違う。

「は、離して」

 震えて出せた声は、小さい。
 ある種の欲を色濃く掻き立てるか細い声は、震えながらも、どこまで澄んでいた。
 永田の喉がごくりと鳴る。

「……僕に、しませんか」

 可南子が懸命に離れようとすると、永田は手に持っていた鞄を床に落として可南子を掻き抱いた。
 永田は背も亮一より低く、興奮したような短い息遣いも顔に近い。
 背けたくても抱きしめられて動けず、可南子がもぞもぞと動くたびに、離すまいと抱きしめられ身体が密着していく。
 強く抱きしめられる恐怖に、可南子の顔は既に真っ青だった。

「は、離して、お願い、離して」
「騙されているかもしれません。彼に、他の女が寄ってくるかもしれません」

 亮一の背後に、他の女の人の存在なら、いつでも感じている。
 結衣だけでなく亮一の両親でさえ、亮一を女の事で信用ならないという態度を取っていた。
 可南子を想っていた三年間にも、他の女の人を抱いたと言っていた。
 結衣の結婚式の時も、新婦側の女性招待客から熱い視線を受けていた。
 女の人が放っておかない人だということは、最初から知っている。
 だが、亮一が自分を騙していない事だけは、わかる。

「だ、騙されてません」

 言葉が永田のコートに吸い込まれた。
 永田の胸板に、強く抱き寄せられる痛みに、可南子の心は引きつって、千切れそうになる。

 ……亮一さん亮一さん亮一さん。

 離して欲しくて、怖くて、心細くて、可南子は心の中で何度も亮一を呼ぶ。
 氷のように冷たくなった手を永田の身体に押し付けて、身体を離そうとするが、その度に強く抱きしめ直される。

「他の女の」
「そんなのは、最初からわかってるの。言われなくても、わかってるんです」
「ほら、我慢をさせられているじゃないですか」

 永田の腕が、迷いを断ち切ったように動き、可南子の細い背中を撫で、忙しなく味わい始めた。
 踊り場の空虚な空間に、服と服が摩擦しあう音が僅かに響く。
 抵抗しても全て力で封じられる絶望に、可南子はひたすら亮一の名前を心の中で呼んだ。
 昔、壁に押し付けられた事を、身体が思い出して、恐怖が増幅していく。
 髪を触れられ、せり上がって来た嫌悪に、目の前が真っ暗になり気が遠くなる。
 腰のくびれを撫でられ、臀部に手が届くのではないかと、可南子の喉が引きつったが、身体の感覚は鏡の向こうの出来事のように現実感が無い。
 空気が薄いとぼんやりと思う。
 もっとしっかりしていれば、こんなことにならないのに。
 自分の存在を消し去りたいという強い思いが、現実と気持ちを乖離させていく。
 精神的にぎりぎりの所まで追い詰められ、恐怖に呑み込まれそうになる間際、浮かされたように、可南子の口が開いた。

「私が……彼を、好きなの。亮一さんは、私の恩人なの。優しいの。亮一さんじゃないと駄目なの」
「……そう、思い込まされているんだ。あの男が他の女を選んだら、貴方は、壊れてしまう」

 確かに、壊れるかもしれない。
 だけど。

「……亮一さんが、幸せなのがいい。その女の人を選んで、亮一さんが幸せなら、それでいい」

 可南子の目から溢れた涙が、色を失った頬の稜線に、雫のように伝った。
 身体に傷が付いても、心が壊れても、生きていける。
 私は、他の人よりも、ほんの少しだけ、それを知っている。
 亮一が居なくても、恋愛はできていたかもしれない。
 だけれど、こんなに深く好きだと思える恋になる事は、無かったと思う。
 それだけでも、ありがたく思う。

「あの人が幸せなら、それでいい」

 ……でも、そばにいるのは、私でありたい。

 抵抗する気力も失せ、身体から力が抜けていく。
 永田の腕の中に、気持ちが抜けた空っぽの身体が、崩れるように倒れこむ。
 気を失うように目を瞑ると、可南子の目から、はらはらと、涙が零れ落ちた。
 
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